【契約の答え合わせ】
海中で、ガルドは再びそれと相対していた。
——守護獣。
その言葉を聞いて、目の前の存在が大きく見えた。けれど、……どこか小さくも見えた。
藍色の滑らかな肌に、えぐれた小傷が目立った。黒い瞳は、濁っていた。
両翼の紋様は輝いていたが、不安定に明滅していた。
(——あのガキみてぇだな)
数日前、突堤の先でただ、星を見て帰り道を探していた少年を思い出した。
あの子どもは夜の中、孤独に、ひたすらに、帰る場所を探していた。
……あれは、ルシアンが送った。
そして今、目の前の魔獣は、孤独にこの海を抱き……ひたすらに自らの暴走から他者を守り、守護獣然としている。
長い沈黙だった。間合いを図っていたのか、こちらの意図を汲んでいたのかはわからない。
けれどガルドにはその濁った瞳が、斬首を待つ罪人のように見えて仕方なかった。
(っ……ちげぇだろうが、その目はよ!)
水を蹴る。大剣の柄をゆるりと握る。
ならば苦しませない。痛みなど一片も感じさせない。それができる全てだった。
……これは、自分が送る。
シーグロウルが両翼を大きくはばたかせた。ガルドの身体が、音もなく沈む。
大剣を構えた姿勢のまま、重力ではなく“意思”で、深く——深く、沈んでいく。
(——来い)
濁った瞳はまっすぐにこちらを捉えている。だがそこに宿るのは、もう殺意ではない。
もはや、滅びを許してくれる者を探すような、静かな……“願い”だった。
ドォン……
水を割く音が響く。
巨体が、一直線に突き抜けてきた。
(——速ぇ……!)
だが、読める。向こうが、それをよしとしている。
大剣を、逆手に持ち替える。
狙いは身体の中心、両翼の付け根——恐らく暴走する魔力の奔流。
ゴンッッ!!
水圧を切り裂き、鋼が骨に届く。びくりとシーグロウルの体が一瞬だけ痙攣し、そのまま、衝撃で海流が真横に走る。
(……まだ、だ)
そのまま回転する勢いを利用し、もう一撃。
喉元ではない。心臓でもない。
——濁った目と目の、ちょうど中間。
大剣の全身で貫く。
皮膚も、骨も、神経も。せめて何一つ感じぬように。
ズッ
重たい手応えが、ガルドの肩から背まで響いた。金紋が一度眩くぎらめいて、力をなくしたその身体が尾から落ちていく。
自重でぬるりと眉間から大剣が抜け、細かく震えた眼差しは一瞬だけ海上の太陽を仰いだかのようで……そのままに、巨体が沈む。抵抗は、もうない。
黒い瞳が光を失っていく。……眠るのだ、これから、深い海の底で。大海に抱かれて。
最後の瞬間、瞬いた海中の光輪は、確かに船上に届いていた。
その奥、海水に黒く濁る血も見えた。
戦場では歓声が湧き上がる。冒険者パーティーを二組も敗走させた魔獣が、たった一人の戦士によって討伐された。
船上空の奇妙な水紋も消えた。水面にガルドが顔を出し、ことさらに歓声が上がる。
その最中、ルシアンは一歩引いてそれを見ていた。
ぎち、とロープが張り、ガルドが甲板に戻ってくる。全身ずぶ濡れで、けれど赤い瞳は濁っていなかった。
……ああ、やはり縛るべきではない、と。
ルシアンはそう、思った。
彼が動けば、こうして救われる人々がいる。その膂力をもってして、間に合う命がある。
自分の旅は、その可能性を潰している。そう、思った。
ごつ、ごつ、と甲板に靴音を鳴らし、ガルドが歩み寄ってくる。
笑みを、作った。
手に持っていたタオルを差し出す。
「おかえり、ガルド。お疲れさま。怪我はないかい」
「ああ……。……送った」
「そう。……いけたと思うよ」
その高揚の中にあっても、ルシアンの横顔は静かだった。
まるですべてを水面の揺らぎに溶かして、ただ、今そこにあることを確かめるように。
ガルドは、差し出されたタオルを無言で受け取った。濡れた髪をぐしゃりと拭いながら赤い瞳がちらとルシアンを見たが、何も言わなかった。
陽の色が、淡い金に変わりはじめる。空にはもう水紋も、波のざわめきもない。ただ、静けさと、港へ帰る船の揺れだけ。
「……あいつ、抵抗しなかった」
ぽつりと呟いたその声は、風に紛れて誰にも届かなかったかと思ったが……ルシアンの肩が、ほんのわずかに緩んだ。
——それで、よかった。
港が近づく。ギルドの職員たちが桟橋に待ち構え、調書の準備を進めている気配がある。
船上の活気は港にも伝播し、言葉はなくとも討伐の成功が伝わっていく。だがふたりは、まだ互いの間にだけある空気の中にいた。
今日という旅が、何を守り、何を奪ったのか。その答えを持つのは、いつだって“次”を選ぶ者だ。
傾いた陽が柔らかに、二人の影を伸ばしていた。
歓声に包まれる討伐船は、高揚をもってして、静かにセレフィーネへと戻っていった。
「……守護獣……」
港で帰りを待っていた冒険者ギルドの職員たちは、ルシアンの言葉に絶句していた。
帰港の船の上、あれほど盛り上がっていた船員たちも、今は言葉を失っている。
「はい。魔獣の特徴からいって、あの海域の守護獣でした。我を失い、見境なく攻撃を繰り返していたのでしょう」
「そんな……す、水紋は……?」
「守護獣がこちらへ避難を呼びかけていたと考えられます。魔獣であれば理解できたのかもしれませんが、私たち人間では言語の壁があった。……現に、あの海域に他の生き物は全くいませんでした」
確認をするように、ルシアンがガルドを見上げた。ガルドも頷き、周囲の人波が息を止める。
「……敵意の塊だった。だが討伐したのは俺の判断だ。文句があれば言え」
低く冷淡なその声に、異を唱えるもの者は誰もいなかった。
誰もがわかっていた。倒したのは彼で、間違いなく命を奪った。……その腕に、その背に何を背負ったのか。それがわかった。
だから誰も、何も答えなかった。
「……守護獣は、また数年で新しく生まれるとされています。たったの数年です。次の護り手に繋ぐまで、皆さんがこの街を護れないわけではないでしょう?」
ルシアンの柔らかな声が、この場を包む。
は、と息をのむ音がする。
俯いていた者が、一人、また一人を顔を上げる。
「……はいっ……!」
先んじて声を上げたのは、あの補助要員だった。
顔を上げたその目は、まだ赤みを残していたが、しっかりと前を向いていた。
「俺たちが……護ります。次の守護獣が来るまで——いや、それから先も!」
「……討伐じゃない、これは……“引き継ぎ”だ」
「……次の代まで、街を……海を護る。それが、俺たちの役目だろ……!」
ぽつり、ぽつりと漏れる言葉に、他の職員たちも次第に頷いていく。
討伐報告を受け取るだけが役目ではない。街を預かる者として、自分たちがすべきことを思い出していく。
ガルドはそれを無言で見ていた。赤い瞳は細められ、顔に刻まれた影が深い。
だが、腕は力なく下ろされたままだった。
その隣に立つルシアンが、そっと目を伏せる。感情の色を見せることなく、ただ静かに、その場の空気を整えていた。
そうしてやがて——ギルド職員たちが深く、深く頭を下げる。
「……ガルドさん。ルシアンさん。本当に、ありがとうございました」
「街も、海も、必ず……」
「あなたが護ってくださったこの“今”を、次へ渡します……」
拍手も喝采もない。ただただ、静かに頭を垂れる。
海を背に立つ、巨躯の男に。その存在に、……大海の底に”眠った守護獣”をも、どこか感じながら。
淡い色の外套が、海風に揺れる。隣のガルドは、その横顔に夕焼けを浴びながらも、諦めたようにぽつりと呟いた。
「……情緒で動く奴が、ひとりいるだけで……ほんと、厄介だな」
その声に、銀の瞳がふわりと微笑を返す。……もう言葉はいらない。ただふたり、また次の物見遊山へと歩み出すだけだった。
ずぶ濡れのガルドを見て、宿の従業員は慌ててタオルを数枚持ってきた。
部屋へ湯を張りに行く者。怪我がないか心配してくる者。
すっかりこの宿になじんだ獣のような男は、それでもどこか居心地の悪そうな顔をしていた。
「ふふ、ちょっと港で長く喋りすぎたね。乾かしてあげようか」
眉尻を下げて笑いながら、ルシアンがガルドに手をかざすが……ガルドが視線でそれを制した。
「んなもん、わざわざいい。風呂はいりゃ済む」
「そうかい?」
それは決してやせ我慢などではなく、あくまでガルドの”普通”だった。汚れた身体は風呂に入ればいい。汚れた服は、宿の洗濯に出せばいい。ただそれだけのこと。
……ついでに言えば、日々の生活をなんでも魔法で解決しようと”しない”ルシアンに、そうして世話を焼かれそうになったことが……ほんの少しむずがゆかっただけ。
互いの部屋の前で一度別れ、ガルドはまっすぐに風呂へと向かう。身体も、服も、髪も、海水と潮風でだいぶべたついていた。すでに張られた湯の温度は、申し分ない——が。
……ルシアンがとったこの、少しお高めの宿……大変快適なのはまぁいいとして……、いつもこれでは旅の感覚がおかしくなりそうだ。
次の街の宿屋は、普通のグレードに戻してもらえるように頼まねば。……そう、思った。
海中で酷使した筋肉を、静かに解いていく。熱めの湯に背を沈めれば、音のない世界に包まれる。
(……守護獣、かよ)
ちゃぷり、と手のひらで顔を拭う。瞼を閉じれば、濁った瞳と、金の紋様が脳裏をかすめる。
ルシアンが言った”送る”という言葉と、自分の手で”終わらせた”実感とが、なぜか、同じ重さを持って胸に残っていた。
(……情けなんざ、俺は知らねぇが)
髪から滴る水滴が、ぽた、と独り言のように溶けた。
——風呂から上がると、肌に触れる空気がやけに柔らかい。着替えを済ませ、濡れた装備は備え付けの籠に入れ、扉の近くに置いておく。
ベッドの上、船上でルシアンに渡されたタオルが、丁寧に畳まれて置かれていた。生活に人の手が入る、というのは、……きっとこういうことなのだろう。
ため息をついて、椅子に腰を下ろす。
夕食はどうする、と訊くことすら忘れていたが、どうせ、来る。
遠く窓の外、潮騒が聞こえる気がする。実際に聞こえているわけではなく、恐らくそのさざめきが耳に残っているだけ。街の生活音や家路を行く人々のざわめきのほうがよっぽど近かったが、耳の奥はまだ、海の音を拾っていた。
き、と部屋の外、扉が軋む音がする。……ドキリとする。絨毯の上を歩いてくる足音が、この部屋の前で止まる。
コン、コン、コン。
「……ああ」
返事をし、腰を上げる。やや一拍置いてから扉を開ければ、やはりルシアンが立っていた。
すでに街着に着替えて、微笑んでいる。……石鹸の匂いがした。
「温まったかい?夕食、宿でとるか街へ行くか、どうしようか」
そう言い、銀の瞳は首を小さく傾げた。
ガルドは肩に掛けたままだったタオルに手をかけ、……目線一つ動かさぬまま、扉の前で数秒だけ固まった。
(……こいつ、何で毎回……)
肩がごくわずかに下がった。声は出さずとも、確かに心の中でため息を吐いていた。
当然のように”どうしようか”、ときた。宿で食うか街で食うかだ。一緒に食うかどうかではない。
(お前、それが普通になってるけどよ)
タオルを外し、無造作に扉の取っ手にかける。そして、無言のままルシアンを、一度上から下まで見た。
(……俺だけだろ、それ)
「……街。ギルドに報告も行くぞ」
「うん、そうしよう」
それだけ交わして、歩き出す。歩調はきちんと合っていた。
ギルドで手早く依頼の報告を終え、感謝の声を浴びるのもそこそこに、ふたりは街へ出た。
曲がりなりにも守護獣を倒したというのに、誰一人として彼らを責めない。
それはガルドの実力があってこそだ、とルシアンは思い。
ルシアンの人心を動かす力があってこそだ、とガルドは思った。
……お互いには、何も言わなかったが。
宿で勧められた食事処は、通りから少し奥まったところにある小さな店だった。店に入ると、海鮮とスパイスの香りが鼻をくすぐった。
少し夕食から遅めの時間だったこともあり、店内の人はまばら。
「こんばんは、お好きなお席にどうぞ」
声をかけてきた店員は、ルシアンの姿を見ても騒がなかった。さすがは、あの宿の従業員の勧め、といったところか。
赤い瞳が店内をぐるりと見て、窓際のテーブル席に座った。ルシアンもそれに続き、街着の裾を丁寧に整え、軽く椅子に背を預けた。
店内には、低く流れる弦楽器の調べ。周囲の席は空いており、厨房の湯気と香辛料の香りが静かに漂っている。
ガルドが、卓上に置かれた水を一口だけ飲む。……何も話さない。けれど、その横顔には、戦いの疲れとは別の安堵がわずかに滲んでいた。
店員がメニューを持ってくる。ふたりの前に置かれたそれには、今日のおすすめと手書きで記された品々。
白身魚と香草のグリル、海老と野菜のスープ煮、スパイス香る魚介の焼き飯、小皿前菜三種。
どれもこの街の海で獲れたものばかり。それを見て、ガルドがふと片眉を上げた。
「……海ん中にいたのに、また魚かよ」
だがその声に、棘はなかった。むしろ、ふっと気が抜けるような吐き方だった。
ルシアンもメニューを傾けたまま、口元だけで笑った。その笑みはまるで、「お疲れさま」の代わりのようだった。
「迷子の子をね、思い出したよ」
食事中、静かにそう切り出したのは、ルシアンだった。
魚を切り分ける。自分の分を取り皿に。多い分はガルドに。いつもの動作。すっかり馴染んだ動き。……そんな中、そう、呟いた。
「星を見てたガキか」
「そう。あの子とね、シーグロウルが重なってしまった」
それは、俺もだ、と……何故か言えなかった。
「君しか見えない子どもがいて、君だけが相対した魔獣がいた。船の上の方が人は多かったけどね、……船の上の方が、孤独だったよ」
どこか独白のように、ルシアンがそう漏らす。その表情は微笑んでいたし、何も気負ってはいなかった。
だからこそ、儚かった。
「……星のガキは、お前が送った。だからアイツは、俺が送った。それだけだろ」
「……消すことや、討伐することが、救いになるのは……」
音をじわりと空気に溶かすように、ルシアンが言葉を切った。
伏せた瞳が、銀色に数度瞬く。
ガルドも何も言わず、ただそれを見つめる。
「……ふふ、不謹慎で、こんなこと思っちゃいけないんだろうけど。……それは少しだけ、美しいかもね」
その眼差しが、窓の方を向いた。
……星を、見ているのかもしれない。海を、見ているのかもしれない。叶うのならば、その世界を少し覗きたいと、……ガルドは思う。
ルシアンの横顔は、まるで夜そのものを写したようだった。
静かで、冷たくて、けれど触れたらどこまでもあたたかそうな……そんな矛盾の輪郭を、目の前で確かに感じた。
ガルドは、皿に残った焼き飯をひと匙、黙って口に運ぶ。味なんて、わからなかった。
ただその沈黙のなかで、確かに“何か”が揺れていた。
「…………」
グラスの水をひと息に飲み干せば、喉を鳴らしたその音が、やけに響いた。言葉にする必要のない空気が、ふたりのあいだに流れていた。
そこにいたのは、雇い主と護衛でもなければ、魔術師と戦士でもない。
ただ、この夜に静かな弔いを済ませた、ふたりの旅人だった。
「……もう腹いっぱいだな」
ぽつりと呟いたガルドに、ルシアンはふっと肩を揺らした。目元だけで笑って、静かに頷く。
窓の外、月が満ちかけていた。この夜だけは、何も追わず、何も急がず。
静かに、寄り添うように——星と海を、ただ眺めていた。
宿に戻り、またそれぞれの部屋の扉の前に立つ。
廊下は静かで、夜も遅く人もいない。魔法灯の灯りだけが、静かにその場を照らしていた。
部屋に入る寸前、ルシアンが一瞬、動きを止める。気づかれないほどに小さく息を吐き、斜向かいの扉の前に立つ護衛を振り返った。
「ガルド、明日の朝、君の部屋に行くよ」
まるで業務連絡のような、単調な言葉。微笑みはあれど、どこか遠い。
「話をしよう。……契約の」
一拍、空気が止まった。廊下の灯りが、わずかに揺れた。
ガルドの手が、扉の取っ手の上で固まる。顔はルシアンを見ない。
ただ、低く、細く、息をした。
「……ああ」
足音も、言葉も、それ以上はなかった。
ルシアンが微笑のまま、小さく目を伏せる。その手が扉を引き、静かに部屋へ入っていく。ガルドの背には、その扉が閉まる音だけが残った。
——翌朝。ガルドの部屋。
朝食はあと。今はテーブルに向かい合って座っていた。
柔和な魔術師は、契約当初と変わらない笑顔で……そこにいた。
ガルドは己を恨んだ。元来慎重な性格だった。
『一月、付き合う』……そう試すように問いかけたのは、他でもない自分自身で。
『見限られれば、それまで』と、微笑みながらそう言葉を返したのは、他でもない、目の前の彼だった。
あの時のルシアンの笑顔は、今のガルドからしてみれば”仮面”で……今目の前にある笑顔も、それと、同じものだった。
「まずは、一月分の契約金の残りを」
小さな革袋が、木のテーブル、ガルドの面前に置かれた。
契約当初に渡された、試し金の金貨一枚。恐らくこの中身は、金貨四枚。あわせて金貨五枚が、この一か月の旅の護衛金だった。
…………手が、動かなかった。
これを受け取れば、全てが終わるように感じて……軽い小さな袋が、とてつもなく重く感じた。
そして、それきりルシアンは口を閉ざす。
ただ言葉の代わりに、ルシアンは自分のすぐ目の前に、同じ大きさの革袋を置いた。カチャリ、とかすかに音が鳴る。
”次”がそこに入っていることは、……明白だった。
終わりにするならば、手元の一つだけを取ればいい。続けるならば、二つの革袋を取ればいい。
ただその二つ目の袋は、手を伸ばせば届きそうで、届かない位置にあった。
しばし赤い瞳は、じっと袋を見ていた。まるで、それが爆ぜるのを待っているかのように。
息を飲むでもなく、言葉を吐くでもなく。ただ、右の手がわずかに震えそうになるのを押し殺していた。
ひとつき。
旅に意味のない旅路になる予定だった。気まぐれの依頼、試しの契約、暇つぶしの旅。
いつ終わってもいいと思っているはずだった。物好きに付き合ってやるんだと、たかをくくった。
けれど……、この一月で、この男の背中を、何度と見た。微笑みを、幾度と受け取った。
沈黙を、何度もともにした。送り、託し、守り、揺らぎ、並び立ち……そのすべてを“護衛”で割り切れるほど、自分の頭は単純ではなかった。
(……俺、は)
ただの雇われ護衛か。それとも、もう少しだけ——……。
無言のまま、左手がゆっくりと伸びた。目の前の袋を掴む。チャリ。
……中で金貨がわずかに鳴った音が、部屋の空気を揺らす。……気がした。
そして——ためらいも、迷いも、吐き出すように、右の手で、もう一つの袋を、ぐっと引き寄せた。
ルシアンの顔は見なかった。だがその指先は、静かに袋を手中へ押し込む。……それが答えだった。
口になどしなかったが、言葉より重い、継続の意思。だが確かに、ガルドの前に座る男の目元が、ふわりとわずかに柔らいだ。
ガルドの大きな手の中に、金貨の袋はすっぽりと収まっている。ほ、と小さく息を吐いたのはルシアンで、……次の言葉が出てくるまでに時間がかかって、それが安堵の息だったことに気づいた。
「……ありがとう、ガルド」
そう言って微笑んだルシアンの顔は、この旅の中で、確かにガルドだけに向けられていた笑顔だった。
安堵や信頼を滲ませる、柔らかな微笑み。他の者には、決して向けられない、顔。
「試すようなことをしてすまなかった。……もう二度と、私からこんなことはしない」
「…………」
……ガルドは何も答えられなかった。
それは暗に、”二度と”ルシアンから手放すことはない、と……そう言われているようで。
手放すとすれば、それはガルドからだと、そう言われたも同然だった。
小さく舌打ちをする。
苛立ちからではなく、それほどに、必要とされていたのかという、照れ。
「……朝飯は」
ぶっきらぼうに言えば、ルシアンがおかしそうに微笑んだ。そのままに、そっと立ち上がる。椅子がきぃ、と小さく音を立てる。
全ての所作が、ただひたすらに、あまりにも自然だった。“ここにいる”ということが、なにも特別ではないというように。“続く”ことが、当然のように受け止められているふうに。
「朝食は一階の食堂でいただこうか。支度も終わっている頃だと思う」
柔らかな言葉とともに、ルシアンは振り返ることなく、部屋の出口へと歩を進める。
扉の前で立ち止まり、——ほんの少しだけ、肩が傾ぐ。
待っている。何も言わずに。
ガルドは、まだ手の中にあるままの袋を見下ろした。二つ目のそれが、いまや“当たり前”のように、そこにある。
……こともなげに、無造作に、煙草と同じポケットに突っ込んだが、……特別重たく感じた。
「……行くぞ」
淡紫の背中にそれだけを投げれば、その肩はわずかに揺れた。
振り向きはしない。けれど、足音が二つ、再び並んで廊下を進み出す。
少しでも早く、日常に戻りたかった。奇妙で、優雅で、振り回される、物見遊山に。
選ばれたのがどちらだったのかは、もうわからなかった。
——【契約の答え合わせ】




