愛さえあれば、お金がなくとも幸せになれると言ったのはあなたでしょう?
「ヴィクトル、本当に行くのね?」
「ああ」
街が一望できる、小高い丘の上。
私は幼馴染のヴィクトルと二人で、沈みゆく夕陽を眺めていた。
ヴィクトルは明日から、東方にある大陸一の大国、エクーフラ帝国に使節団の長として旅立つことになっている。
近年エクーフラで採掘されている、ニャッポリートという貴重な鉱石を、我が国にも輸入させてもらえるように、交渉に行くのだ。
もしそれが実現すれば、我が国の総資産は数倍になるとさえ言われている。
……だが、この交渉は相当難航するのではないかというのが、風説だった。
いったいどれだけの月日を要するのか、見当もつかない。
それどころか最悪の場合、気性の荒いエクーフラの皇帝に、使節団の長は斬り捨てられてしまうかもしれないなんて噂まであるのだ。
ずっと同じ時を過ごしてきたヴィクトルにもしものことがあったらと思うと、私はここ数日、夜もろくに眠れていなかった……。
「ねえヴィクトル、もう一度だけよく考え直して。わざわざこんな危険を冒してまで、あなたがエクーフラに行く必要はないじゃない? あなたのご実家は、十分資産にも恵まれているのだし」
ヴィクトルは名門伯爵家のベルレアン家の次男で、跡取りでこそないものの、将来生活に困ることはないはずだ。
端正な容姿をしているので、婿養子を探している上級貴族の令嬢からも、引く手あまただろうし……。
「確かに俺個人の人生だけを考えたら、ここまでする必要はねーよ。……でもさリリアーヌ、この国には俺以外にも、数え切れないくらいの人が住んでるんだぜ?」
「――!」
ヴィクトルは両手を広げ、眼下に広がる街並みを包み込むようなポーズを取った。
……ヴィクトル。
「特にあそこの貧民街に住んでる連中は、文字通り明日食うパンもないような、毎日暗闇の中を手探りで歩くような生活を強いられてるんだ。そんなのはとても、豊かな人生とは呼べないだろう? それもこれも、仕事と金が足りてないからだ。もしもエクーフラからニャッポリートが輸入できるようになれば、仕事も金もバンバン増える。そしたら飢えで苦しむ人間は、今よりもずっと減るさ。――そのためだったら、命を賭ける価値はあるってもんだよ。これが俺の貴族としての矜持――ノブレス・オブリージュだ」
嗚呼、あなたは昔から変わらないわね、ヴィクトル。
常に自分のことよりも、周りの人たちがどうしたら幸せになれるのか、そればかり考えてる――。
「なあに、ベルレアン家のことは兄貴に任せておけば安心だし、最悪俺が死んでも、特に支障はねーよ」
「――! そんなことはないわッ!」
「……! リリアーヌ……」
私は零れそうになる涙をグッと堪えながら、真っ直ぐにヴィクトルを見つめる。
「あなたがもしも死んでしまったら、深く傷付く人間もたくさんいるのだということは、どうか忘れないで……」
私のこの言葉が、ヴィクトルに届きますようにと、切に祈りながら――。
「……ありがとう、リリアーヌ。あ、あのさ、もしも俺が無事にこの仕事を終えて帰って来たら、その時は――」
「――!」
ヴィクトルがいつになく真剣な瞳で、私を見つめる。
こ、これは――!
「あ、ゴメン、やっぱ今のはナシ。無責任なことは言うべきじゃないよな」
「ヴィクトル……」
ヴィクトルは照れくさそうに、ガシガシ頭を掻く。
「今の続きは、俺が帰って来てから改めて言うからさ。どうかリリアーヌも、俺の仕事の成功を祈っててくれよ」
「ええ、毎日祈ってるわ」
あなたの無事を――。
――こうしてヴィクトルは無邪気な笑顔を浮かべながら、エクーフラに旅立ったのだった。
そして数ヶ月の月日が流れた。
「リリアーヌ、お前に大事な話がある」
「――!」
リビングでぼんやりと窓の外の東の空を眺めていた私に、お父様が声を掛けてきた。
――この時私の背中を、悪寒が走った。
「やっとお前の婚約者が決まった」
……嗚呼、やっぱり。
お父様に差し出された釣書を開くと、相手はバラチエ伯爵家の次男、エリクだった。
エリクの歳は私の一つ下で、夜会で何度か会話をしたことがある。
どこかフワフワした印象で、如何にも世間知らずなお坊ちゃまという感じだった。
御しやすそうな性格といい、我が家に婿養子に迎えるうえでは、妥当だと判断されたのだろう。
――私の胸を、一瞬だけヴィクトルの影が走った。
ヴィクトルは今この時もエクーフラで、身を粉にしてノブレス・オブリージュを果たそうとしているのだ。
――だったら私も貴族の家の娘として、同じようにノブレス・オブリージュを果たさねば。
私にとってのノブレス・オブリージュは、エリクと二人で我がネルヴァル領を守り立て、領民たちが飢えに苦しむことがないような基盤を築くこと――。
「承知いたしましたお父様。この婚約、謹んでお受けいたします」
私はお父様に、深く頭を下げた。
「うむ、頼んだぞ、リリアーヌ」
お父様は一つ頷いてフウと息を吐くと、自室に戻って行った。
ふと窓の外に視線を向けると、東の空を分厚い暗雲が包もうとしていた――。
「もう、遅いわね、エリクったら」
――私とエリクが婚約してから、数ヶ月が過ぎた。
今日は王家主催の、大事な夜会当日。
だというのに、開場の時間になっても一向にエリクの姿が見えず、私は入口で一人待ちぼうけしていた。
この夜会は婚約者のいる令嬢は、婚約者にエスコートされて参加するのがマナーとされているので、エリクが来ないと私は会場に入ることさえできないのだ。
「ゴ、ゴメン、リリアーヌ!」
「――!」
その時だった。
ゼエゼエ息を吐きながら、汗だくのエリクが現れた。
「……何をしていたのエリク? 今日がどれだけ大事な日なのかというのは、あなただってわかっているわよね?」
「あ、そ、それはもちろん! ……でも、昔の仲間たちと、ついついカードゲームで盛り上がっちゃってさ。気が付いたらこんな時間になってたんだよ。あはははは」
――なっ!
カードゲームですって――!!
「あなた正気なの? 遊びに夢中になって貴族としての責務を疎かにするなんて、ノブレス・オブリージュの精神が、あまりにも足りてないわ」
「だ、だからこうして謝ってるじゃないか! ……そんなにギャンギャン怒らないでくれよ。ハァ、テンション下がるなぁ」
「……!」
こ、この男は――!
……いえ、冷静になりなさい、私。
今何よりも優先すべきことは、この夜会をつつがなく終えること。
ここで言い争って無駄な時間を使うのは、得策ではないわ。
ただでさえ私たちは後れを取っているのだから。
「もういいわ。行くわよエリク。私をエスコートしてちょうだい」
「あ、うん」
私はたどたどしいエリクのエスコートにやきもきしながらも、会場に入って行った。
「……ハァ、疲れたぁ」
一通り主要なご来賓の方々への挨拶を終えた私たちは、会場の隅で一息ついていた。
「……エリク、まだ気を抜かないで。どこで誰から見られているか、わかったものではないのだから」
この会場にいる間中は、常に監視の目に晒されていると思っていたほうがいい。
一瞬たりとて気を抜いてはならないのだ。
「はいはい、わかってますよ。――ん? あの子は……」
「え?」
エリクが一人でポツンと柱に寄りかかっている令嬢に、目線を向けた。
小動物を彷彿とさせるような、とても可愛らしい容姿をしている。
あまり見かけない顔ね……。
私も一通り貴族令嬢の顔は、頭に入れているつもりだけれど。
「ねえ君、一人?」
「え? 私ですか?」
「ちょ、ちょっと、エリク!?」
エリクが令嬢に声を掛けてしまった。
こういう場で男性が一人でいる女性に声を掛けるのは、マナー違反だというのに……!
「あ、はい。……私は婚約者もいない、独り身ですから」
「へえ、そうなんだ。君、名前は? 僕はエリク・バラチエっていうんだ」
「え!? あ、あの名門伯爵家のバラチエ家のご令息でらっしゃいますか!? こ、これは失礼いたしました! 私はギルメット男爵家の次女、クロエと申します!」
クロエ嬢はたどたどしいカーテシーを披露した。
ああ、なるほど。
ギルメット家といえば、つい最近まで商家だったのが、爵位を買い取ったことで男爵家になった家だ。
だから見覚えがなかったのね。
「はは、そんなに畏まらないでよ。クロエはこういう場に参加したのは初めて?」
「は、はい、ですから、右も左もわからず、途方に暮れてしまって……」
「うんうん、その気持ちよくわかるよ。誰でも最初はそうだからね。僕でよかったら何でも訊いてよ。力になるからさ」
「え! よろしいんですか!」
……なっ!?
「……エリク、ちょっと」
「ん? 何だよリリアーヌ」
私はエリクの袖を引き、耳打ちした。
「わかってるの? あなたは私の婚約者なのよ? だというのに他のご令嬢と親しげにしているところを誰かに見られでもしたら、あらぬ誤解を招くじゃない。そうしたら、あちら側にもご迷惑がかかってしまうわ」
「ああ、何だそんなことか」
そ、そんなことって――!
「大丈夫、大丈夫。別にやましいことをしてるわけじゃないんだから、言いたい奴には言わせておけばいいのさ」
「……!?」
「それこそこれも人助けの一つだと思ってさ。ホラ、君がいつも言ってる、ノブレス・オブリージュってやつさ」
なっ!?
こんな軽はずみな行為とノブレス・オブリージュを、一緒にしないで――!!
「あ、あのぉ、私のことは別に、放っておいていただいて結構ですので……」
クロエ嬢は気まずそうに、こちらを窺う。
「ああ、大丈夫、大丈夫! 彼女はちょっと、お腹が空いてイライラしてるだけだから」
「はぁ……」
私がイライラしてるのはあなたによ――!!
……結局この後エリクは一時間近くクロエ嬢と、会話に花を咲かせていた。
「いやあ、それにしても先週の夜会は楽しかったなぁ。また行きたいなぁ」
「……」
あの夜会から一週間。
今日は我がネルヴァル家で、エリクと二人でお茶を飲んでいるのだけれど、エリクはさっきからずっと上の空で、先日の夜会の話しかしていない。
あなたが楽しかったのは、夜会じゃなくクロエ嬢との会話でしょう? という言葉が喉まで出かかったが、不毛なので我慢する。
それよりも――。
「ところでエリク、ネルヴァル領についての座学は、進んでるんでしょうね?」
将来エリクはネルヴァル家に婿に来て、跡取りになる男なのだ。
つまりネルヴァル領の領主となるのだから、自分の領のことくらいは、誰よりも詳しくなっておく必要がある。
「え? あ、ああ、もちろん。ぼちぼち進めてるよ」
本当かしら?
「じゃあ問題ね。ネルヴァル領の特産品といえば?」
「は!? と、特産品!? え、えーと、えーと、それはぁ……」
噓でしょ……!
こんな基本的なことすら知らないなんて……!!
「お、お嬢様!」
「「――!」」
その時だった。
メイドが大層慌てた様子で、駆け込んで来た。
「どうしたの? 何かあったの?」
「あ、はい……! ――ヴィクトル様が、お越しになっております」
「――!!」
ヴィクトルが――!!
「よっ! リリアーヌ、久しぶり! ちょっと痩せたか?」
「……ヴィクトル」
玄関先で久方ぶりに再会したヴィクトルは、いつも通り屈託のない笑顔を浮かべていた。
「いつ帰って来たの? 連絡くらいくれればよかったのに」
「いやあ、ついさっき帰って来たばかりでさ。お前の驚く顔が見たくて、コッソリ駆けつけたんだよ。ハハ」
もう、そういうところは、変わってないわね……。
「……でも、無事でよかったわ」
本当に……。
本当によかった……。
「ああ、お前が祈っててくれたお陰だな。――やっとエクーフラとも話がついた。ニャッポリートを、輸入させてもらえることになったよ」
「――!!」
あ、あぁ……!!
ヴィクトル――!!
「あれ? あなたはベルレアン家の、ヴィクトルさんですよね?」
「「――!!」」
その時だった。
私の後をついて来たエリクが、キョトンとした顔でヴィクトルに声を掛けた。
「……君はバラチエ家の……エリク君、だったか? 夜会で何度か会ったことがあるよね? なんで君がここに……。まさか――!」
この瞬間、ヴィクトルの顔が、絶望で染まったように見えた。
「…………婚約したの私、エリクと」
私は絞り出すように、やっとそう口に出した。
口の中がカラカラで、息をするのも辛い。
「……そ、そっか。……うん、おめでとうリリアーヌ。よかったじゃないか、優しそうな人で」
「ヴィクトル……」
ヴィクトルは今にも泣きそうな顔で、くしゃっと笑った――。
「ヴィクトルさんて、リリアーヌとお知り合いだったんですね。何だ、そうならそうと、リリアーヌも教えてくれればよかったのに」
「え、えぇ……」
「俺の親父と、リリアーヌのお父上が旧友でね。その関係で、子どもの頃から家族ぐるみの付き合いをしてたんだよ。まあ、兄妹みたいな間柄ってやつかな」
「ああ、そうなんですね」
ヴィクトルはせわしなく目線を泳がせている。
自分の気持ちを誤魔化す時の、ヴィクトルの癖だ……。
「エリク君、リリアーヌのこと、よろしく頼むよ。……どうか幸せにしてあげてほしい」
「あ、はい」
……ヴィクトル。
「じゃ、お邪魔虫はそろそろ退散するわ。悪かったな、大事な二人の時間に水を差して」
「ああ、いえいえ、どうぞお気になさらず」
「……またな、リリアーヌ」
「……ええ、またね、ヴィクトル」
ヴィクトルは私たちに背を向け、颯爽と去って行った。
……一度も振り返ることはなかった。
そしてヴィクトルが帰って来てから、二ヶ月ほどが経った、ある日。
「あ、あの、お嬢様……」
「?」
リビングで本を読んでいた私に、メイドが大層気まずそうに声を掛けてきた。
「どうかしたの?」
「そ、それが……エリク様がお越しになっております」
「エリクが……?」
今日はエリクが来る予定はなかったはず。
――この時私は、とある予感がした。
「やあ、リリアーヌ、ゴメンね急に」
「――!」
玄関先でエリクに会って、私は予感が当たったことを確信した。
――エリクの隣には、クロエ嬢が佇んでいたからだ。
「……エリク、あなたまさか」
「ああ、うん、そのまさかなんだ。君には本当に申し訳ないとは思ってるんだけど――僕はクロエのことが好きになってしまったんだ。だから君との婚約は、どうか破棄させてほしい」
……嗚呼、やっぱり。
「申し訳ございません、リリアーヌ様! 許されぬこととはわかっているのです! ですがどうしても、エリク様への気持ちが抑えきれなくなってしまったのです!」
クロエ嬢は涙ぐみながらも、力説する。
許されぬとわかっていながら我慢が効かないなんて、それは貴族令嬢としてどうなのかしらという言葉が喉まで出かかったが、最早不毛なので飲み込む。
「僕もだよクロエ! 僕は君のことを、心から愛している! ――この気持ちだけは、たとえ神様にだって否定させやしない!」
「エリク様……!」
二人の遣り取りは、まるでクサい三文芝居みたいだ。
頭がお花畑状態の人間を傍から見ると、こんなに滑稽なのね。
「……本当にいいのねエリク? このことをあなたのお父様が知ったら、大層お怒りになると思うけど。そうしたら最悪あなたは勘当されて、二度と貴族としての生活は送れないかもしれないわよ?」
「ああ! それでも構わないさ! 愛さえあれば、お金なんかなくとも幸せになれるってことを、証明してみせるよ! ねえ、クロエ!?」
「え? え、ええ、そうですね」
クロエ嬢のほうは、一瞬だけ焦ったような顔をしたけど、まあ、私の知ったことではないわ。
「わかったわ。そういうことなら、私からは何も言うことはないわ。この婚約破棄、お受けします」
「おお! 話が早くて助かるよ、リリアーヌ!」
「私のお父様には、私から話は通しておくから、どうぞ今日のところはお引き取りになって」
「ああ、悪いね。じゃあ、行こうか、クロエ」
「あ、はい!」
仲睦まじく去って行く二人の背中を、私はどこか冷めた目で見ていた。
あの後、私とエリクの婚約は、正式に破棄された。
婿養子に来るはずだったエリクが堂々と浮気をしていたのだから、さもありなんといったところだ。
この件でエリクは、案の定バラチエ家から勘当されてしまったらしい。
今ではどこで何をしているのか、杳として知れない。
まあ、私も別に興味はないし。
「……ふう」
今日私は、あの日エクーフラに旅立つヴィクトルと最後に会った小高い丘の上で、あの日と同じ沈みゆく夕陽を眺めていた。
……何だったのかしら、私の人生って。
ノブレス・オブリージュを果たすため、自分なりに精一杯努力してきたつもりだ。
でも、エリクは私よりもクロエ嬢を選んだ。
別にそれ自体に不満があるわけではない。
男性の立場だったら、私みたいな一緒にいてつまらない女よりも、クロエ嬢のような可愛げのある人を選びたくなる気持ちもわかる。
……だが、ヴィクトルが文字通り命を賭けてノブレス・オブリージュを果たしたというのに、自らの使命よりも欲望を優先した人間がいるという事実が、どうしても納得できないのだ。
それでは、あまりにもヴィクトルが報われないじゃない――!
「――リリアーヌ」
「……!」
その時だった。
長年慣れ親しんだ声が、私の鼓膜を震わせた。
「……ヴィクトル」
そこにはヴィクトルが佇んでいた。
「……どうしてここに」
「あー、ここに来れば、もしかしたらリリアーヌと会えるかもと思ってさ」
……ヴィクトル。
「聞いたよ。エリク君との婚約は、破棄されたんだろ?」
「……ええ、情けない話よ。あなたは立派にノブレス・オブリージュを果たしたっていうのに、私は婚約者に浮気されて、何も自分の役目を全うできなかったんだから」
「そんなことはねーよッ!」
「――! ヴィクトル……」
いつもは常に飄々としているヴィクトルが声を荒げるのはとても珍しいことなので、ヴィクトルにもこんな一面もあったのかと、新鮮な驚きが私を包んだ。
「リリアーヌは子どもの頃から、ずっと人一倍頑張ってきたじゃねーか! 算術が苦手なのに、将来人の上に立つためには必須だからって、家庭教師を雇って寝る間も惜しんで勉強したり、自分の領のことを知るためには足で調べるのが一番だって、直接いろんな現場に赴いて、その土地の人々と交流を図ってたりもしただろ」
「……なっ!? なんであなたが、そんなことまで知ってるの……!?」
私は一度も、自分からあなたにそんな話したことはないのに……。
「……わかるよ。だって俺はずっと誰よりも近くで――リリアーヌのことを見てきたんだから」
「――!」
ヴィクトルが両手で私の肩を抱き、火傷しそうなほどの、熱い視線を向ける。
ヴィ、ヴィクトル……。
「リリアーヌ、あの日言えなかった言葉の続きを、今こそ言うよ」
「……ええ」
私は右手で胸をグッと押さえ、ヴィクトルの言葉を待つ。
「――俺はリリアーヌが好きだ。子どもの頃からずっと好きだった! だからどうか、俺と結婚してくれないかな?」
嗚呼、ヴィクトル――。
「……それは、ネルヴァル家に婿に来てくれるってことよね?」
「ああ、もちろんだ! そのためにエクーフラからニャッポリートをたんまり輸入して資産も稼いだし、ネルヴァル領を益々発展させるために、自分なりにいろいろ勉強もしてきたんだぜ!」
まあ!
ヴィクトルがニャッポリートを輸入させるために尽力してたのって、ネルヴァル家に婿に来るためでもあったの?
……フフ、本当にあなたは子どもの頃からずっと、周りの人のために頑張り続けてるのね。
「じゃああなたに一つだけ問題よヴィクトル。ネルヴァル領の特産品といえば?」
「え? そりゃあ一番はやっぱ小麦だろ! ネルヴァル領の小麦生産量は国内一だからな。その小麦粉で作られたパンの味は、一度食べたら忘れられねーよ! あとは馬の生産牧場だな。広大な土地で育てられたネルヴァル領の馬は、強靭な脚を持つ一級品だ。国中で引く手あまただよ」
「……フフフ、合格よ、ヴィクトル」
「え! じゃあ――」
「――ええ、私も子どもの頃からずっと、あなたのことが好きだったわ、ヴィクトル」
「リ、リリアーヌ……!!」
「だからどうか、私と結婚して」
「ああ! 愛してるよ、リリアーヌッ!」
感極まったヴィクトルは、私を強く抱きしめた。
「私もよ、ヴィクトル」
そんなヴィクトルを、私も抱きしめ返した。
――もう二度と、大事なものをこの手から零さないように。
あの後、私とヴィクトルの婚約は、驚くほどあっさりと決まった。
そもそもヴィクトルがエクーフラに行くと言い出さなければ、私のお父様もヴィクトルを私の婚約者にするつもりだったらしい。
そういう意味では随分遠回りしてしまったともいえるけれど、私はそれが無駄だったとは思わない。
だってそうやって世のため人のために頑張れるヴィクトルだからこそ、私は好きになったのだから――。
「リリアーヌ、今日のリリアーヌも綺麗だな」
「な、何よ急に……!?」
今日は久しぶりにヴィクトルと二人でデートだ。
何気なく街中をぶらぶらしていたら、不意にヴィクトルがそんなことを言ってきたので、私の顔がカッと熱くなった。
私と婚約してからのヴィクトルは、事ある毎にこういう歯の浮くような台詞を吐いてくるので、非常に心臓に悪い。
「だってそう思ったから。本当は前からずっと綺麗だなと思ってたけど、流石に婚約者でもない立場で女性にこういうことを言うのはよくないから、これまでは我慢してたんだ」
「そ、そうだったの……」
相変わらず、そういうところは真面目なのね……。
「でも晴れて婚約者になった今なら、好きなだけ俺の想いを伝えられる! だから今後はガンガン言ってくから、覚悟してくれよな!」
「あ、うん……」
これ、結婚するまで私の心臓もつかしら……?
「リ、リリアーヌ……!!」
「「――!!」」
その時だった。
聞き慣れた耳障りな声が、私の鼓膜を震わせた。
「……エリク」
振り返るとそこにいたのは、ボロボロの身なりをして、別人のように瘦せこけたエリクだった。
キラキラしたお坊ちゃまだったあの頃のエリクは、見る影もない。
「久しぶりね。お元気そうで、何よりだわ」
「どこが元気なものかッ! 今や明日食うパンすらないような状況で、毎日が地獄だよ……」
エリクは今にも泣き出しそうな顔をしている。
そんなエリクに、私は真っ直ぐ向き合いながら、こう言った――。
「愛さえあれば、お金がなくとも幸せになれると言ったのはあなたでしょう、エリク?」
「そ、それは……!」
「今日はクロエ嬢はご一緒じゃないの?」
「クッ……! あの女なら、僕が勘当されて間もない頃、他の上級貴族の家の息子と浮気して出て行ったよ! 所詮アイツは、上級貴族という肩書きだけが目当てだったのさ!」
ああ、やっぱりね。
そんなことだろうと思ったわ。
「なあリリアーヌ、お願いだからもう一度だけ、僕と婚約しておくれよ! 今度は絶対に君を裏切ったりはしないからさ!」
ふうん。
「じゃあ一つだけ問題ね」
「え? 問題……?」
「ネルヴァル領の特産品といえば?」
「――!? あ、えっと……、その……。と、特産品……。えーと、えーと、えーっと」
「はい時間切れ。残念でした」
「そ、そんな!? リリアーヌ!! もう一度だけ、チャンスをおくれよッ!」
「さあ、行きましょう、ヴィクトル」
私はヴィクトルの腕を抱いた。
「ああ。――エリク君、一つだけ忠告しておくよ」
「え?」
ヴィクトルはエリクの前に立ち、じっとエリクを見下ろしながら、言った。
「誰かを幸せにするためには、愛はもちろん大事だけど、それと同じくらいお金も必要だ。よく覚えておいたほうがいいよ」
「あ、あぁ……あああああああああああああああああああああああ」
エリクの慟哭が、辺り一面に響き渡った。
「そうだリリアーヌ、この先に美味しいパン屋さんがオープンしたらしいぜ。ちょっとそこでパンを買って、公園で食べないか?」
「まあ、いいわね」
私はヴィクトルと手を組みながら、パン屋さんに向かう。
――愛する人と、美味しいパン。そのどちらも、私の人生には欠かせないものなのだ。
拙作、『戦争から帰って来た婚約者が愛人を連れていた』がコミックグロウル様より2026年3月6日に発売された『選ばれなかった令嬢には、本命の彼が待っています!アンソロジーコミック』に収録されています。
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