レイニーデイ 素直になるまで三メートル
ぐずついていた空がとうとう大泣きし始めた帰りの事だった。
「傘って害悪だと思わないかしら」
高校の昇降口で傘を開いて帰路に着こうとしていた僕に、後ろから声が掛けられる。
振り向くと、特徴的な長めの三つ編みを垂らした彼女が、これまた特徴的な据わった眼で僕を見ていた。
「……いきなり意味解んないんだけど、うた先輩」
「傘は、自然の恵みである循環のシステムを否定しているのよ片桐君」
とん、と敷かれた簀子に軽い音を立てて彼女は下駄箱の前に立つ。
本宮詩葉。
同級生。
綽名は『うた先輩』。衒学的な話し方と、クールな見た目から名前を捩ってのネーミングでミーニングは特に無い。
雰囲気だけだ。正直、彼女の性格を表しているものじゃない。寧ろ逆だと僕は思う。
「濡れたら風邪引くじゃん」
「代わりに人類からは耐性が消えたわ」
靴を出し、上履きを脱いで仕舞う。僕の方を見ずに伏目にうた先輩は続ける。
「こう考える事は出来ないかしら? ヒトは、身体を冷やさず雨中に躍り出る知恵を身に付けた代わりに、雨を凌ぐ場所での時間を減らした。故に、室内という場での発展を遅らせたと」
「そりゃ、インドア派のうた先輩の一方的な意見じゃん」
小さな足を革靴に収めてから彼女は何故か爪先で地面を叩く。革靴なのにスニーカーみたいな履き方をしていた。
「人類の進化は風雨を避けられる場所があったからこそだというのに?」
僕の反論にむっときたのか、うた先輩は睨み付ける様に言う。因みにデフォルトの表情だ。
高校生にしては角張った喋り方のせいで、彼女はファーストインプレッションにきつい印象を持たれやすい。けれどもセカンドインプレッションでは、殆どの人がそれを覆すのだけど。
話している内に段々とうた先輩の中身はまるで、その見た目とは正反対だという結論を下さない人は居ないし、だからこそギャップに萌えるって連中も居る。
つまるところ彼女はちぐはぐだ。
「その場所だって雨風凌いでるから、うた先輩の意見とは食い違わない?」
『うた先輩』なんて、まるでインプレッショニストみたいな言葉を紡ぐ人間の様な呼ばれ方をされているけど、実際のところは彼女の口から出るのはリアリストみたいな言葉だ。
印象派的なのに中身は写実派的。自分で言っておいて判り難い。
だからと言ってまぁ、うた先輩は別にリアリストって訳じゃないのがまたちぐはぐだ。
「そんな事は無いわっ」
少し口調を強め、うた先輩は僕の真ん前に立った。
「片桐君は何も解っていないわ。傘は斯くも雨粒を弾き、人の身体に付く筈だった水分を逃しているのよ。滲み込むべき水を追い遣る事と、室内で元々雨を受けない事は全く違うのよっ」
「いや別に結局水飲めばいいじゃん」
「……っ!」
思い掛けない反撃を受けた様な顔で一歩後ずさるうた先輩。
次の手を考えているのか、彼女は苦い顔で歯噛みして今度は確かに僕を睨む。
「それでも……傘はこの世界にとって不要なものよ!」
「随分規模デカいね」
「雨の中、傘を差さずに踊る人間がいてもいい……自由というのはそういうものなのよ! 傘は私達を束縛する!!」
「元ネタと意味違うんだけどそれ」
っていうか、何でロボットアニメの名台詞なんて知ってるんだろ。
「えーと……結局何が言いたいの?」
「傘は害悪よ」
「判ったから。傘をどうしたいのかって意味でさ」
訊くと、うた先輩は俯きがちに僕の隣まで来た。そして外で降る大雨を見て寂しそうに言う。
「――傘は、私に嫌な思いをさせるのよ」
「それって……、どんな?」
「……余り、言いたく無いの。ごめんなさい片桐君、八つ当たりだったわ」
うた先輩は鞄を持った二の腕を、右手でぎゅっと掴んだ。
沈黙。
学校の帰り道の昇降口で、やけに雨音が響く中、僕はうた先輩に掛ける言葉を探していた。彼女は、傘にまつわる過去を反芻しているのか、ずっと押し黙ったままだった。
僕は手持ち無沙汰に手に持った傘を軽く遊ばせながら、雨に濡れてもいないのに寒そうなうた先輩をただ見ていた。
微妙な距離感。
ちょうど僕の持つ傘からはみ出している三メートル。そんな僕と彼女の距離だった。
「……うた先輩」
「……何かしら、片桐君」
重い響きの返答。
もしかしたら、これは酷い言葉になるかも知れない。
だけど、僕は彼女の為に思い切って言った。
「傘、忘れたんだね」
「っ!?」
うた先輩は図星の顔で、恥ずかしさで顔を真っ赤にした。
だよね。そうだよねやっぱり。
帰る準備してるのに傘置きから傘取らないから変だと思ったんだよ。
知的なしっかり者みたいな見た目と喋り方なのに物凄い天然だから、どうせそんな事だと思ったよ。
その癖、変に遠回しに自分のミスを誤魔化そうとするしさ。全く、うた先輩のファンはギャップ萌えっていうかただのドジッ子萌えじゃないの?
「はぁ……一緒に帰る? 僕と同じ傘に入るのが嫌じゃなければ、だけど」
彼女の返事は消え入りそうで聞こえなかったけど、恥ずかしそうに「うん」と確かに頷いた。