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一度誰かに甘えてしまうと、自分をコントロールするのが難しくなるようだ。
手にしたバイトのシフト表を見つめ、ひどく疲れが襲ってきた。
繭の名前の隣には、必ずといってよいほど中岡の文字。今更ながら、きついな、と思う。
圭吾と過ごす時間が、好きだった。圭吾の働く姿をすぐ傍で見ることが出来るのは、自分だけの特権だと思っていた。一度知ってしまった甘い関係を、自ら切り捨てることは出来ない。それでも今は、きついな、と思う。
すぐそばにいるのに、手が届かない相手。自分の気持ちを隆に知れられたことで、如実にそれを実感してしまった。分かっていたはずなのに。結局どこかで、僅かな期待を捨てきれずにいたのだろう。
「バカだよね。」
呟いた独り言が、身体に染みわたる。中岡の文字を指でなぞって、本当にバカだ、とあらためて思う。
だが、ガチャリと開いたドアの音に、そのまま思考も指も停止した。振り返った先にいたのは、簡単に予測出来た顔。夕立にでも降られたのだろうか、ブレザー姿の圭吾が湿った髪をかきあげた。
「あれ?何してんの。」
表にもいかず。という意味だろう。
店の制服には着替え終わっている。いつもなら、手の洗浄を終えて表に立っている時間だ。
「今暇だから、先にシフト表チェックしてといて、って店長が。」
圭吾の顔をまともに見ることが出来ない。シフト表に目を戻しながらサラリと告げると、「あーそう。」と圭吾の声が、背中から聞こえる。
「見せて。」
すぐ後ろに気配を感じ、背中と心臓が一体化してしまう。伸びてきた腕が繭の頬をかすめ、長い指がシフト表を奪い取る。圭吾にとっては何でもない行為。いちいち翻弄される自分に腹が立つ。
「テスト期間は外してもらわないとな。繭のところは?テストあるんだろ?。」
「あるには、あるんだけど・・・。」
偏差値の高い圭吾の高校では考えずらいかもしれないが、繭の高校の3年の定期考査は内申稼ぎのためだけに行われる名ばかりのテストである。センター組に余計な煩わしさを与えないため。その他進学組や就職組は、内申さえ稼げればそれでいいから。というのが、学校側の主張らしい。そのほとんどが推薦で決まるその他進学組は、内申を稼ぐ方が優先なのだと、個人面談のときに担任が自信満々に言っていた。つまりは、バイトを休む必要性を全く感じないのだ。
簡単にそのことを説明すると、「へぇ」と圭吾が口元を緩ませた。
「俺もそっちの高校に行けばよかったかな。」
冗談めいた口調から、本心ではないことぐらいすぐに分かる。「バカにしてる?。」と笑いながら真意を問うと、「分かった?。」とあっさり肯定された。
圭吾の高校に落ちて仕方なくこちらの高校に通っている人間が聞けば、憤るどころでは済まないかもしれない。勉強があまり好きではない繭には、どーでもいい話だが。
「というわけだから。」
「え?。」
突然髪を手で梳かれ、少しだけ解けていた緊張が戻った。
「来月は忙しいから、今日あたり行っとく?。」
耳元でそう囁かれれば、意識しなくとも身体は竦む。
今までなら、一も二もなく圭吾を優先してきた。こうして誘われることが、あれだけ嬉しかったというのに。
「ごめん、今日・・・見たいテレビが。」
咄嗟に言い訳を思いつかず、テレビって・・・、と心の中で自分で自分にツッコんだ。誰かと約束があるとは言いたくなかった。実際、約束なんかないけれど、圭吾より別の誰かを優先していると思われたくはなかった。だからといって、他に言い訳になる用事を思いつくわけもなく、たまたま頭に浮かんできたのが、テレビだった。
「俺って、テレビ以下?。」
苦笑しながらも、それ以上追及してこない圭吾にホッとする。圭吾の誘いを断るのは今日が初めて。実は内心ビクついていた。二度と関係を持たないと言ってるわけではない。ただもう少し、傷を癒す時間が欲しい。
「着替えてくる。」と踵を返した圭吾を見送る。繭も表に出るために、休憩室の明かりを消した。
始まりは、注文の聞き間違えだった。次がレジの打ち間違え。最後に巻きすぎたソフトクリームを完成させたところで、店長から「もう上がっていいよ。」と声がかかった。
「飯塚さん、身体の調子でも悪いの?。」
身体のどこにも異常はない。ボーッとしていたわけでも、ひどく不安定な状態を持続していたわけでもないはずだ。ただミスをした瞬間には必ず、視界の中に圭吾がいたというだけだ。バイトの初日ですら、こんなにミスはしなかったというのに。男一人に、ここまで振り回されている自分が恨めしい。
「いえ、大丈夫です。すみません。」
「あとは片付けだけだし、中岡と二人で大丈夫だから。今日は早く帰って身体を休めなさい。」
店長は嫌味でこんなことを言う人ではない。本気で心配されているんだと、申し訳なさで一杯になる。これ以上自分がここにいても迷惑をかけるだけだ。店長の優しい言葉に甘えて、先に上がらせてもらうことにした。
「すみません、それじゃお先に失礼します。」
すでに片付け作業に入っていた店長と圭吾に声をかけると、「お疲れ様。」と返ってくる。
重たい足を引きずりながら、自宅トイレのスペースすらない更衣室で着替えを済ませた。
店の外に出てからも、一向に足は動かない。
片づけを終えて出てくる圭吾を待つために、圭吾のバイクがとまっている駐輪場の隅にしゃがみこむ。圭吾にもたくさん迷惑をかけてしまった。せめて一言ぐらいきちんと謝らないと、帰るに帰れない、そんな気分だ。
近づく夏を意識させる、なまるい暑さは気持ちが悪い。
明日は雨がふるのだろう。
星も月も出ていない夜空を見上げ、寒くもないのに自分の腕をさすっていた。
7分袖の白いカットーソーは、隆に買ってもらったもの。女の子らしいデザインなんて、自分には似合わないと思っていた。最近服の趣味が変わったのには、間違いなく隆の存在が影響している。隆の選んでくれた服は、よく似合っているといつも周囲から褒められる。自分が似合うと思うものと、他人が繭を見てそう思うものとでは違うらしい。隆に出会って、初めてそのことを知った。
開いた携帯電話は、ショッピングセンターの閉店時刻を表示させている。
こちら側から照明を確認することは出来ないが、警備員室隣の専用出入り口から、一人、また一人と家路につく従業員の姿が目に入る。
しばらくして出入り口から出てきた圭吾の髪は、すっかり乾いてサラサラと揺れていた。薄暗い照明でも、白い肌は透き通る。本当に嫌味なぐらい綺麗な男だ。
「あれ?。」
しゃがみこんでいる繭に気づいた圭吾が、バイクに荷物を放り投げ、繭のもとに近づいてくる。すぐ目の前に同じようにしゃがみこみ、茶色い瞳が繭を映す。
「具合悪い?。」
店長の言葉を真に受けているのだろう。繭は首を横に振ると「ううん。」と返した。
「何か、ごめんね。いろいろ迷惑かけて。一言謝っときたくて待ってた。」
テンションの落ちた声は、自分で聞きとるのが精一杯なぐらい小さくしか出ていない。それでも圭吾は聞き取れたようで、「別に。」と素っ気なく返しながら、繭の髪に腕を伸ばす。クルクルと指に髪を巻きつけて遊んでいたのは、ほんの僅かな間。
「痛っ。」
急にグイッと引っ張られて、痛みで顔が歪んだ。
「この髪って、あいつのせい?。」
「あいつ?ってか何?離して。」
「この間の島村とかいう男。あいつのせいなんだろ?。」
「違うってば。本当に痛いから、離してよ。」
目に涙まで浮かぶのに、圭吾は髪を離そうとしない。表情を変えない綺麗な顔は、何も伝えてはこない。
引っ張られた髪ごと顔を持ち上げられ、そのまま束で抜けてしまうのではないかと思うほどの痛みがはしった。
「あいつは止めとけ。」
「・・・何で。」
「気にいらない。」
髪を離されたと同時に引き寄せられ、そのまま唇を塞がれる。
噛みつきそうな勢いのキスに、頭の中がボンヤリとしてくる。ねっとりと、でもしっかりと絡んでくる圭吾の舌。二人の唾液が混ざり合い、音をたてる。
らしくない。
こんなに何かにこだわる圭吾を、今まで一度だって見たことがない。
「似合わない・・・その服も・・・髪も。」
唇が少し離れた瞬間に、圭吾の口元が苦しそうに動く。
「男一人の為に貞操ぶるとか・・・。」
すぐにまた塞がれて、離れる。その繰り返し。
圭吾が何を言いたいのか。なぜ隆にこだわるのか。呆けた頭では、答えは到底導き出せそうにない。圭吾を覚えいる身体だけが、そのままの圭吾を受け入れていた。
「そんなつまらない女じゃないだろ?繭は。」
今日は一体なんだというのだろう。
繭も圭吾も、全然らしくない。