【無哭を振り向かせるために】
——翌日午前。まだ静かな朝。
冒険者ギルドセレス支部・職員会議室。
「……どうする?結局、まだ救助班の手配、ついてないじゃん……」
湯気の上がるマグを手に、若手職員が眉をしかめている。
机の上には、《星花の盆地》の速報が広げられていた。
「中堅じゃ無理だ。魔力地帯で、崩落してて、魔獣も出る。しかも子どもが……」
「そもそも、子ども連れて行ってんじゃねーよって話だけどな……」
坑道が、既知の安全圏だと思われていた中での、崩落による新エリアの発見。
当然護衛の冒険者はついておらず、採掘ギルドの傘下で行われた採掘作業。
想定外の地形・魔力地帯・魔獣の存在が一気に露見し、全てが後手に回っていた。
そんなため息が重なる中、ひとりがぽつりとつぶやいた。
「……今、街に“無哭”いるよな?」
会議室の空気が、一瞬で変わる。
手を止めた者、目を上げた者、誰もが同じ名を思い浮かべる。
そして——カップの湯気の中、ひとりが呻くように言った。
「……いや、でもさ、あの人……ほら、アレだろ」
「ああ……気に入った依頼しか受けない……」
「あとめっちゃ怖い……」
しん——と場が静まり返る。
だが、件の現場では、今も子どもが取り残されている。
「……いやいや、さすがに人命がかかってれば……い、依頼書読んでくれれば……ワンチャン」
「あっ、でもあの、なんか仲間……?いませんでした……?確か、ルシアンさんとかいう魔術師」
その名が出た瞬間、別の職員が眉をひそめた。
「……ああ、銀の瞳の……」
「そう、なんか貴族っぽい……商人かな……」
「そんなんどうでもいいだろ!」
誰かが立ち上がる。椅子の足が床を滑る音が、室内に響いた。
「……魔獣地帯に子どもだぞ、時間ねぇだろ。ひとまず、書類まとめて依頼書」
緊張が走ったまま、会議室に静寂が戻る。
無哭に受けてもらえるかどうかは二の次、——今は動かなければ。
次の瞬間、廊下から聞こえたのは、受付側から戻ってきた職員の声だった。
「おい、無哭の仲間がランクアップの手続きに来てるぞ。書記官、誰か対応できる奴……」
——沈黙。
入室してきた職員が、会議室の空気に首を傾げた。
ということは、もしかして無哭も……?
そうは思ったが、数秒後、全員がかぶりを振る。
「い、いややっぱ無理だろ!また“俺に言ってんのか”って睨まれるじゃんか!」
「俺なんて昔、書類出しただけで睨まれたからな!?目がやべーんだよあの人!」
「いや、目がっていうか、“命刈り取られる”気がすんだよな……」
皆それぞれ、過去に”無哭”に睨まれた覚えがあるようで——
けれどパニックに陥りながらも、書類をまとめる手元はぶれない。
「……あ、あのさ……」
ふと、依頼書を書き綴っていた書記官が、手を止め、そろり、と手を上げた。
「……魔術師……ルシアンさん?……のほうに説明すれば……無哭を連れてってもらえないか……?」
——再び、沈黙。
停滞していた会議室に——一筋の光明が差し込んだ。
わっ、と皆、席を立つ。
「あっ、ある!あるぞ!あっちは常識人っぽかった!」
「で、でも”あの人”、今日Eランクに昇級ですよ!星花の盆地には……!」
「大丈夫だろ、無哭がいれば!」
バサバサと資料が舞う。
会議室の職員たちが一歩前進したあたりで、先ほど入室してきた男性職員が、また一言。
「……そういえば、さっきその人に”美しい景色を知りませんか”って聞かれたけど……」
「——は……?」
ビタ、と会議室の全ての動きが、止まった。
職員が、顎に手を当てながら、首をひねる。
「なんか綺麗な景色探してんだと。無哭もなんも言わなかったから、そういう旅なんだろうな、あの二人」
——なん、ですと——、と。
そんな旅の目的、聞いたこともない。
まして、それにAランク冒険者を連れまわすなんて。
いやしかし、当の無哭本人がそうして隣にいるのであれば、きっと了承の上で、いや違う、それどころではない。
——それどころではない!
「どっ、ど、どうします」
「星花だ、あれ確か光る花だっただろ!」
「あ、あと地底湖の自発光!うんんん……っ地底に差す光とか!」
「——なぁ、だからその魔術師、昇級手続き待ってるぞ?」
わかってる!!と、どこからか鋭い声が飛ぶ。
依頼書は最悪後回しでいい。今は、情緒に訴えかけるような資料が必要だった。
やがて書記官の一人が立ち上がり——
「おっ、俺、昇級手続きしながら、あ、あ、足止めしてくるわ!」
さながら勇者のように、肩を震わす。
ルシアンに対して武者震いを——というよりは、その後ろにいるであろう、無哭の視線に、である。
皆の視線が集まる。尊敬と畏怖の眼差しだった。
「き、気ぃ抜くなよ……」
「声のトーン、絶対間違えんなよ……」
「無哭は見なくてもいい……ルシアンさんだけ見とけ、絶対だぞ……!」
室内が、戦場のような空気に変わる。
書記官の肩に、次々と手が置かれていく。
「俺たちもすぐ行くからな……!」
「万が一無哭と目が合っても、気をしっかり持てよ……!」
「ああ、資料、急いでくれよ……っ」
普段の事務仕事では見せない、腹をくくったかのような、書記官のその表情。
立ち去っていく背中も、どこか”もう帰ってこないのでは”という哀愁を漂わせる。
そうして扉が閉まったあと、誰かが震える声で言った。
「……俺らなんで“無哭”のほうじゃなくて、“魔術師のほう”に話通そうってなったんだろうな……」
「……だって目を見て話せるのあの人しかいねぇよ……無哭こええじゃん……」
「大体無哭の隣でにこにこしてんのやべぇだろ……一縷の望みだよもう」
「笑ってんだよな……」
「なんで笑えるんだ……」
そう呟いて、ふと会議室の扉を見る。
もう、そこにあの哀愁漂う背はない。
だがその向こうで、書記官が——今まさに、“その魔術師”と対峙している。
「……資料、早く仕上げようぜ。魔術師の琴線にかかればこっちのもんだ」
崩落に巻き込まれた子どもを思い——、職員たちは改めて、書類に向き直っていった。
まずはランクEへの昇級の話題から——そこで如何に、引き留めるか。
書記官がゆっくりと昇級の書類を支度し、受付カウンターへ向かう。
ギルドホールに視線を向ければ、入り口近くの待合スペースで腕を組む無哭。
そして、そこにあるソファに、腰かけて待つ淡紫の影があった。
「——っルシアンさん、すみません、お待たせいたしました!」
ひっくり返りそうになる喉を堪えつつ、書記官がそう、声を張れば。
——にこり、と柔和な笑みを以てして、淡紫の男が立ち上がる。
周囲のざわめきと息を飲む気配の中、ふたりの影が、ゆるやかにカウンターへと近づいてきた。
(や、やっぱり無哭も一緒に行動してる……!!)
足音が響くたび、緊張に胃を押さえる職員。
受付に到着する銀と赤。待ち構える書記官。
ちら、と会議室のある廊下のほうを見やるが、まだ増援の気配はない。
「おはようございます」
穏やかな声とともに、銀の目がふわりと笑んだ。
すぅ、と上がった口角、細められた眼差し、傾げられた首の角度まで完璧で、書記官が思わず息をのむ。
——甘かった。ただの挨拶一つで、そう思った。
隙が無い。まったくもって、付け入る隙が。
無哭が剣なら、こちらは砦だ。
必要のないものは、一切寄せ付けるつもりのないような。
無哭がダメならこっちに頼もう、だなんて、——無謀だったのでは、とすら、思えてくる。
その隣、赤い目の男が一歩後ろで腕を組んで立つ。
もはや、言われずともその視線を直視できなかった。
「……っ、Eランクへの昇級、おめでとうございます。お手続き、こちらの書類を読んでいただき、各事項にご記入をお願いいたします……」
「はい」
書記官が差し出した用紙には、確認事項が数か所と、簡素な祝辞の文面と、新しいEランクカードの受領欄。
ペンを取るルシアンの手元を、ガルドの赤い視線が追う。
「……お名前の欄はこちらになります。……っ、ありがとうございます」
進んでいく手続きの最中、いつの間にか書類を整えた増援の職員たちが、カウンターの陰で静かに資料を握りしめていた。
——無哭が、魔術師の動向を、めっちゃ見てる……!
声にならない悲鳴に、各々の喉が何度も鳴る。
だが、ここまで来たらもう引くわけにはいかない。
かつ、とペンを置いたルシアンに、書記官が新しいギルドカードを差し出した。
「昇級処理、確かにお預かりしました、こちらがEランクカードになります」
「ありがとうございます」
その受け渡しが終わった瞬間、まるで合図のように、職員が数名なだれ込んできた。
「ル、ルシアンさん、失礼いたします!」
はた、と銀の瞳が見開かれる。
突如として、前線が切り替わった。先ほどの書記官は、胃を押さえて後方へ下がっていく。
「実は、今回の昇級にあわせて、ぜひ一件……!」
「景観調査にご興味があれば、ぜひお目通しいただきたく……!」
そう言って差し出されたのは、《星花の盆地》の、地図と資料の束。
——勝負の瞬間。
「……ほう?」
ルシアンの視線が、そこに落とされる。
そしてその背後、ガルドは——迫りくる面倒ごとの予感に、額を押さえていた。
「……おい」
赤い瞳が訝しげに職員を見るが、見ない気づかない怖気づかないをモットーに。
職員は、ルシアンから目を逸らさない。
「ひ、ひとまず応接室までお越しいただけますか……!もちろん、ガルドさんもご一緒に!」
ところどころ声が裏返っていたが、にこりと笑ったルシアンが歩を進めてきたので、職員数名が大移動のように群れを成して動いていく。
「こちらでございます!」
「足元に段差がございます!」
「ただいまお茶をお持ちします!」
「ええと……お気遣いなく」
そんなやり取りを経て、広めの応接室、その扉が開かれる。
ギリギリで用意された資料の束。
小綺麗な空間に、職員たちが順次入り、壁に並んだ。
ルシアンが応接のソファに座ると、それに合わせてガルドも壁際に立つ。
ただそれだけで、空気圧が一段重くなった気がした。
「……こ、こちらになります……」
書記官の男が震える手で、ルシアンの前に資料を差し出す。
資料の一枚目、一番上には——
《緊急救助依頼:星花の盆地》
の文字。
内容は、子どもの救助依頼。
柔和な微笑を浮かべたルシアンの表情は、ぴくりとも動かなかった。
「……大変ですね」
「っはい、危険地帯で、ぜひガルドさんと……その、坑道が崩落して、その下に地底が、そ、それで新しいエリアが発見されまして、貴重な環境で——……」
突き刺さるような赤い視線が降り注ぐ中、あまりの緊張に、職員がしどろもどろになる。
ルシアンは笑顔で聞いていたが、ふと資料の一か所を見て、小首を傾げた。
「地底ですか」
「え、あ、はい、地底です……!」
「真っ暗なだけで何も見えなさそうですね」
——職員、死。
後ろに控えていた数人が明らかに慌てふためいた。
「っ——!?」
「あっ、いえっ、あの光はちゃんと!」
「発光するんです!!自発光、あの、星花!!星花の盆地って名付けられまして!」
「星と、花と、湖が、光って!!」
——面倒そうな顔をするガルドと、ふわりと微笑むルシアン。
とても、対照的だった。
「ガルド、子どもの救助依頼だって」
穏やかに発せられたそれは、言外の”行ってみたい”だった。
無哭を振り返ったルシアンに、職員全員、心の中でガッツポーズ——だが、身体は膝から崩れ落ちそうだった。
——ひとつため息をついて、ガルドの赤い瞳が、鈍く光る。
まっすぐにルシアンを見て、しばし沈黙。
その後、低く、押し殺すような舌打ち。
「……チッ」
重い巨躯が、腕を組み直す。
だが拒否の構えはない。——それを誰よりも、ルシアンの微笑みが語っていた。
「……ガルドさん、ルシアンさん、お願いしてもいいでしょうかっ……!」
「い、依頼書は現在作成中で……!」
「とりあえず!星花の光景資料、こちらになります!」
職員たちが我先にと、星花の盆地に関する写真・図面・環境報告書を机に並べ始める。
なかには銀色に発光する花弁や、湖面に反射する星光の様子を描いた簡易スケッチも。
「こちらが盆地の地形図でして、発見されたのは崩落後の——」
「自発光の花が、地底湖の水面に映って……」
「お子さんの最後の目撃情報がこちらで……」
——場が熱を持ちはじめる一方で、ガルドは無言のまま腕を組み、壁にもたれたまま動かない。
ルシアンだけが、銀の瞳で一つ一つの資料を、微笑みながら静かに眺めていた。
その姿に、職員たちの期待がもう一段高まる。
あとは——どちらかから一言、「行く」と確定の言葉を引き出せれば。
それだけで、“無哭”が動く。
職員数名が、祈るように手を組んだ。
しばらく黙って机に目を落としていたルシアンが、数ある資料の中から、一枚だけを手に取った。
静かにそれを、ガルドへ手渡す。
子どもが崩落に巻き込まれた際の状況報告書。最終目撃地点。
ガルドが、鋭くため息をつく。
「……ガキは……何歳だ。複数か?どれくらい奥だ。魔獣は?」
矢継ぎ早の言葉とともに、ずい、と前に出たガルドに、職員たちが慌てた。
「ッはい!十歳の子どもが一人、採掘団と共に行動していたようで……崩落後、消息不明に……!」
「崩落が深く、捜索が困難な状態です……魔獣も、複数の目撃例がありまして……!」
ガルドは唸るように、低く息を吐いた。
その傍ら、ルシアンは静かに微笑んでいる。
差し込む朝の光に、淡紫の髪がふわりと照らされる。
「……あの」
書記官が、おそるおそる、けれど確実に一歩を踏み出した。
「可能であれば本日中……できれば昼前に出発していただければと……」
「…………あ?」
「急な話で申し訳ありません……でも昨夜の時点でまだ、生存反応が……!」
すっ——と職員たちが、一様に頭を下げた。
その沈黙の中——銀の瞳が、背後のガルドをちらりと振り返る。
「……っ、くそ」
低く舌打ちをして、ガルドが顎をしゃくる。
「……行くぞ。支度する時間くらいは寄越せ」
「ッありがとうございます!!」
前に出ていた書記官が、腰を抜かしそうになりながら、叫ぶ。
——瞬間、応接室の空気が、一気に動き出した。
星花の光も、貴重な地底景観も、もうその場ではどうでもよかった。
無哭と、淡紫の魔術師が、確かに頷いた——それが、なによりの奇跡だった。
「搬送馬車、すぐ手配します!坑道入り口まで一刻です!」
「救助要請の詳細も更新します、おい急げ——!」
応接室が、熱を帯びたままに渦を巻く。
ガルドの一言で、全職員が走り始めた。
まるで命が繋がったかのような安堵と、使命に燃える慌ただしさ。
それでも、ルシアンの動きは変わらない。
静かな微笑を浮かべたまま、立ち上がり、軽やかにガルドの隣へと歩み寄る。
「ご準備が整い次第、南街門へお越しください!馬車をご用意しておきますので……!」
ふたりのそばに職員が慌てて駆け寄り、深々と頭を下げる。
その声に、ルシアンは笑んで軽く頷き、ガルドは無言のまま、応接室の扉へと踵を返した。
「……あ、あの、報酬などについては、また後ほど正式に……!」
——返事はなかったが、背中がすべてを物語っていた。
“行く”と決めた男の、重く揺るがぬ意志。
そして、魔術師がその背を追うことに、一片の迷いもないことを、誰よりも先に職員たちは理解していた。
「……い、行ってくれるってよ……」
ぽつりと誰かが呟き、ひとり、そしてまたひとりと、頷きが連鎖した。
それは誰に向けたものでもなく、ただ、助けを求める小さな命と——
それをすくいあげに行く者たちへの、静かな祈りだった。
——【無哭を振り向かせるために】




