【都市セレス】
夜明け前、ルシアンとガルドが連れ立って丘の上に戻れば、朝露に濡れた花が花弁を広げ始めていた。
淡く白い花弁がひっそりと天に向いている。まるで夜明けを讃えるようなその姿。
日の出とともに閉じてしまう花は、昼にも夜にも属さないほんの一瞬の世界に、確かに存在していた。
花の甘い香りが漂う。まるでそこだけ、ぼんやりと淡い色彩が生まれたかのような景色。
「わあ、見てごらんガルド」
横顔のまま、ルシアンが笑みを零した。
すね辺りまで少し隠れる程度の花畑を、踏みつけないように進んでいく。
——花なんて、見て何が楽しいんだか。
ガルドは少し離れた場所で、片方の眉を吊り上げながらそう思った。
が、ルシアンが触れていった花が、ぽろぽろと朝露を零す。
きらり、きらりと朝日の気配にきらめく。意図せず思ってしまう。
確かに、これは——
「綺麗だね、ガルド」
「……ああ」
花の中心で振り返った彼は、満足げに微笑んでいた。
ぼやいた返事は、どこか負けたような声音。けれど、そこに不満はなかった。むしろ——心の奥が、静かに温かい。
丘の上。風のない朝。
辺りに満ちるのは、土と露と、花の香り。その中心に立つ、淡紫の髪の男。
朝陽を背に、銀の瞳がこちらを向いている。
草を踏まず、花を壊さず、ただ“そこに在る”ためだけに選んだ立ち位置。
その姿が——景色の一部のようで。
「……綺麗に、見える」
思ったより声が近かったのは、いつの間にか歩を進めていたからだ。
花に触れぬよう、長い足で慎重に、だが確実に。
「……この中じゃ、お前がいちばん派手だな」
ぼそりと、だが確かにそう言って、ガルドは視線を逸らした。
照れくささを焚き火の灰にでも混ぜたいくらい、そんな気分だった。
けれど、ルシアンはただ、笑った。何も茶化さず、何も返さず——満ち足りた顔で。
それがまた、いちばん厄介で、いちばん……胸を締め付ける。
「……次の街、花なんかねぇとこがいいな。……胸やけしそうだ」
ため息混じりにそうこぼして、赤い瞳が花から目を離した。
それでも、二人の影は並んだまま、花の中心で揺れていた。
朝日を背に、元の街道へ戻る。
望みの景色を見れて、ルシアンはどこか機嫌がよさそうだった。
「そういえば、君は苗字は何て言うんだい」
柔らかな世間話の声色。後ろを振り返らず、ガルドは少し、間を置いた。
「……ヴェルグリム」
「ヴェルグリム。ふふ、なんだか硬派で君らしい名前だね」
なんだそりゃ、とわずかに思った。
普段周りから呼ばれるのは、「無哭」、「無哭のガルド」。それか「あいつ」。
名前ならまだしも、苗字を呼ばれることはめったにない。
あえて名乗ることもしない。だからこそ、なぜ言ってしまったのかもわからなかった。
「覚えておくよ。ガルド」
楽しげに帰ってきた声に、またも眉を吊り上げる。
(——苗字ねぇ)
(……こっちが聞いたら、応えるのか、あいつは)
肩越しに、ゆれる淡紫を振り返る。目が合い、にこりと微笑まれる。
「……クソ、隙がねぇな」
ぽつりと、息のように零れた声。
振り返ったことを、まるで見透かしていたかのように向けられたその笑顔に、何も言えず、ただ視線を前に戻した。
風が通る。朝の光が街道の石を照らす。長く伸びた二人の影が、道の上を静かに並んでいく。
「……俺の名前なんざ、覚えたとこで何もねぇ」
呟きながら、ガルドは胸の奥で続けた。——けど、聞くなら、今のうちか。と
「……お前は?姓なしのツラじゃねぇだろ」
わざとらしく投げるような言い方。けれどその言葉は、きちんと“答えを求める”問いだった。
歩く速度はそのままに。けれど、隣の男が何と返すか——それだけに、耳は妙に澄んでいた。
ざ、ざ、と地面を踏みしめる足音だけが、辺りに響いた。
ガルドの問いかけが届かなかったわけではない。明確に、返答が途切れただけ。
つい、と肩越しに振り返った、赤い瞳の、その視線を受けて——
ルシアンはただ一つだけ、また、にこり、と返した。
拒否も拒絶もない。ただの、微笑。名を知ることを、ほんのわずかに、ためらわせるような微笑み。
「私は、ただの旅人のルシアンがいいな」
まるで、それではダメ?と聞いてくるような声色だった。
それで護衛の男に不審に思われたとしても、仕方がないと諦観するような気配すらある。
「……それで君が私を信用できないと言うのなら、名乗るよ、ガルド」
ガルドは、返ってきた微笑の意味を測るように、しばし視線を逸らさなかった。
そして、足を止めることもせず、再び前を向いた。
「……チッ。ずりぃ言い方しやがって」
悪態のようで、どこか気が抜けたようでもある。その声には、怒りも苛立ちも、なかった。
「だったら、信用ってのは名前だけじゃねぇくらい、言え」
「ふふ、そうだね」
ごつごつとした足音が、また再び、街道を踏みしめる。その横で、柔らかな足音がついてくる。
距離は——やはり、変わらない。
「ただの旅人、な。……まあ、そういうことにしといてやるよ。今はな」
それだけ告げて、ガルドはもう振り返らなかった。
名を明かされなかったことに対して、深く詮索する素振りもなかった。
“名乗りたくないなら、名乗らせない”。
それが、無骨な護衛なりの——不器用な、信頼の示し方だった。
そこからさらに二日ほどかけて——
ルシアンらは次の街にたどり着いていた。
街道の途中にある都市、セレス。大きくはないが、あらゆる機能が整った街だ。
日はすっかり傾いて、石畳の通りに夕陽が赤く差していた。久々の営みの気配に、ほんの少し、肩が緩む。
「ガルド、私は宿屋を取ってくるよ。夕飯を食べるお店を探してくれるかい」
一歩踏み出したルシアンが、ガルドを振り返った。
淡紫の髪が夕陽で橙に染まる。それすら見ないふりをして、ガルドは短く返事を返した。
「ああ。……文句言うなよ」
「言わないよ。お肉でもお魚でもお酒でも。またここで待ち合わせしよう」
小さな広場の、その足元を示してルシアンが微笑む。ふん、と小さく鼻を鳴らし、ガルドが街中へ歩き出した。
屋台で食べてもよかったが、何日も野営が続いた。どこかの店でゆっくり座りたい。柄の悪い店は——避けておくか、と。
街の空気の中、鼻をくん、と鳴らす。
ガルドは、獣並みの感性を持っていた。それは戦闘における危機察知や直感だけでなく、音、光からの情報、果ては食べ物の匂いにも適用される。
ようは、美味いものを嗅ぎ分けるのが得意だった。
通りを歩く人々の間を縫いながら、街路の匂いに意識を澄ませる。
乾いたパンの焼ける香ばしい香り。染みついた油の匂い。酒場の開いた扉から漂う蒸気と酢のような刺激臭。
——全部、悪くない。だが、気を引くものはない。
「……ん」
風が一筋、鼻先を掠める。それは、焼き物でも煮込みでもない。
炭火の焦げと、香草と、肉の脂が混ざった……上質な香り。
首を巡らせる。通りの奥、灯りのまだ少ない脇道に、ぽつりと一軒の店があった。
扉は開いているが、客の気配は少ない。どちらかといえば常連向け。だが、内装に無駄な派手さはなく、使い込まれた木の看板には手間の跡がある。
「……あそこだな」
扉の横に控えた若い店員が、少し驚いたようにこちらを見る。
でかい男が無言で現れれば無理もない。だが、ガルドは無造作に声をかけた。
「二人だ。……この後、一人来る」
一瞬だけ不安げに目を泳がせた店員が、奥を振り返り、すぐに笑顔を戻す。
「はい、お好きなお席へどうぞ!」
木のテーブルと椅子が並ぶ落ち着いた店内。入り口近くの席を避け、奥まった壁際の席を選ぶ。
ガルドは一度、そこに座りかけて——思い直した。
「……ちげぇ、待ち合わせ、だったな」
再び立ち上がり、足を返す。選んだその店を背にして、夕暮れの街へと戻っていった。
きっとあの小さな広場では、橙の陽が、石畳を赤く照らしている。
そこに、まだ“旅の相棒”がいなければ、その時こそ、目に焼き付いた色を探しに行けばいい。
ガルドが広場に立てば、ちょうどルシアンも戻ってくるところだった。
髪にかかる夕陽の残光。柔らかな外套の裾をはためかせ、歩み寄ってくる。
「ガルド、お店あった?」
「ああ」
その微笑に、ガルドはわずかに視線を逸らした。
「……炭火と酒だ。文句ねぇな」
「いいね」
言いながら歩き出す。すでに、歩幅は自然とルシアンに合わせていた。
ガルドに案内され、店に入る。客はぽつぽつと。冒険者風もいれば、地元の夫婦らしき客もいる。騒がしくはない。
店主と目が合うと、軽く会釈が返ってきた。無愛想な顔をしていたが、それがかえって信用できる。
「いらっしゃいませ……えっと」
声をかけてきた店主の妻らしき店員が、ルシアンを見て少し固まる。気まずそうに一言。
「も、申し訳ありませんが、当店、貴族様のお口に合うかどうか……」
消え入りそうな声に、ルシアンが柔和に微笑んだ。
「おや、貴族だなんてよしてください。私は一介の冒険者です。ほら、仲間もおります」
後ろのガルドを手のひらで示しながら、小首をかしげる。またか……とガルドが、ぐ、と顎を引いた。
店員はというと、ルシアンの微笑みに肩の力が抜けたのか、すみません、と謝って空席を示した。
奥の壁際、窓のそばの席に案内される。視界に通りが映る、静かで落ち着いた席だった。
「本日のおすすめは、鹿肉の炭焼きと、串盛り三種になっております」
店員にそう言われ、ルシアンがガルドを見やる。
好きにしろ、という赤い瞳。思わず、微笑む。
「では、そちらのおすすめを。果実酒を一つ。それと、焦がしガーリックの——」
メニューを見ながら、ルシアンがさらさらと注文をしていく。まるで、何年か通っているような振る舞い。
ガルドも追加で二、三品注文し、手元の水を飲む。相も変わらず目の前の魔術師は、意図せず視線を集めていた。
視線。息を呑む音。手が止まる音。そのすべてが、ルシアンの存在に惹きつけられていた。
——だが、本人はそれに気づいても気に留めない。
ましてや、見せびらかすような素振りは一切ない。ただ、笑っているだけ。あくまで自然に、あたたかく。
ガルドはもう一口、手元の水を飲み、赤い瞳を軽く伏せた。
街で、ギルドで、宿で、食堂で。どこに行ってもこの男は、風のように注目を集めてしまう。
少々の違和感をおぼえた。彼が視線を集めることにではない。
視線を集めるその男が、自分のそばで、静かにこうしていることに。
「……さっきの、ずっとやんのか」
「うん?」
ぼそりと呟く。返ってくる銀の瞳は、きょとんとでも言いたげだった。
「いちいち俺を……看板みてぇに」
ああやって、毎回“仲間がいます”と紹介されるのか、と。
そのたびに、何を言われるでもないのに、胸の奥がざわつく。“紹介される”ことに慣れていないのは、自分の方かもしれない。
「ううん、必要がなければ言わないんだけれどね」
「……こりゃしばらく使われるな」
呟きとともに、ふっと吐き出された息は、どこか、火照りを抑えるような仕草にも見えた。
その時、厨房から芳ばしい香りが漂ってくる。
香草と獣肉、焦がしたにんにくの香り——腹の虫が鳴りそうなほどの、しっかりとした食欲の刺激。
「……飯が来るまで、静かにしとけよ。……余計な笑顔ばらまくな」
見られてんだよ、お前は。
ガルドはそう続けかけて、やめた。
それを言ったところで、あの男はきっとまた、にこりと微笑むだけだろうから。
窓の外、赤く染まった通りを視界に入れながら、ルシアンは一度深く息を吐いた。
野営の夜とはまるで違う、街の夜の匂い。焚き火の煙ではなく、焦がし油と焼きたての肉の匂いが漂う。
やがて、注文した串盛りと炭焼きが運ばれてくる。
香草とスパイスで焼かれた三種の肉。付け合わせには炙り野菜、そして彩りの果実ソースが添えられていた。
「そういえば、君、言動は粗野なのに、食事をするさまが下品ではないね」
——エールをあおる、ガルドを見て。自身は果実酒を飲みながら、ルシアンがそう笑った。
「暴力をふるう、物に当たる、品位が疑われる、そんな気配がない」
それはどこかささやかでいて、ガルドを認めるような意思が滲んでいた。
ガルド自身、そういった乱暴な立ち居振る舞いをする奴らをバカバカしいと思う節がある。だがそれを、目を見て褒められたことなど、一度もなかった。
「……チッ」
遠慮せずに、舌打ちをする。居心地が悪いわけではなかったが、むずがゆかった。
思えば、こうして面と向かって座ったのは、初日に食事をして以来のような気がする。
どこか気を張っていたあの時とはと違い、目の前の男は、リラックスしているようにも見えた。
「……言われ慣れてねぇ、そういうのは」
串をかじりながら、ぼそりと漏らした言葉は、いつもの不機嫌とは違った。
どこか、苦笑に近い。
だがその手は止まらない。串の合間に野菜を挟み、焦げ目のついた玉ねぎを噛みしめる。
酒の味も、炭の香りも、どれもじんわりと身体に馴染んでいた。
「つうか、お前はどうなんだよ」
「私かい?」
頷くでもなく、ガルドは向かいの銀の瞳を一瞥した。
粗野でもない、品もある、けど何者か分からねぇ——そういう意味の視線。
「……妙に人を見てやがる」
肉をかじる合間の、短く静かな言葉。
にこにこと人懐こい振る舞いの奥にある“目の良さ”が、時折ガルドを射抜く。
「見られると、落ち着かねぇ。まぁ……悪い気はしねぇが」
そう呟いたあとで、ガルドはひとつ笑う。自嘲とも取れるが、どこか清々しい響きだった。
赤い瞳が、ふいと窓の外を見やった。赤く染まった通り。行き交う人々。
その風景の中に、確かに“ふたりの夜”が存在していた。
そして——
「……お前、やっぱり名乗らねぇつもりか?」
串を置いて、再び視線がルシアンに戻る。
それは、問いというより“確認”。信用があるかないかじゃない。
ただ、知っておきたいと思っただけの——静かな熱を孕んだ眼差しだった。
ほんの少し、銀の瞳が揺れたものの。
やはりそれにも、ルシアンは笑顔と沈黙を以てして返事とした。
——が、少しして。
「……家族には、ルシって呼ばれてるよ」
皿の主菜を切り分けながら、ルシアンが静かに呟いた。微笑みはそのままに。
——洗練された流れ。音のない動き。鹿肉。三種の串。ガーリックの骨付きロースト。
切り分けた食事を、自分の皿に取り分ける。
「ガルドは量を食べられる?」
ふいにルシアンが、顔を上げてそう笑った。
串に刺された鹿肉を口に運びながら、ガルドがくい、と頭を傾ける。
「まぁ、……食う方だな」
「私はたくさん種類を食べたいけれど、小食なんだ。私のものを君に分けたら、怒るかい?」
そう尋ねながら、皿の上に残る料理を、ガルドのほうへ差し出してきた。
ぴく、とガルドの赤い瞳が、料理とルシアンを交互に見る。
——たとえば、ひと切れの肉を与えることが、「命を預ける覚悟」を見せる、言葉に代わる表現だと。
この淡紫の男が、知らないわけでも、なさそうだった。
「もちろん、人の料理が嫌なら、いいんだよ」
「……怒るかよ、そんなことで」
くぐもった声が、喉の奥から落ちる。
けれどそれは、拗ねでも皮肉でもない。ただ、どうにも慣れていないだけの声音だった。
差し出された皿に視線を落とし、——少ししてから、ガルドは手を伸ばす。
無造作に見えて、指先は丁寧に一切れを掴んだ。
「……味見くらいには、ちょうどいい量だな」
鹿肉の切れ端。炭の香りと果実ソースの酸味が鼻を抜ける。
咀嚼しながら、ガルドはしばし黙って、それから、ぽつり。
「……ルシ、ね」
その呼び名を、ゆっくり噛みしめるように呟く。家族以外で音に出したのは、たぶん彼が最初だった。
そんな距離、自分には、
「似合わねぇ。けど……」
言いかけて、口を閉じる。
あまりにもしっくりくるのが、腹立たしいようで——どこか嬉しかった。
「……家族、な」
ガルドは、言葉の先は続けなかった。
だが、きっと“その呼び方”を使うことは、この男にとって意味のあることで。
名前を名乗らぬ相手が、恐らく自分だけに許した、小さな情報で。
「ま、お前が許すまで、それで呼ぶのはやめとく」
「ふふ、なんだい、それ」
不器用な誠意を、あえて形にする。
それがガルド・ヴェルグリムという男の流儀だった。
「……代わりに、俺が食ってやる。全部な」
鹿肉をもう一切れ取って、無造作に口へ放る。咀嚼の合間、ふと目を上げて、赤い瞳が銀と交差した。
「……ごちそうさん、ルシ」
その一言だけが、やけに穏やかに、静かに響いた。
ルシアンも、一つだけ頷いて、目を伏せる。たったそれきりと、互いにわかった上での、一度。
果実酒のグラスが、その手元でくるりと揺れる。琥珀色の輝きが、銀の瞳に映るかのようで。
「…………、……そういうお前はあれだ、魔術師なら杖は使わねぇのか」
話題を変えるかのように、ガルドがそう尋ねてきた。
ルシアンの手に剣ダコはない。だが、杖を持っている様子もない。
「ふふ、そうだね。杖は出力が高くなりすぎてしまうんだ。素手が一番制御しやすい」
返された答えに、そんなものか、とガルドが眉を吊り上げる。
ガルドは魔法には明るくない。だからこそ、魔術師である本人が言うのなら、そうなのだろう。
エールの杯をテーブルに戻す手が、ごつりと木面を打つ。
「普通は、威力を上げるために杖を持つんじゃねぇのか。……素手で制御ってのは、聞いたことねぇな」
呆れ半分、感心半分。だがその声音には、明らかに“好奇心”が混じっていた。
自分への興味が尽きない護衛に、ルシアンは面白そうに笑った。
「うん、なかなか身軽でいいよ」
「……ったく、何者だよお前」
杯をもう一度傾けながら、ガルドが息を吐く。
まるで、底の見えない水面を覗き込んでいるような目だった。
「素手の魔術師なんざ、初めて見た」
赤い瞳が、対面の細い指先をちらと見やる。
器用な動き。無駄のない所作。それでいて、人を押し退ける力強さもない。
「……けどまぁ、お前が杖振り回して歩いてたら……今の倍は目立ってるな」
そう言って、またも赤い瞳がちらりとルシアンを見る。
淡紫の髪。銀の瞳。丁寧な仕草。静かな笑顔。
——杖を持たずとも、既にどこにいても異質で、美しい。
「……いいさ、素手で。俺が前に出る。お前は後ろで構えとけ」
すっかり空になった杯を、トン、とテーブルに戻す。
その音が、ふたりの間に妙な心地よさを残した。
「頼りになるね、君」
「はっ。素手の魔術師と、剣より先に睨むだけの護衛だ」
ふと笑った横顔は、酒の熱も手伝ってか、どこか柔らかかった。
そしてその笑いは、もう“雇い主と護衛”のそれだけではなかった。
それは確かに、傍にいる者として——旅を共にする相手としての、言葉だった。
食事を終えて宿に戻る頃には、すっかり夜が更けていた。
ルシアンが取っていた宿屋は、街の表通りから一本ずれた場所にあった。
年季の入った宿だったが、店の前の通りや植え込みが綺麗に手入れされており、受付カウンターの上で猫が転がっていた。
「ああ、これは、お帰りなさいませ」
ルシアンに気づき、受付にいた主人が深々と頭を下げる。
おずおずと鍵を二つ差し出し、ルシアンとガルドが二階に上がるまで、頭を下げ続けていた。
妙な態度に、またもガルドの眉が吊り上がる。
そしてその不審の目は、宿の主人ではなくルシアンに向かった。
「……何かしたな」
「何もしていないよ。君、私を悪いやつだと思っていないかい」
階段をのぼりながら、ルシアンが肩越しにガルドを見下ろした。
受け取った鍵を一つ、ガルドに手渡す。
が、ふむ、と口元に手を当て、少し思い返す仕草も見せた。
「しいて言うなら、私を見て値段を吊り上げようとしたから、話し合いをしたくらいかな」
「話し合い、ね……。ビビらせてやるなよ」
「ふふ、そんなつもりはなかったよ」
ルシアンは肩をすくめるように、笑みを浮かべただけ。
足取りも呼吸もまるで乱れていない。
やましいことはしていない、という自負すら感じる態度だった。
「……だから、そういうとこだっつってんだよ」
階段をのぼりながら、ガルドが低くこぼす。その声に怒りはない。
ただ、妙に人を手玉に取るこの男の“笑顔の使い方”に、警戒を通り越した諦めが滲んでいた。
「脅してねぇつもりでも、脅されてんだよ、あれは。……お前の顔で、な」
「そんなつもりはないのになぁ」
ぽつり、と投げられた一言。
後ろを歩く男の、すこし呆れた吐息。
だがその口調には、ほんのわずか、“仕方ねぇな”と笑うような、乾いたぬくもりが混じっていた。
「じゃあ、また明日」
「ああ」
渡された鍵を手に、ガルドがルシアンを振り返る。
街道の野営とは違い、今夜は屋根と壁と、鍵のかかる扉がある。
「……鍵はかけとけよ。中から」
言葉の意味を深く掘るまでもなく、ただの護衛としての常識だった。
ルシアンも頷き、ガルドの向かいの部屋に入っていく。内側で、鍵が閉まる音。
赤い瞳は一拍だけその扉を見据え、それからゆっくり視線を外した。
「ルシ、な……」
低く、素朴な声。
それだけ残して、ガルドは自分の部屋の扉を開けた。
まるで、それ以上言うと“何か”が崩れそうで——、早く眠りにつきたかった。
扉の向こう、廊下の静かな気配が、淡紫の男の笑みを、ふわりと照らしていた。
——【都市セレス】




