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放課後、同期

作者: azulene
掲載日:2026/04/19

六時間目の終わりを告げるチャイムは、いつもより半拍だけ遅れて鳴った。


 それに気づいたのは、たぶん俺と白石だけだった。窓際の席で英単語帳を閉じかけていた白石が、ふっと顔を上げる。俺はシャープペンの芯を折ったまま、黒板の上の時計を見ていた。秒針は十二を過ぎている。けれどスピーカーから流れたチャイムは、俺たちが「もう鳴る」と思った瞬間から、ほんの少しだけ置いてきぼりにされたみたいだった。


「いま、遅くなかった?」


 白石が小声で言った。俺は頷きかけて、周りを見た。担任は出席簿を閉じ、男子たちは部活の話をして、女子たちは小テストの点で笑っている。誰も気にしていない。


「気のせい、かな」


「佐野くんも見てたじゃん」


「見てたけど、俺の体内時計は信用できない」


 そう言うと、白石は少し笑った。笑ったあと、すぐに目を伏せた。最近の白石は、そんなふうに笑いを途中で片づける。前ならもっと雑に笑っていた。体育館裏に生えた謎のキノコに名前をつけたり、購買の焼きそばパンが水曜だけ薄味になる理由を真剣に考えたりしていた。


 春に同じクラスになってから、俺たちはよく話した。けれど夏休み前、俺が県外の大学を志望していると漏らしてから、会話は少しずつ短くなった。白石は地元の短大に行くつもりらしい。母親の店を手伝うから、と一度だけ言った。それ以上は聞けなかった。


 放課後、俺は物理準備室に呼ばれていた。文化祭で使うプラネタリウム投影機の配線係を押しつけられたのだ。白石も美術部のポスターを運ぶ途中で、なぜか準備室の前にいた。


「また遅れた」


 彼女は廊下の時計を指した。今度は俺にもはっきりわかった。秒針が十二に届いた瞬間、校内放送の予鈴が鳴るはずだった。なのに音は、針が一秒進んでからやってきた。


「録音の機械が古いとか」


「校内全部?」


 言い返せずにいると、準備室の中で低い唸りがした。蛍光灯が一度だけ瞬き、棚のガラスがかすかに震える。俺たちは同時にドアを開けた。


 部屋の中央に、銀色の箱が置かれていた。理科教師の古い実験道具だと思っていたそれは、配線をむき出しにしたまま、青白い光を吐いていた。上には手書きの紙が貼られている。


「局所時相補正装置、試作二号」


「先生、何作ってんの」


 白石が呆れた声で言った。俺は笑おうとして失敗した。装置の横のモニターに、見慣れた校舎の平面図が映っていたからだ。教室、廊下、体育館、グラウンド。その上に小さな点が無数に瞬き、それぞれに数字がついている。


「マイナス〇・八秒、プラス一・二秒……」


「人ごとに、時間がずれてる?」


 白石の声が少し震えた。


 その瞬間、廊下から歓声が上がった。窓の外を見ると、グラウンドでサッカー部のボールが空中に止まっていた。いや、止まっているように見えた。ボールだけが遅く、周りの生徒たちが先に動いている。次の瞬間、遅れてボールがゴールネットを揺らした。誰かが叫び、誰かが拍手する。その音も、少しずつずれて重なった。


 装置は学校中の時間を、ほんの数秒だけばらばらにしていた。


「止めよう」


 俺が手を伸ばすと、白石が腕を掴んだ。


「待って。これ、何か同期しようとしてる」


 彼女が指差した画面の端には、赤い警告が出ていた。


 同期臨界まで十七分。


 意味はわからない。けれど数字が減っていくのはわかった。十七分後、学校全体のずれが一つに戻る。たぶん、そのとき何かが起きる。


 俺たちは説明書を探した。白石は棚から古いノートを引っ張り出し、俺は配線を追った。ノートには、装置の目的が書かれていた。災害時、建物内部の時間差を調整し、避難経路の混雑を緩和する。理屈は壮大で、字はやたら丸かった。最後のページだけ、殴り書きだった。


 未同期者が複数いる場合、最も強い未解決感情に時相が引き寄せられる。


「未解決感情って何」


「宿題とか?」


「だったら三年全員で時空が曲がる」


 白石がまた笑った。今度は途中で片づけなかった。俺はその顔を見て、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。


 モニターの点のほとんどは、同じ色に近づいていた。けれど二つだけ、青と赤に分かれて強く光っている。準備室にいる俺たちの位置だった。


「俺らか」


「みたいだね」


 沈黙が落ちた。装置の唸りだけが、雨の前の空みたいに低く続く。


 同期臨界まで九分。


「何か、言ってないことがあるってこと?」


 白石はノートを閉じた。彼女の指先に、ポスターの絵の具が少しついていた。夏の青みたいな色だった。


「佐野くん、県外行くんでしょ」


「受かれば」


「受かるよ。そういう顔してる」


「どんな顔だよ」


「ここにいない顔」


 言葉が刺さった。否定したかった。けれど俺は、何度もそんな顔をしていたのだと思う。駅のホームで、進路室で、授業中の窓の向こうで。遠くへ行くことばかり考えて、目の前にいる白石を置いていく練習をしていた。


「白石は、残るのが嫌じゃないの」


 言ってから、しまったと思った。彼女は一瞬だけ目を細めたが、怒らなかった。


「嫌だよ」


 短い声だった。


「嫌だけど、母さん一人だし、店もあるし、奨学金とか、いろいろ考えると、嫌ってだけじゃ動けない。だから、佐野くんが遠くを見るたびに、いいなって思った。嫌いになれたら楽なのにって思った」


 装置の光が強くなる。廊下の向こうで、誰かの足音が三重に聞こえた。同じ足音が過去と現在と未来から歩いてくるみたいだった。


 同期臨界まで五分。


「俺は」


 喉がつかえた。白石が俺を見ている。チャイムの半拍の遅れに気づくような目で。


「俺は、行きたい。でも、行くって決めるたびに、白石と話せなくなるのが怖かった。応援してほしいとか、待っててほしいとか、そんな都合のいいこと言えないし。だから先に距離を置いた。置いたら平気になると思った」


「平気になった?」


「全然」


 白石は息を吐いた。笑っているのか泣きそうなのか、わからない顔だった。


 そのとき窓の外が白く光った。グラウンドの生徒たちが、同時にこちらを向く。いや、校舎中の人間が、わずかな時間差を抱えたまま、同じ瞬間へ引き寄せられていた。廊下に貼られた文化祭ポスターが逆再生みたいに壁へ戻り、落ちていた消しゴムが机へ跳ね上がり、誰かの笑い声が先に結末だけ響いた。


 同期臨界まで一分。


「止め方、たぶんこれ」


 白石が装置の下の赤いレバーを見つけた。けれどラベルには、手動同期、と書いてあるだけだった。未解決感情が残ったまま同期すると危険、という走り書きもある。


「つまり、言い残すなってことか」


「乱暴な機械」


 俺たちは同時に笑った。


 残り三十秒。


 俺は白石の手を取った。初めてだった。指先は冷えていたが、握り返す力は強かった。


「好きだ」


 言った瞬間、世界の音が一つ減った。重なっていた足音がほどけ、蛍光灯の唸りが近くなる。


「俺は行く。でも、白石を置いていきたいわけじゃない。勝手だけど、遠くへ行っても、ちゃんと話したい。今日みたいに、気づいたことを最初に言いたい」


 白石は目を伏せた。今度は笑いをしまうためではなかった。


「私も好き」


 その声は小さかったのに、校舎のどのチャイムよりはっきり聞こえた。


「でも、待つ約束はしない。佐野くんの未来にぶら下がりたくないし、私の未来も店番だけで終わらせたくない。だから、私は私で進む。進みながら、話す。それでいい?」


「それがいい」


 残り五秒。


 二人でレバーを下ろした。


 世界が、一度だけ息を止めた。


 次の瞬間、チャイムが鳴った。ぴったり、秒針が十二を指した瞬間に。グラウンドの歓声も、廊下の足音も、教室のざわめきも、ばらばらだったものが一つの放課後に戻ってきた。俺たちは準備室の床に座り込み、顔を見合わせて笑った。理由の半分は安堵で、半分は、もう逃げなくていいと知ったからだった。


 翌日、物理教師は「装置? ただの湿度計だよ」と言い張った。銀色の箱は棚の奥で、何食わぬ顔をしていた。俺たちは追及しなかった。ただ、チャイムが鳴るたびに少しだけ互いを見る癖がついた。


 秋になり、白石は県外のデザイン専門学校の資料を取り寄せた。俺は志望理由書を書き直した。二人ともまだ何も手に入れていない。受験も、家のことも、将来も、全部これからで、不安は律儀に毎朝やってくる。


 それでも放課後、駅までの道を並んで歩くとき、俺たちの歩幅はたまにずれる。白石が早くなったり、俺が遅れたりする。そのたびに、どちらかが気づいて笑う。


 完全に同じ時間を生きることは、たぶんできない。


 でも、ずれたら言えばいい。遅れたら待つのではなく、声をかければいい。未来がどちらへ伸びても、今この半拍を聞き逃さなければ、俺たちは何度でも同期できる。

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