青い月と白いたんぽぽの話
ちょっと行き詰まっている人
たまには空を見上げて下さい。
答はいつだってその近くに落ちています
廃れたる園に踏み入り
たんぽぽの白きを踏めば
春たけにける
北原白秋と言えば短歌が有名だ
私がこの句を始めて聞いたのは
何時だったか
たしか、高校の問題集だったっか…
句の意味としては別に体したことはない
荒れはてたわが家の庭に
踏み入ってみると春の草が
青々と生え花を落とした
たんぽぽが白い綿毛をつけている。
靴にふれて散る綿毛をみると
逝く春ということをしみじみと感じる
日本の散りゆく文化を
隅々にまで詠った
綺麗で面白味に欠ける句だった
とある本の中で
この句にもう一度出会った時
私はすっかりとその意味を忘れていた
その本の中で繰り広げる謎解きに
この句がひとつのキーワードになっていた
九州から転校してきた少女が
描いたタンポポは
何故か白色だった
小学校の担任教師は
タンポポは黄色のはずでしょう
そういっても、女の子はただ首を振る
偶々、その場に居合わせた
主人公の女子大生は
白いタンポポもきっとある
彼女を肯定した。
少女はきっと嬉しかったのだろう
否定されるものを認めてくれて
自分を肯定されて
この話には最後に
実にこの作者らしい
謎解きが付け加えられていた
それが、この句だった
散りゆく春…
大胆にもここに反旗を
翻してみるというものだった
「春たけにける」
「ける」は連体形「けり」である。
その「けり」には
関節過去と詠嘆の2つの意味がある
前者の句の訳は関節過去であるから、
それを詠嘆の「けり」に置き換えてみる
また、『長けり』と詠めたものを
あえて、『猛り』へ換えてみる
"これは自分の庭での出来事である"
"活用語の連用形につくときはほぼ詠嘆"
この2つを念頭に置いて
再訳してみると
春も盛りであることだなぁ!と
180°違った答えが出てくる
つまり、白秋が目にしたのは
散りゆく春の綿毛たちではなく、
可憐に咲き誇る白いタンポポだったのだ
白秋は比喩で白きタンポポと言ったのか
むろん、そうかも知れない
もしかしたら本当の綿毛だったのか
あり得る話だ
だが、白秋の故郷が南であったのと
九州南部に本当に咲く
シロバナタンポポの存在は
偶然なのか一致していた
タンポポは黄色
白色になると終わり
そんな先入観があった為だろうか
白=タンポポ=綿毛
こんな方程式は必然だった
ああ、綺麗な句だな
それだけで終わってしまいそうな
美しい句を
真っ白に塗り直したのは
誰でもなく、この作者だろう
兎角言う私も
この間同じような経験をした
ハロウィンの月を画用紙に
子どもと作っていた時
ある子の青い月を見て
幾人かの子どもらが
変な色だなと口々に言い始めた
青い月なんて『実際には無いもの』だ
と。
ブルームーン "once in a blue moon"
英語の諺で『決してあり得ないもの』
というそうだ。
それを作っていた男の子は
黙ったまま何も言わなかった
愛想笑いだけが少し重そうだった
青い月はあるよ
私はまだ見たことないけど
いつか君が見つけたら
きっと教えてね
そう彼に掛けた言葉は
ただの肯定の意味しか持たない
どう答えたら良いものか…
いまだに謎である
でも、もしあの時ウンチクを語っていたら…
大気中の塵の影響によって
月が青く見える現象があるんだ
だから、青い月は本当にあるんだよ
なんて語っていれば、正解だったのか
科学に固めらた真実に
身を焦がすのは
いつだって大人たちだ
何故、海は青いのか
何故夕焼けは赤いのか
どうして、林檎は落ちるのか…
いつだって手の届くところに
謎は転がっていた
そしてその謎は
自分で解かなくては面白くない
タンポポが黄色だなんて誰が決めた
卵の色は紫で
ひよこの色は水色だ
型にはまった色を使うより
ぐちゃぐちゃに混ぜこんだ
絵の具を使ってみたい
彼は今日も空を見上げるのだろうか
いつやってくるかも分からない
青い月にいつかは出会えるのだろうか。
君はどうだろう?