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「繭ちゃん。」
長くて短かかった高校生活最後の夏休みも終わりを告げ、気持ちも新たに始まった2学期。
センター組の放課後課外の日数が増えてから、繭は一人で学校を出ることが多くなった。
出来のいい友人ばかりを持つと何かと寂しい思いをするらしい。
通常の学校の授業を終えると、今日も憂鬱な一人下校の時間を迎えたところだった。
校門の外に停まっていた高級車には、すぐに気がついた。
それが誰の車であるのかも、薄々検討はついていた。だから校門を出て歩き出した矢先、背後から繭を呼んだのが誰かということも、振りかえる前から分かっていた。
「久しぶり。」
そこそこ上手く笑えたと思う。その証拠に、隆も安堵したように笑い「久しぶりだね。」と返してくる。隆からの電話を全て無視している手前平然としているのも気が引けるのだが、隆が繭を責めるためにここにいるのではないことが窺えると、心の中でホッと息をついた。
「少し時間もらえない?。」
時間はある。たっぷりある。というのも今日に限ってバイトが入っていないからだ。友人たちですらしっかりと把握していない繭のバイトの予定を、当然隆は知りもしないだろう。
「いいけど。」
いずれ隆とはきちんと話をする必要があると思っていた。出来ればこのまま話をせず、忘れていければとも何処かで思っていた。良かったような、良くなかったような・・・。気分は複雑でも、すでに隆はここにいるのだ。逃げ出すわけにはいかない。
隆に促され、久しぶりに乗る助手席の座り心地に懐かしさを感じて微かに笑うと、訝しげに繭を見た隆に、何でもないという意味をこめて首を横に振って見せた。何処に行くのかと尋ねれば、しばらく唸っていた隆が「俺の部屋でもいいかな?。」と申し訳なそうに言う。
「絶対に何もしないから。ただ二人でゆっくり話しが出来る場所が、他に思いつかなくて。」
部屋に誘っているのに、絶対何もしないという男のセリフほど胡散臭いものはない。隆の場合、本気で手を出す気がないと十分わかっているけれど、このセリフはあまりいただけないなと、苦笑しながら承諾した。
隆が一人で暮らしているというマンションは、学校から程遠くない場所にあった。意外と繭の家からも近いことに驚き、よく今まで偶然会わなかったものだと頭痛がしてくる。隆と会って間もない頃、この辺りのマンションの前で隆はこういうところに住んでいそうだと冗談まじりに思ったものだが、どこまでも予想を裏切らない隆が「ここだよ。」と指したのは、この辺りでも超がつくほど高級で有名なタワーマンションだった。
マンションの敷地内にある駐車場に停めた車を降りた後、ビクビクと怯みながら隆の後をついていく。慣れた手つきでオートロックをはずした隆が、まるでそれが当たり前のようなさりげなさで、繭の右手をとった。初対面の日からどこを歩くときでも手を握ってくる隆だ。あの時とは事情は違えど今更驚きもしない。むしろ、手を握られたことで安心している自分の方に、繭は驚きを隠せないでいた。
広い広いエントランスとロビーを抜け、エレベーターにのりこむ。ゆっくりと上を目指しのぼっていく中で、足が竦む。高いところは嫌いだ。ようするに、高所恐怖症。顔色を悪くする繭に気がついたのか、隆が「大丈夫?。」と声をかけてくる。大丈夫ではないけれど、我を失ってしまうほど酷いわけでもない。多少顔を引きつらせながらも、黙って頷いた。握っている手が汗ばんでいることは、きっと隆も気がついているだろう。変なところで弱みを見せてしまったと気にしている内に、エレベーターのランプが23階を点滅させ、静かに扉が開いた。
さすが高級マンションというべきだろうか。玄関の鍵は2重ロックになっている。泥棒が入っても盗む物がない繭の家では、家族全員の防犯意識が薄すぎる。2重ロックどころか、たまに玄関のドアの鍵が開けっ放しになっていることもあるぐらいだ。物珍しそうに見ている繭を見て、隆が笑いをこらえたような声をだす。そんな隆を不快に思いながらも、促されるままに部屋の中へと足を踏み入れた。
外観から想像したほど、中は広さを感じなかった。通されたリビングから他の部屋へ続くドアは2つ。2LDKと見てまず間違いはないだろう。全体的に物は少ない。今まで入ったどの男の部屋よりも、センスも良いし綺麗に片付けられている。
「適当に座って。」と言いながら、置かれているアイボリー色の2人掛けソファを隆が指した。言われるがままにソファに座ると、部屋の窓のカーテンが開き、外の光が射し込んでくる。あの窓からはきっと、素晴らしい景色が眺められるのだろう。絶対近づきたくはないけれど・・・。
飲み物はオレンジジュースでいいかと問われ、繭はコクリと頷いた。お気遣いなくと言いたいところだが、喉はカラカラに渇いている。ホテルのレストランのボーイを思い出せるスマートさでトレーにジュースとコーヒーをのせて戻ってきた隆が、ガラスのテーブルにそれらを並べ、繭の隣に腰をおろした。「ありがとう。」とジュースを口に含みながら、顔を上げた先にあるテレビが大きすぎることにまた驚く。さすがに薄型テレビぐらいは繭の家にもあるが、これほど大きなものではない。一頻り部屋の観察を終え、本当に隆がお金もちなんだということが改めて分かると、隣で一緒に並んでいることに申し訳なささえ感じてきた。
「髪、少し伸びてきたね。」
「え?あー、うん。」」
本来なら一カ月に一度は行く美容室も、ストレートになって手間がかからなくなったせいで、隆に連れて行かれたのを最後に行っていない。言われてみれば確かに伸びたかもしれないなと、無意識に髪に手が伸びる。
「あの美容室、繭ちゃん気に入らなかったみたいだから、今度また別のところ探しとくよ。」
笑顔でそう言う隆の『今度』という部分が引っかかり、繭は隆と視線を合わせた。
今度なんてあるわけがない。今日繭は、隆との関係を終わらせる為にここにいるのだから。
それに気づいたのだろう。「あー・・・。そうだよね・・・。」と隆が声のトーンをおとした。
「あの時・・・俺と元の話・・・聞いてた?。」
今更隠しても仕方がないことだ。隆も確認の為に聞いてきたんだろうと、繭は頷く。
「そうか・・・。そうだよね・・・。」
何か考えているのか、言葉を選んでいるのか、部屋の中に、大きな身体を小さく丸めた隆の息を吐き出す音だけが響いた。
「あのさ、私、恵の代わりにはなれないよ?。」
「・・・いや、代わりなんて、繭ちゃんは繭ちゃんだし・・・。」
「私は圭吾の・・・中岡くんの代わりにしようとしてたよ、隆くんのこと。気づいたでしょ?私、あの人がずっと好きなんだよ。でも、満たされないの。圭吾が私を好きにならないことが分かってるから。だから他の人で埋めようとして・・・。だけど、違うんだよね。やっと分かったよ。誰も圭吾の代わりになんかなれなかった。」
一気に言い切った繭に、隆が唖然としている。それはそうだろう。繭は今まで一度だって、隆にはっきりと自分の意思を伝えようとはしてこなかった。まして、自分が誰かの代わりだったと断言されたのだ。例え気がついていても驚くだろうし、もしかしたら、傷つけてしまうかもしれない。それでも言わなければならないのだ。先に進むためには、避けては通れない路がある。
「もういいでしょ?隆くん。本音で話そうよ。そのために隆くんは私をここに連れてきたんでょ?。」
「待って、繭ちゃん。ちょっと待って。俺は・・・。」
「だからもうさ、いいんだって。私も隆くんと同じなんだし、傷つかないから。」
「ちが・・。」
「私は圭吾が好き。隆くんは恵が好き。それだけなんだよ。私たちの間には最初から何もない。何もないんだから、終わることだって・・。」
「待てって言ってるだろ。」
人間誰しも大なり小なりそうだろうが、感情が高ぶると隆は命令口調になるらしい。怒鳴られたのは今日で2度目。ホテルで笑うなと言われ、今日は待て、と。
怒鳴られれば、やはり怯む。でも不思議と恐く感じないのは、隆の人柄をよく知っているからだろう。
「確かに、恵ちゃんのことは好きだよ。元から彼女だと紹介されたときからずっと。恵ちゃんに紹介したい子がいるって言われたときには、少なからずショックもうけたし・・・。だけど、最終的に繭ちゃんを紹介して欲しいと恵ちゃんに頼んだのは、俺だから。」
「・・・え?。」
「繭ちゃんのことは、事前に恵ちゃんから聞いてた。とは言っても学校で噂されている程度のことだけどね。どうしてだろう?と思ったんだ。すごく興味がわいて、繭ちゃんに実際会ってからは、余計に分からなくて。こんなに可愛い子なのに勿体無いなぁーって。」
興味本位、面白半分。被害妄想なのか、繭にはそう聞こえてしまう。好奇心旺盛なんですね、と皮肉の一言でも言ってやろうかと思ったが、バカらしくなって口を噤んだまま隆の話の続きを待った。
「繭ちゃんに誘われたときには、さすがに参ったよ。そんなつもりじゃなかったし、恵ちゃんのこともあったから・・・。でもあの時、ホテルで会った彼への繭ちゃんの態度を見て、やっと繭ちゃんのことが分かったんだ。繭ちゃんが、何ていうか、すごく・・・。」
「可哀想だった?。」
「え?。」
「可哀想な女って、同情した?。」
自分はなんて勝手な生き物なのだと思う。繭が隆に抱いた思いが、そのまま自分に返ってきただけだというのに何故こんなに頭にくるのだろう。同情なんてされても全然嬉しくない。同情しているのが隆だというのが、余計に頭にくる。
「違うよ、俺は繭ちゃんを・・・。」
「もういい。聞きたくない。」
「繭ちゃ・・。」
「聞きたくないって言ってるの。同情なんかされたくない。何が繭ちゃんのことが分かった?分かるわけない。隆くんなんかに絶対分かるわけがない。私はこれでいいから。圭吾のことを好きで、圭吾に抱かれて他の男に抱かれて、私はこのままでいいから。私の事抱けもしないくせに、もう私の邪魔しないで、かきまわさないで。」
いいわけない。いいはずがない。圭吾の代わりはいないと言いながら、このままでいいと言っている。矛盾していると気づいたのは言ってしまった後で、取り乱したことを恥ずかしく思ったのは、それよりもっと後だ。
視界がぐらんと揺れて、背中がソファの上で弾む。腕が自由にならないことに気づいたとき、隆に押し倒されている現状を把握した。絶対に何もしないと言っていた人の顔が、苦しそうに歪む。
「抱けばいいわけ?いいよ。それで繭ちゃんが救われるなら、俺がその役引き受けてあげるよ。」
違う、そうじゃない。その役は、隆じゃだめだ。圭吾以外の男は、皆、繭より格下でなければならない。例え男たちの本心が違おうが、繭に優しくして、気をつかって、繭を抱くために平気でプライドを投げ捨てる。そういう男でなければいけないのだ。繭を自由に扱えるのは、圭吾だけ。そうして差をつけることで、自分が圭吾以外の男と関係を持つことに納得してきた。繭を抱いて傷つく男なんかに、繭の傷を癒せるはずがない。
言葉を発す前に、唇は塞がれていた。制服が上に捲し上げられる。恐くはない、全然怖くない。それどころか・・・泣けてくる。
目を瞑らずに、ただ隆の顔を見つめていた。苦しそうに歪む顔。そうさせているのは繭なのか、それとも・・・。
「もう・・・やめなよ。」
隆の手が動きを止める。やっと繭の顔を見た隆は、寂しそうにも、安心しているようにも見えた。
「大人だね・・・。繭ちゃんは。」
倒れるように繭の胸に顔を埋めてきた隆が、力なく呟き。気がつけば繭は、隆の頭に手を伸ばしそっと撫でていた。これが母性本能というやつだろうか。随分と大きな子供だけど。
「俺を助けてよ、繭ちゃん。」
やっと搾り出したような隆の声は、震えていた。
これがこの人の苦しみ。
今までずっと抑えてきた想い。
「いいよ。」
隆に繭が必要だとは思わない。繭にも隆が必要だとは思わない。だが、それはそれでいいのだろう。必要か必要じゃないかなんて、そんなのどうでもいい。今、隆が助けを求めているのは、繭だ。そして繭もそれに応えようとしている。これが全て。今はこれでいいのだろう。
「助けてあげる。だけどそれには、。」
どうしても、やっておかなければならないことがある。