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【酔客】

一刻半ほどに及ぶ調査は、穏やかなものだった。

予定の調査項目はすべて完了し、セナとカリナが、慣れた手つきで機器をまとめる。


ルシアンも、自前の手帳に何やら書き記しながら、光がごく淡くなった泉を見ていた。

消えかけているのではなく、静かに息を整えるような明滅。


「……何を書いてらっしゃるんですか?」


助手のカリナが、ルシアンの隣に立って見上げてきた。

銀の瞳が一つ微笑み、手帳をセナとカリナに見せる。


そこには魔力反応に関する所感、泉の揺らぎの周期。発光植物群についての性質や明滅パターン。触れる者によっての反応の違い。

環境音や周囲の気配についての補記があった。


セナがぎょっとする。整った調査報告書。なんなら、自分たちのものよりよほど。


「えっと……これを資料として提出していただけたりは……」


セナらが目を見合わせ、ルシアンにそう尋ねた。一番意外そうな顔をしたのは、ルシアン本人だった。

この美しい景色を忘れないように、忘備録のつもりで書いただけだったから。


「……それは構いませんが……、素人の所見で恐縮ですね」


ぶんぶんと首を振る二人を見て、わかるぞ、とガルドは額を押さえた。

妙なところで自信過剰で、変なところで謙遜する。周りの人間が振り回されてもおかしくない、どこかちぐはぐな彼。


「では、ギルドに戻ったら複写いたしましょう。帰ろうか、ガルド」


銀の瞳がふいに自分に向いて、ガルドが肩をすくめた。


「おう。……その前に、水でも飲んどけ」


そう言って、腰の水袋を片手で投げる。ルシアンがそれを受け止めると、泉の光が、またわずかに瞬いたように見えた。

セナとカリナは、二人のやりとりを黙って見ていた。強面の男のそんな些細な気遣いに、どこか感嘆のような沈黙が落ちる。


「……あの、おふたりって、普段からずっと一緒に……?」


恐る恐る、カリナが尋ねた。

返事の代わりに、ルシアンがガルドの方を見て、ふっと笑う。


「……そんなとこだ」


ガルドの短い答えに、セナが少し目を見開いた。

性格もタイプもまるで違う二人の、静かで、自分も互いも誇示しないその関係性に、どこかバランスの良さを感じる。


「——ちょ、調査、ありがとうございました。……この記録、ちゃんと残します」

「この泉も、きっと喜んでると思います……」


セナとカリナのその言葉に、ルシアンは水袋の蓋を閉めながら、柔らかく頷いた。

空には、雲一つない青。穏やかな風が、木々と草を揺らし、“西の泉”に別れの挨拶をしていた。


四人は再び、林を抜けて街道へと歩み出した。さして言葉も交わさずとも、どこか満たされた空気が、そこにはあった。




——夕方。


西の泉での調査補助を終え、ルシアンら一行は、街の冒険者ギルドへ戻ってきていた。

ルシアンが受付に依頼の達成報告をする隣で、セナとカリナがギルドへの報告書類をまとめている。


依頼遂行・補助行動の的確さ、魔力感知能力の有用性、セナからの評価。街のインフラ調査という公益性の高さ、ギルド資料班に提出される観察記録。


——それは、Eランクへの昇級に、十分すぎる成果だった。


「明日、査定結果が出ますので、またギルドへお越しください!」


報告書に判を押しながら、受付係がルシアンにそう告げる。ルシアンも軽く頷き、セナに向き直った。


「おかげさまで、昇級が叶いそうです。ありがとうございます」

「いえいえ!お礼をするのはこちらの方です!貴重なデータがたくさん集まりましたし」

「そうですよルシアンさん!まさか一日で終わるなんて!」


二人が、嬉しそうにまくし立てる。取ってきた記録をまとめるからと、彼らとはここで別れた。

無言のまま傍にいたガルドに、ルシアンが微笑を向ける。


「君もありがとう。私にぴったりの依頼だった」


それは、一目で依頼書を選んで持ってきた、ガルドへのささやかな賛辞だった。


「……別に、やったのはほとんどお前だ」


ガルドはそう吐き捨てながら、掲示板の方に視線を逸らす。

だがその横顔には、ほんのわずかに緩んだ気配があった。


ルシアンの言葉は、いつもどこか柔らかくて、ぬるま湯のようにまとわりつく。

けれどその一言に、確かに“見ていた”という意思が込められていた。それを受け取ってしまった自分に、ガルドは少しだけ苛立つ。


「……まぁ、Fのまんまじゃ、こっちが依頼受けにくいしな」


そう付け加えると、ルシアンの肩が小さく揺れた。

笑っているのが、見なくても分かる。


ギルドの中では、職員が書類を回し、冒険者たちが声を上げ、賑やかな夕方のざわめきが満ちていた。

だがその中で、二人の立ち位置だけは不思議と落ち着いていて。一日が終わった、という静かな満足がそこにあった。


「……帰んぞ。腹減った」


短くそう言って、ガルドは掲示板わきの大扉に向けて歩き出した。

ルシアンがその背を追い、ゆるやかな足取りで並ぶ。


ギルドの扉を抜ける頃には、夕陽が西の空を朱に染めていた。

“西の泉”で見たあの光よりも、少しだけ温かくて、滲むような色だった。






宿で街着に着替え、夕食のために酒場に入る。


これはルシアンからの要望だった。

大衆酒場というものに、入ってみたかったらしい。


その思考の時点ですでに、自ら”平民ではない”と言っているようなものだったのだが、ガルドは黙って店を選んだ。



「……お前が酒飲むの、意外だよな」


やや眉をひそめて、ガルドが言う。

酒場は冒険者や街の人で賑わっており、店員の女がその合間をぬって忙しく注文を取っていた。

壁に掛けられた木札に、店のメニューが並ぶ。壁際のテーブル席に座るか、背の高いテーブルで立食とするか、選べる形の店だった。


「ふふ、そうかい。そんなに強くはないけど、お酒は好きだよ」


腰かけられるテーブルがすべて埋まっており、店の中ほどの立食席につく。店員に注文をして、ルシアンがぐるりと店の中を見回した。

依頼帰りの冒険者、仕事を終えた職人たち、商人たち。皆思い思いにこの場を楽しんでいる。


「……潰れたら置いてくからな」


ガルドの軽口に、ルシアンはにこりと頷いた。

まったく、とひとりごちて、赤い瞳がふと店の奥に視線をやる。


「……トイレ行ってくる。ここにいろよ」

「うん」


返事を確認し、ガルドは背を伸ばすように軽く首を回した。

大衆酒場のざわめきと、立ち込める肉と酒の匂い。

混雑する店内を睨むように見渡し、ルシアンの立つ席を一度だけ確認する。


「……すぐ戻る」


それだけ言い残し、店の奥に向かって歩き出した。

木の床板がきしむ。冒険者らしき男たちの笑い声が背後で弾ける。

酔客が立ち上がりざまにぶつかってきたが、ガルドの体にはびくともしなかった。


(……あの席、目立つな)


視界の端で振り返りながら、そんなことを思った。


入り口から中央へ抜ける通路のすぐ脇。立食で、なおかつ視線が集まりやすい場所だ。

ルシアンの立ち姿は、街着に着替えていても隠しきれない品が滲む。

柔和な微笑を浮かべたまま、周囲を観察するその姿は、街の者にとってもどこか異質だった。


——だが、それを“美しい”と感じてしまう者も、確かにいた。


ちら、とルシアンに視線を送る者。

注がれた酒を止めたまま、立ちすくむ者。

連れの話も聞かず、じっと見つめる者。


ガルドは、それらすべての気配を背に感じながら、店の奥へと歩を進めた。




——ふ、とルシアンの背に手が当たった。

隣に寄り添う気配。みると、見知らぬ冒険者。恐らく酔っ払い。


「無哭においてかれちゃった?あっちで一緒に飲まねぇ?」

「ふふ。結構です」


ルシアンが柔和な笑みで返すが、生憎相手は酔っていた。

”無哭の仲間”に、正常な判断ができないほどに。

——よって、笑顔の盾にも、気づかなかった。



背中から首にかけて撫でられる。ルシアンが、——ううん、と少し迷う。

せっかくの酒場、楽しく過ごしたい。このままガルドが戻ってきたら騒ぎになりそうだし、自分が追い払っても逆上されるのも、また面倒。

周りは見て見ぬふり。いや、見ている者のほうが多い。異分子がどうするのか。そんな視線だった。


「私なんかより、綺麗な方がいるでしょうに」

「いやぁ、アンタみたいな別嬪さんなかなかいねぇよ」

「それはそれは……私はやめておいた方がいいと思いますけどね」

「いいじゃねぇか、減るもんじゃねぇしよ」


酔いの回った手のひらが、ルシアンの腰元にずるりと滑る。

意図的に触れるそれは、もはや不快の域だった。けれどルシアンは、なお笑みを崩さない。




「——どけ」


声が落ちた。

低く、重く、酒場の喧騒すら一瞬だけ止まるほどの圧。


酔客の肩に、がし、と大きな手が乗る。

そのまま無遠慮に引き剥がされるように、男の身体がルシアンから引き離された。


「い、ってぇな、なにすん——」


振り返った先で、男の言葉が止まる。赤い瞳が、まっすぐに睨んでいた。

無表情。だが、冷たい殺気がにじんでいた。


「触って、減らねぇかどうか、試すか」


ぎちり、と、掴まれた男の肩が鈍い音を立てた。

酒の匂いも、笑い声も消える。見ていた者たちが、音も立てずに視線を逸らす。

冒険者であれば誰もが知っている——無哭。それが、怒気を隠さず立っている。


「ぐっ……ま、待てって、ただの冗談っ……ちょっと触っただけで——」

「……なら、これも冗談で、いいな」


ガルドの声が、さらに落ちる。

掴んだ肩にさらに力を込めれば、骨が軋む音すら聞こえた。


「あ゛ぁ!っわ、わかった!悪かった!許してくれ!!」


捻り出した声に、ガルドが無言のまま手を放す。

もつれるようにして男が逃げて行けば、周囲の空気が、やっと動き出した。



「ま……まったく……だから酔っ払いは嫌なんだよ」

「ま、マスター、もう一杯——」


どこか遠くの席から、やり直すように声が上がる。

店の空気が、やがてゆっくりと元の喧騒へと戻っていく。


ガルドはその場に残り、ルシアンを見た。

言葉はない。ただ、赤い瞳に一瞬だけ、明確な“怒り”が浮かんでいた。

それは、先ほどの酔客か……もしくは自分への、抑えきれぬ咎め。


「ありがとう、ガルド」


周囲に聞こえるかどうか、という声で、ルシアンが呟いた。酒の入ったグラスを手に、目が伏せられている。

それを見て、ガルドが、ぐ、と眉根を寄せた。


「気にすんな」と言おうとしたところで、ルシアンの指先が、ガルドに近寄るように指示をした。

ガルドが小さく屈むと、そこに顔を寄せて、銀の瞳がちらりと見上げてくる。


「君があと少し遅かったら、彼の心臓を凍らせてたかも」


にこ、と笑う顔は、どこかいたずらっぽくて、けれども冗談を言う顔ではなかった。

体内に氷を生成する。何故かルシアンならば、容易にできそうだった。


「本当に助かったよ、ガルド」

「……それ、助かったのは誰なんだ……」


ぼやきながらもガルドは、静かに視線を逸らした。

思わず顔を寄せたが、面前での囁きの威力が思った以上だった。上目で見つめられたのも、至近距離で見てしまった。


——なんとか、体裁を取り繕う。


「……お前に、やな顔させたくねぇだけだ」


ぼそりと、喉の奥で呟くように。

人目を憚ってではない。だが、声を張るには余りある重さがあった。


背を伸ばしたガルドが、グラスを一つ引き寄せ、なみなみと注がれた酒を半分ほど一息にあおる。

喉を鳴らして飲み干すその音が、やけに耳に残った。




ガルドはそれ以降、席を離れることはなかった。食事をし、渋面ながらも他愛のない話をしながら、酒を飲む。

ルシアンも同じように過ごしながら、周囲から聞こえてくる会話にも耳を澄ませていた。


村の家畜が。学術ギルドで。

坑道の崩落事故が。憐光蝶が。


なるほどこれは確かに情報の宝庫だと、ルシアンが目の前のグラスを見つめる。

酒も二杯目。果実酒は口当たりがよく、とても飲みやすかった。


ガルドはといえば、料理を食べ、こなれたように酒をあおっている。料理屋で座って食事をした時とは違い、一口ががぶりと大きい。

食って、飲んで、戦って。元来、そういう性分なのだろう。


「……何見てやがる」


ごき、と酒を飲みながら、少し顔をしかめてガルドが言う。

これはちょっと照れた顔。ルシアンも、だんだんとそれがわかるようになってきた。


「ふふ、楽しいよ、ガルド」

「……ああ、そっかよ」


ガルドはそっぽを向いたまま、皿に残った肉を骨ごと掴んで噛みちぎる。

がぶりと噛みつけば、骨の先から肉片が引きはがされた。


「楽しそうで、なによりだ」


淡々とした声。だが、耳の先がわずかに赤い。

照れているのか、酒がまわってきたのか、あるいは両方か。


「……にしても、意外と飲むな、お前」

「そうかい?……普段よりはちょっと進んでるかもね」


軽やかな返答を耳に、ちら、とルシアンのグラスを見やる。

そこにはほのかに甘い果実酒。確かに飲みやすい部類だが、酔いが回るのは早いはずだった。


「……顔に出ねぇな。強ぇのか、鈍ぇのか……」


再び、ぐび、と自分の酒を飲み干しながら、ぼやくように呟く。

だが、その視線は始終ルシアンの手元に落ちていた。


まるで、“次に誰かがまた触れようとしたら、その瞬間に叩き落とす”と、無言で言っているかのような——静かな、けれど確実な護衛の構えだった。


ルシアンが何を感じ取っているかは分からない。

だが、ガルドはもう、酒の味だけを楽しんではいなかった。




ガルドの威圧の効果もあり、その後不埒な輩は現れなかった。

酒場を出て、宿に戻り、主人から部屋の鍵を受け取る。


——結局、ルシアンは三杯飲んだ。久々に飲んだ酒は、心地よく体に回っている。

階段をゆっくりと上がると、後ろからガルドの大きな手が背中を支えてきた。


「おい、転がるなよてめぇ」

「おや、大丈夫だよ、ありがとう」


ふふ、と笑いながら、そのまま登りきる。後ろからため息が聞こえる。

あとは風呂に入って眠るだけ。何とも贅沢な夜だった。


鍵穴に鍵を差し込む。

扉の開いた自室に入る直前、ルシアンが向かいの扉の前に立つガルドを振り返った。


「あ、ガルド、ちょっと頼まれてくれるかい」

「……何だ」


ほろよいのままに微笑を浮かべ、ルシアンが外套を外す。

そのまま、ローブの背中をガルドに向けた。


「ちょっと背中から腰にかけてさすってほしい。一度でいいよ」


——なんだそれは。とガルドが止まった。

いくら護衛といえど、自ら背を向けるか。しかもさすれとは?


肩越しにこちらを見るでもなく、向こうを見たままルシアンが言った。


「酒場で触られたところが、気持ち悪くてね」



思わず、ガルドの喉が、ひくりと鳴った。


それは酒のせいではない。

目の前の背中、その細い肩、薄い身体。

ローブの布越し、柔らかい気配が夜の灯に浮かび上がっていた。


「…………ああ」


声は掠れていた。

だがその言葉の裏に、どれだけの感情が詰まっていたか——隠し切れたかもわからない。


「一度、だな」


大股で詰め寄り、手を伸ばす。

酒の匂いが混ざった体温が、すぐそこにあった。


片手をその肩に置き、もう一方の手のひらでゆっくりと、背中をなぞる。

大きな手が、肩甲骨のあたりから、脊椎の両脇を沿って、腰まで。

布越しとはいえ、肌の張り、骨のライン、わずかな熱までもが、手に伝わってくる。


酔客とのやりとりの、全容を見ていたわけではない。

どこに触れられたのか、あいまいな部分もあった。


「……ここ、か?」


掠れた声。返事はない。だがルシアンの肩が、わずかに揺れた。

そのまま、もう一度。今度はさらにゆっくり、少し深く、手のひらで撫で下ろす。


腰に近づいたとき——指先に、微かな震え。

それがルシアンのものか、ガルドのものか、分からなかった。


「……終わりだ」

「うん、ありがとう」


向こうを向いたままの返事を聞き、——そろりと手を離す。その背の温もりが、手のひらに残っていた。

それを振り払うように、ガルドは背を向け、自室の扉を乱暴に開けた。


「さっさと寝ろ」


そう吐き捨て、扉を閉める。

扉の向こう、廊下でもまた、向かいの部屋の扉が閉まる音。


誰もいなくなった廊下には、微かな酒と体温の残り香が漂っていた。






——【酔客】

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