見続ける男
まだ朝日の登らぬ時間に、ジョバンニ少年は家を出た。
コートを羽織って出たものの、海岸近くの家の周りには風を遮るものは何もなく、容赦なくジョバンニ少年に冷たい風は吹きつけるのであった。
ジョバンニの頭からは、昨日の話が離れることがなかった。ティートから聞いた話は昔に実際に起こったことなのだが、ジョバンニ少年にとっては昔話と同じであった。しかも、そのシルヴィオという男は今現在も生きていて、毎日あの桟橋の先に座っているのだ。好奇心旺盛なジョバンニ少年はティートとかわした約束をすっかり忘れて、過去に起こった謎多き事件に興味津津だった。
家を出て海岸沿いにある道をずっと歩いて行くと、道は海岸線と共に段々と右に曲がっていく。すると正面に港が見えてくる。ちょうどここからは、港全体を一望できる。停泊している船も、フジツボ食堂も、そして桟橋も見える。
その桟橋の先に一艘の小舟と、一人の男が座っているのが見えた。ジョバンニ少年は意気揚々とその港へ向けて歩を進めていった。
桟橋に辿り着いたジョバンニ少年は、その先に腰かける男の背中を見ていた。
いつも見ていた風景の一部だった男が自分の目の前にいるこの状況に、ジョバンニはほんの少しの違和感を感じていた。この桟橋の周りだけ異界のような、怪しい空気を醸し出している。それは間違いなくあの男が、シルヴィオが発している空気だ。
ジョバンニは話しかけるのをためらって、しばらくつっ立っていた。
「おい、ボウズ」
不意に発せられた声は目の前に座るシルヴィオの声に違いなかったが、以前としてシルヴィオは背中をジョバンニに向けたままであった。
ジョバンニは意を決して、シルヴィオの隣へと歩み寄った。初めてみる、いつも見ていた男の横顔。ぼうぼうと伸ばした髪の毛は殆どが白髪で、日焼けした浅黒い肌にはたくさんの皺が刻みこまれていた。しかし、眼だけは若々しく、その眼は真っすぐに水平線を見つめている。
「ボクのことかい?」
ジョバンニがそう言うと、シルヴィオはニヤッと笑った。
「お前以外に誰がおるんだ?しかし、人に話しかけられるのは何年振りかしらん」
そう言うとカラカラとシルヴィオは笑った。ジョバンニはシルヴィオという男が、自分が想像していたよりも全く普通な人間だと思った。皆が話していた奇妙な逸話も、別の男の話なのではないかと思い始めてもいた。
「ボクはジョバンニ。おじさんはシルヴィオさんでしょ?」
「そうだともジョバンニ、誰から聞いたね?」
「そこの食堂のおじさんからね」
「あぁ、ティートのやつか。あいつは口軽いからいけねえ」
ジョバンニはこのやり取りの間、終始シルヴィオの顔を見ながら話していたが、シルヴィオの眼はずっと海を見たままである。
「こんなに朝早くから散歩かね。言われんでもわかってると思うが、朝の港はこんなに寒いんだ。はやくウチへ帰ってもう一度ベッドにお入り。今帰れば学校へいくまでに、もうひと眠りできるぞ」
ジョバンニを追い返そうとするシルヴィオの言い方にムッとした顔をすると、聞いたこっちゃないとジョバンニはシルヴィオの隣に座るとしばらくの間、無言で一緒に海を眺め続けた。
しばらく無言が続いたが、シルヴィオがおいジョバンニと呼びかけた。
「ワシと話しちゃいかんと、大人達から言われていただろう。それなのに何でここへ来た?」
「シルヴィオさんは、いつもこの桟橋の上で海を見てるでしょう?どうしてかなあと思って、他にやることはないのかなと思って」
ジョバンニの真っすぐな質問に、シルヴィオはしばらく黙っていた。
「なあジョバンニ。君以外の人が、君と同じようにワシに話しかけてこないのは何故だかわかるか?」
「それは……その……みんなシルヴィオさんをオカシイ人だと思ってるから。……悪い意味で」
シルヴィオはこくりと頷いた。
「そうだとも。ワシもワシ自身の行動に理解できん」
「どういうこと?」
「ワシは何も好きで毎日毎日、海を見ているわけではない。見なければならんのだ。見続けなければならんのだ」
ジョバンニは、シルヴィオの話す言葉の意味が分からなかった。シルヴィオが話したのは、まるで自分の行動が自分の意志ではないようなというような言い方をしたのだ。
「これから話すことは、おとぎ話のようなことだが――全て本当のことだ。聞いてくれるな?」
ジョバンニは背筋にうすら寒い何かを感じながらも、こくりと頷いてしまった。
するとシルヴィオは、海を見つめたまま過去を語り始めた。