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【街歩きは早朝に】

ルシアンは、早く寝て、早く目覚める。


——まだ日も昇る前、むくりと起き上がり、軽装に着替える。

鏡台の前に座り、簡単に身なりを整える。窓から街を見下ろすと、まだ朝もやがかかっていた。


部屋を静かに出て、まだ眠っているであろう、向かいの扉の前に立った。


「——ガルド、お散歩してくるね」


当然、返事はない。一応声はかけた、という体裁がほしいだけだ。

静かに宿を出ると、朝の冷たい空気が肺に流れ込んだ。




ルシアンは、目覚める前の街が好きだった。

朝の慌ただしさも、昼の喧騒も、夜の賑わいもない街。静かで、けれど真夜中のような底知れぬ闇もない、ほんのひと時の眠った街。

目覚めているのは、自分と、新聞配達の少年と、パン屋の窯だけ。


——これも、ルシアンの”美しい景色”に含まれているのだろう。




背後、ごつ、ごつ、と石畳を重く踏みしめる足音がした。

振り返ったルシアンの表情に、笑みが灯る。


「ふふ、寝ててよかったのに」


その大柄な男は返事もせず、淡々と近づいてきていた。肩を揺らすように、歩幅は大きいまま、ルシアンの隣で止まる。


「……宿にいねぇと思ったら、こんな時間に」


寝起きの低い声。だが責める色はない。

ひとつ欠伸をして、空を見上げる。まだ白んだばかりの空に、星がわずかに残っていた。

そのまましばらく沈黙が流れる。けれど、並んだ立ち位置に、どこか自然なものがあった。


「……飯、どうすんだ」

「折角だから、どこかで食べていこうか」


言葉を交わしながら、歩き出す。朝の街に流れる、ぱちんと薪が弾ける音。

パン屋の煙突から、煙が立ちのぼっていくのが見えた。


「……あそこのパン、昨日の夕方も売れてたな」


呟くようにそう言って、ガルドが視線を逸らす。

言い訳じみた声音だった。ルシアンに気づかれないようにとすら思っているかのような。


けれど、確かにそれは“誘い”だった。ふたりの一日は、今日もまた、静かに始まっていく。






街の食堂の窓からは、すでに通勤客や買い物客の姿が行き交いはじめていた。


この街——セレスの一日が本格的に動き出しているのが感じられる。

木のテーブルに並べられた朝食は、温かなスープと焼きたてのパン。香草とバターの香りが立ち上り、腹の底にやさしく沁みわたる。



「……Fランクだぁ?」


ガルドが眉を吊り上げて、ルシアンにそう返した。

頷いたルシアンが、なんでもない顔をして、ギルドカードをかつりとガルドの前に置く。



——ルシアン Age.26

支援魔術師 ランクF



「冒険者ギルドには登録したばかりなんだ。言ってなかったね」


パンをひとかけら口に運びながら、ルシアンが微笑む。

だが、テーブルの上に置かれたギルドカードを一瞥したガルドの視線は、ランクではない箇所を見ていた。


「……お前、俺より六つ年下かよ」

「ふふ、それも言ってなかったね?気になるなら敬語に戻しましょうか?」

「やめろ、気持ち悪ぃ」


苦々しげに返しながらも、ガルドは目を逸らした。不機嫌というより、どこか調子を崩されたような態度だった。

ルシアンの手元では、スープの器がくるりと回される。湯気の向こうで、微笑はそのままだ。


「……Fランクで支援か。どうせ試験だけ受けた口だろ」


ギルドカードを軽く指先で押し戻しながら、ガルドがぼやく。

カードの情報だけを見れば、経験も功績もゼロの新人——街の酒場で素人が言い張る「俺も冒険者です」と変わらない。


だが目の前の男は、そうは見えない。仕草、視線、姿勢、どれを取っても“成り立って”いる。

着ているものも、手入れされた旅装も、どこかしら場慣れしていた。


「……んで、どうすんだ。いくら俺がAでも、お前がFランクじゃあ受けられる依頼も限られる」


半ばぼやきながら、ガルドがスープをひと口啜る。香草の香りが鼻に抜けた。

その声には、焦れたような苛立ちではなく、静かな問いの色が混じっていた。


「……ガルドってAランクなのかい」


きょとん、としたようなルシアンの言葉に、ガルドが一拍置いて、同じようにギルドカードを差し出した。

黒銀のプレートに、偽造防止の魔術刻印がなされている。



——ガルド・ヴェルグリム Age.32

戦士 ランクA



実力がものをいう冒険者ギルド。S~Fからなるギルドランクにおいて、そのランクは何よりも雄弁だった。

一度カードに目を落としたルシアンが、ぱちり、と瞬きをする。


「ええと、……なぜ私の護衛を引き受けたんだい」



——【Aランク】。

それは、上位精鋭・都市級戦力となる者がほとんどのランクだった。

冒険者全体の人口から言えば、比率は一、二パーセントほど。

依頼主からの信用度も高く、大規模依頼においては中核を担うことも多い。

簡単に言えば、「あの人に任せれば大丈夫」といわれるようなクラスだった。


「雇った側が言うものなんだけど、君、私の護衛なんかしていていいのかい」


その微笑は、困った顔ではなかった。目の前の男の判断を、どこか楽しそうに笑う顔。

互いに、ギルドカードを懐にしまう。


「さあな」


ガルドは背もたれに凭れ、器を傾けながら、わずかに目を細めた。

視線はテーブルの上、もう冷めかけたパンに落ちている。


「……暇だった。って言やぁ、信じるか?」


ぼそりと呟く声には、どこかぶっきらぼうな照れが混じっていた。

だが、冗談にしては言い方が素朴すぎる。本当にそれだけだったのか、と問えば否定はしないだろうが、肯定もしないだろう。


「……お前みてぇな奴は、ほっときゃ野垂れ死にそうだ。そんなら、暇つぶしに着いてってみるかってな」


ぼそり、ともう一度。それが評価なのか、呆れなのか、自分でも分からないらしい。

パンをひとかじりする。あまり噛まずに飲み込んで、ルシアンの方を見ずに付け足した。


「——勝手にそう思った。それだけだ」


淡々とした声だった。

だがその言葉は、否定も飾りもない“本音”だった。




——ガルドには、何度も昇級の打診があった。


ガルドの持つAランクの上には、Sランクしかない。

それは、ごくわずか、数えきれるくらいの人口しかいないランク。

信用度は絶大、指名依頼が主になり、報酬も桁違い。


そして、国家や貴族も一目を置く。


裏返せば、特別監視対象となり、必然的に国や貴族とのつながりが生まれてしまう。——それが嫌で、Aランクに収まっている。

にもかかわらず、なぜこんな素性の知れない男の護衛をしているのか。


ガルドの瞳が、ルシアンを見た。それに気づいて、ルシアンも視線を上げる。

先ほどの”ぼやき”を、静かに反芻する微笑。


「——暇つぶしでも、君が引き受けてくれてよかったよ。もし振られたら、私はまだ護衛を探し回っていただろうね」


そう微笑んだルシアンが、首元のナプキンをするりと外し、簡単に畳む。

窓から通りを見やる。すっかり街も目が覚めた。今日の予定は、ない。目的地のない旅だった。


「私も少し、ランクを上げたほうがいいかな?ギルドに依頼でも探しに行こうか」


軽々とした、ちょっとそこまでお散歩に、といった声色。ガルドがやや、眉を吊り上げる。


「……勝手にしろ」


椅子を引く音とともに巨躯が立ち上がり、背の大剣の位置を軽く確かめた。

そのまま歩き出すこともせず、黙ってルシアンの隣に立つ。まるで「行くなら一緒だろうが」と言わんばかりに、当然のように。


——依頼を探す、などと言っても、ルシアンが向かうのはきっと散歩の延長。目にとまった張り紙を眺めて、どんなものかと楽しむくらいのものだろう。

だがそれでも、外に出るのなら護衛は要る。そういう立ち位置だった。


「……無理して受けんなよ。Fがやられりゃ、俺の責任になる」


口調はぶっきらぼうだが、目線はルシアンの肩越しに、外の陽光を捉えていた。

朝の雑踏が広がる街路。今日も、また何かが始まっていく。


「行くなら、さっさとしろ。……待ってやる」


ただその一言だけを残し、ガルドは先に店の扉へ。その背中を見送り、ルシアンも席を立った。



「うん、やっぱり、彼にしてよかった」


そう微笑んだ声は、ガルドには届かずに空気に溶けた。






セレスの冒険者ギルドも、朝の活気に飲まれていた。

依頼を受ける者、夜間の依頼から帰ってきた者。新しい依頼書を掲示する職員、ギルドに依頼を出す組合員や市民。

鉄と革の匂いがその空気を包むが、ギルドの扉が開いて舞い込んだ空気に、一瞬だけざわめきが鎮まった。


——無哭(むこく)だ。

無哭のガルドが街にいる。


そんな視線だった。


噂をする声はあれど、声をかける度胸のある者はいない。

まして、連れ立ってその後ろを歩く淡紫の男が、よりその異質さを際立てていた。


「なんだアレ……」

「ああ、どういう関係だ……仲間か?」

「ありゃ男か……どこぞのお貴族様か?」


無遠慮な視線に、ガルドの赤い瞳が流れる。

さ、と視線が波のように引いていく。

ルシアンは変わらず、柔和な笑みを保っていた。


「無哭が……?あいつ誰かと組むことあんのかよ」

「仲間なんて初めて見たぞ……」


——だがそのざわめきは、一歩一歩とガルドが歩を進めるにつれて、自然と沈静化していく。


周囲の視線が迷子になる中、ガルドが無言で掲示板を指差す。

ルシアンがそちらへ視線を移したのを確認して、——正面奥、カウンターの受付嬢はこっそりと胸を撫でおろした。


「こ……こっち来るかと思ったわ……」


そんな小さな、安堵の声。ギルドホールの隅では、再び小さくざわめきが戻っていた。

だが、それは警戒ではなく——どこか、目を奪われた者たちのざわめきだった。




背で手を組んで掲示板を見るルシアンの後ろから、同じようにガルドも覗き込む。

初めから決まっていたかのような立ち位置。

無言で守るごく自然な動きに、——周囲もやがて、おし黙った。



——《調査・記録補助》

【依頼内容】

最近、街外れにて地形変化とともに突如湧出した自然水源を確認。一部で植物の異常成長や、微弱な魔力濃度上昇が報告されている。本依頼では、現地に赴き以下の記録・観測支援を実施してもらいたい。

・水質の簡易記録(備品貸出あり)

・周辺の温度・湿度・魔力の変化測定(※魔力感知可能な者優遇)

・成長植物の写真・採取補助(指定個体のみ)


【目的地】

街西端・第三農道先の旧雑木林跡地(仮称:西の泉)


【報酬】

銀貨五十枚(記録精度により変動)


【特記事項】

・調査地は市街地から徒歩半刻程度の低地林。小型魔物の気配あり。

・調査は日中のみ実施。宿泊を伴わない単発依頼。

・魔力干渉に敏感な職種(魔術師・回復術師等)は、現象の記録に重要。魔力感知が可能な支援職の参加を歓迎する。


【備考】

・環境記録官一名(主導)

・助手一名(移動・運搬補助)

※本依頼において冒険者は「補助者」として記録官の護衛と現場支援を行う




「お前こういうの得意そうだな」


ガルドが指さした依頼書を見て、ルシアンは笑みを深めた。

調査、観測、記録、魔力測定。確かに得意ではある。

が、それよりも、数多く並べられた依頼書の中から、これを選別し、静かに示してくる護衛。


「ふふ、頼もしいね」


肩越しに満足げな笑みを向けたルシアンは、その依頼書を引き抜き、受付カウンターへと歩を進めた。




受付カウンターでは、先ほどの受付嬢が既に立ち直り、微笑を作っていた。

だが、その手元はややぎこちない。緊張が抜けきっていないのだろう。


「おっ、おはようございます、冒険者ギルドセレス支部です」

「おはようございます、こちらをお願いします」

「っはい、承ります。えっと、こちら……“西の泉”調査……ギルドカードのご提示をお願いします」


依頼書を受け取り、ぺらぺらと確認用の書類を取り出す。

ルシアンが差し出したカードを確認し、帳簿に記入していく。

隣の席にいた書記官の青年が小声で何かを耳打ちし、受付嬢が「あっ」と小さく声を漏らした。


「えっと、もしかして、ガルドさんもご一緒に……?」

「……ああ」


受付嬢が、一瞬固まった。

Fランク相当の依頼に……?と思ったものの、ルシアンが柔和な微笑とともに首を傾げて、疑問は飛んだ。


「っで、では、ルシアンさんが記録補助者として、ガルドさんが護衛としてご登録となります。

依頼主は市役所下部機関の環境調査課。現地にて環境記録官の指示に従ってください。

現場は市街地西端、第三農道先。九つ鐘が鳴る頃に現地集合となっております。……こちらにサインをお願いいたします」


する、と差し出された記録台紙に、ルシアンがペンを走らせる。

書き終える間も、受付嬢の視線は微かに泳いでいた。


「それにしても、無哭……い、いえ、ガルドさんが調査依頼を受けるなんて、初めてです……あっ、いえっ、すみませんっ……!」


思わず出た本音を慌てて打ち消す。

だが、ガルドは気にした風もなく、そっぽを向いたまま小さく鼻を鳴らした。






——【街歩きは早朝に】

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