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【2】
私の通う高校で不穏な噂がまことしやかに囁かれ始めたのは七月に入ったばかりの事だったと認識している。
その噂は、近づく夏の気配に浮き足立っていた私たちにそれなりのインパクトを与えた。
それでも噂は噂。
所詮はただの作り話。
平和すぎるこの穏やかな日常にほんのりスパイスを利かせた程度。
やがて噂は語られなくなり、肥大して都市伝説となることもなく、二週間で立ち消えた。
だから――私がこうして、その噂と対峙しなければ、思い出すこともなかっただろう。
七月末尾。夏休みはもうとっくに始まっている。その日は友達と学校の屋上で天体観測をしようという計画だった。
午後十一時。待ち合わせ時間だ。友達はまだ来ない。スマートフォンに映るデジタルな文字盤を眺めながら溜息をこぼし、連絡帳を開いて、メールを一通送る。もちろん催促の文面だ。
そして、月でも眺めようと顔を上げた時だった――
屋上に一つの人影。月明かりが、まるでスポットライトのようにそいつを照らしている。
一瞬、友人がすでに屋上へ行っているのかと考えた。でもそれはどうやら違う。その長身なシルエットは、私の友達のものではない。辛うじてだけど、男性であることも認識できる。
その人は肩を落として、屋上の淵に佇んでいる。とても嫌な予感が脳裏をよぎって、それで私は逃げるように噂を思い出す。
落下地点に死体を残さない少年の存在を思い出す。
噂を鵜呑みにするのなら、この少年は今から屋上から飛び降りる―-がしかし、地面に触れると同時に姿を消してしまう。目撃者に言わせれば、幻影を見ているようなものらしい。
でももし、噂通りの事象が私に降りかかっているのではなく、ただ単に自殺志願者に遭遇しただけだとしたらどうだろう?
あの少年がそのまま飛び降りて、命を落とす瞬間をここでただ見ていることになるのではないか?
考えがまとまるより先に、脚が地面を蹴りだしていた。
そもそも屋上へは天文研究部の部員しか入れないはずで、その点から言っても今私が見た少年は噂通りの幻影である可能性が高い。
でもその可能性は高いだけで0ではないのだ。私は常に最悪の状況を考えて行動したい。
さすがにこの時間帯、通常の玄関は閉まっているので非常階段を全速力で駆け上がる。屋上にたどり着くには五階建て相当の階段を上らなければならない。時間の猶予はない。右手で額から吹き出す汗を拭いながら、左手でポケットに入っている屋上の鍵を掴む。すり減るスニーカーの底を気にすることなく、踊場でのターンを華麗に決める。
その先に捉えた屋上の扉は開け放たれていた。
穏やかじゃないな――そう思った。
嫌な予感というものは大抵当たってしまうものだけれど、なんというか、今私が感じているのは、悪いことが起こりそうという予感ではなくて、悪いことが起きている、という実感そのものだった。
肌で不吉を、不幸を、感じている。
残りの階段を踏みしめて、恐る恐る屋上の様子を確認する。落下防止の為に張られるフェンスなどはなく、そこにはまっさらなコンクリートの床と、貯水タンクがあるくらいだ。
街灯の明かりが届かない代わりに、月が私を照らしている。
問題は、照らされているのが私一人ではないということで、やはりそこには少年が、たった一人で星空に臨んでいた。
どうしようもない負のオーラを纏ってである。
相手はこちらに気付いているのだろうが、気にかけるような素振りはない。下から見た時と寸分違わぬ位置で静止している。
声をかけなくてはいけないと思った。
でも、いざ何かを発しようとすると、言葉がないことに気付く。何を伝えればいいのか分からないのだ。仮に自殺志願だったとして、私がお節介で口出しをする権利があるのだろうか? そんな下らない疑問まで湧いてくる始末だ。
ただ単に、この状況に怖気づいてしまっていた。
とにかく、距離を詰めてみる。それぐらいの些細な抵抗をしてみる。無心で脚を前へ伸ばす。
「……めん」
とそこで、声が聞こえた。微かに漏れたその声は恐らく「ごめん」と、謝罪の言葉を意味していた。
「悪いけど帰ってくれないかな」
少年は続ける。
「あまり人が好きじゃないんだ。どうか独りにしてほしい」
前を向いたまま、少年は小さな声で言った。声は小さくとも、その意志は、はっきりと伝わってきた。
そして私は申し訳ない気分になる。どう考えても、この少年を置いて帰ることは危険だということを分かっているのに、彼の時間を邪魔してしまったことを後悔してしまう。このまま踵を返して、素直に帰るべきなのではないかと思ってしまう。
それぐらい、この少年の声は悲痛に満ちていた。
でも、それだけではない。悲痛なだけならば、私はここで大人しく帰ったかもしれないのだ。この少年の願いを素直に聞き入れていたのかもしれないのだ。
だけど、どうやらそれは、叶わぬ願い。
私はその悲痛な叫びの裏に、どうしようもないほどの卑屈さを、途方もない諦めを悟ってしまった。
勘違いかもしれない。それでも、確証を得られるまでは引き下がらないと静かに決心した。
「じゃあ嫌いなの?」投げ掛ける問いは、もう決まっている。「人を好きじゃないなら、嫌いなの?」
「……」少年は沈黙を決め込む。
判断材料など皆無に等しかった。言葉とは裏腹に、この少年が人とのつながりを求めているのではないかという疑問を持ったのは直感と言っていい。
ただ一つ、「ごめん」と謝罪から入ったのだ。そして「悪いけど」と続けたのだ、この少年は。私を拒絶することを悪いと思っているのだ。それは社交辞令という名の定型文だったのかもしれない。それでも、人を思いやる気持ちがあるという可能性に私は賭けたかった。
「本当は、独りが嫌なんじゃないの?」
初対面の男性に、随分と踏み込んだ話題を振っているのは承知している。それでも私は質問を続けるのを止めない。
「私なにもできないけどさ。話ぐらいなら聞いてあげられるから。だから――」
「僕は――」
私の言葉を遮って少年は声を上げる。
「僕は、不幸なんだ。不幸は人に伝染する。だから、みんなと一緒にはいられない。もちろん君ともだ」
言い終えて、少年は飛び降りた。
というよりも、実に自然に、ゆっくりと傾き、頭から地面に向かって落下した。
夜の静寂が、私を押しつぶそうとしている。