【濁潮の咆哮】
——翌朝。
もはや慣れたことのようにルシアンが、ガルドの部屋まで朝食の誘いに来た。
すでに着替えていた護衛が自室を出れば、廊下を歩く後姿にはいつもと変わらない微笑みの気配。
「さっき、海域の資料が届いたよ」
ルシアンがそう言いながら、部屋の扉を開く。
ギルドの職員によって朝一番に届けられたのであろうその資料は、適度に広げられて書斎机に置かれていた。
。
背後、宿の従業員が丸テーブルに朝食を整えている間、二人でざっと目を通す。
水紋の目撃情報は、海流と海流が交わる一点を中心に、円状に印がつけられていた。先行の冒険者パーティーが崩れた場所も、その一角。
ごゆっくり、という従業員の声に、二人そろって席に着く。
「潮待ちの護衛で、船底に座礁した傷があったね」
ポタージュをスプーンですくいながら、ルシアンが声だけをガルドに向けた。ガルドも、小さくそれに返事をする。
船底に触れた際の木の感触が、まだ指先に残っている。ずっと気にはなっていたが、それがここでつながった。
「彼ら、船の上に変な模様が浮かんだとも言っていたけれど、……あの船底の傷には、魔力の残滓があった。加えて、潮の流れが落ち着かなくて出向のめどが立たないとも」
「……ああ」
「潜るのかい」
君一人で。——そんな視線が、ガルドを捉えた。
「……必要があるなら、潜る」
言葉を置くように言いながらも、ガルドは視線を地図に落とし、眉を寄せる。
「……、こいつは船の上からじゃ狙えねぇ。あの船底の傷も、下からの突き上げだった」
指先を、海流の中心に落とす。その周辺を囲うように、沈没船の位置、潮流の渦、冒険者たちの撤退記録が記されていた。
「一番の深み。……そこに、いる」
静かにそう結論づけたとき、ルシアンの動きが止まった。スープの揺れが、彼の呼吸とともに静まる。
返答はない。だが、それだけで十分だった。その沈黙こそが、ルシアンからの“許可”であり、“信頼”の証だった。
赤い瞳が、テーブル越しに銀の瞳を捉える。そのまま一瞬だけ、視線を落とし——。
「……お前は、船上で待ってろ。好きに景色でも眺めて、な」
添えられた言葉にルシアンは軽く瞬きをし、ふわりと微笑んだ。その笑みの意味を読み取らないまま、ガルドが食事を終える。
パンをちぎる手元を一瞥だけして、赤の眼差しは伏せられた。
誰よりも静かに。
誰よりも深く——海の底へ向かって。
四半刻の後、目標の地点へと向かう船の上——潮風が、淡紫の髪を揺らしていた。
「この海域には、同型のシーグロウルという魔獣がいるんです」
船に同乗したギルド指定の補助要員が、書板を手にそう切り出す。
敗走した冒険者パーティーから唯一聞きだせた、対象の魔獣の情報。
そのシーグロウルとは、エイ型の魔獣で、大きくとも三~五メートルほど。するどい尾を振り払うように攻撃し、尾の先に鋭利な毒針を持っていた。
「ですが、問題の魔獣はそのシーグロウルよりもはるかに巨大で、通りがかった船を見境もなく攻撃をしていて……」
はた、と顔を上げた補助要員が、そこで言葉を止めた。銀の瞳は遥か水平線を眺めていて、赤い瞳は静かに閉じられている。かと思えばふとした瞬間に二つの視線が交わり、また逸れる。
続きを促されることはなく、彼らはただ甲板に立ち、目的の海域の方向を見据えていた。
——いらないのだ。情報が。
片や美しい景色を求める旅人。片やその障害を薙ぎ払う刃。……ただそれだけが、彼らの在り方だった。
一拍だけ息をつめた補助要員が、会釈をして半歩下がる。
そうして風を孕んだ帆に運ばれる中……ぴくり、と、ガルドが頭を動かした。全く同時に、ルシアンもそちらへ視線を向ける。
赤と銀の双眸が、海面のある一点を見つめる。その異様に慌てて補助要員や船乗りたちが身を乗り出すが、何も見えない。
……けれど、ほぼ野生に近いガルドの勘には……魔力に敏感なルシアンの感知には、すっかりとそれが感じ取れていた。
ガルドが外套を脱ぎ、胸当てなどの重さのある装備もガチャリと脱ぎ落す。軽装のような出で立ちに、たくましい肉体の線だけが浮かぶ。添えられるのは、幅の広い大剣のみ。
「おい」
足で無造作にその装備をまとめながら、ガルドが船上にそう声をかけた。慌てて声を返したのは、ギルドの補助要員。
「は、はいっ!」
「……万一があったら、そいつだけでも逃がせ」
低い声は、目線でも仕草でも誰も示さなかったが、……誰のことを言っているのかは、その場の全員が分かった。
皆が頷く傍ら、ルシアンは微笑んで何も答えず、その代わりにガルドの腕に触れ、ひたりと防御の膜を這わせた。
——とぷんっ——。
その巨躯に似合わない着水音が、静かに海上に響く。
皆が上半身を乗り出すように海面を覗き込むが、深い海に陽光が反射して、海中は見えなかった。
紺碧の海中で、ガルドの視界はすぐに慣れた。……気配は感じる。何より、他の生き物がいない。
海底から立ち上る見えない闇は、よく慣れた、孤独の世界だった。
見回す視界の端、ゆらりと紺青の影が揺らめく。遥か下、優雅に両翼をはためかせ、それはいた。
シーグロウル。——だが、その全幅が十二メートルはあろうかという巨体だった。
左右のヒレに波紋状の紋様が浮かんでおり、それがかすかな陽光を浴びて金色に光っていた。
(……あれが、水紋の正体か?)
海中を舞うその魔獣を、赤い眼差しが静かに追う。……その紋様は、美しかった。
だがその美しさが、何隻もの船を沈めた現実と直結していることを、何よりも身体が理解していた。
(……キレイなだけでいりゃいいのに)
緩やかに旋回するその巨影に向けて、体を沈める。気づかせず、近づく。相手が悠然と構えるうちに——喉元に、一撃を。
……だが次の瞬間には、海底の闇がざわりと動いていた。シーグロウルの尾が、ゆっくりと持ち上がる。
(まぁ、当然気づかれるか)
互いの距離が詰まるのは一瞬だった。伸びやかに広がる両翼の下から、地響きのような水流が迫る。
ズン……ッ!
海水が揺れる。視界が歪む。くるりと弧を描いた長い尾が、鞭のように振り下ろされる。
それが当たる直前で、なんとか体を捻った。大剣を盾のように構え、衝撃を受け流す形。
だが、水圧とともに襲いくる一撃は、身体を大きく後方へ弾く。
(……っ、こいつ)
噛みしめるように、その口元が歪む。大剣の柄を握り直し、逆に海流を蹴って突進する。
地の利は完全に相手にある。脅威とすら思われていない可能性もあった。……だが、敵の目が、こちらを捉えた。
わずかばかり、ガルドの口角が上がる——ようやく、“戦い”が始まった。
静かで、深く、音のない対峙が。
わずかな海中の振動は、海面にまで上がってきていた。波が微細な振動を見せる。この大きな船すら、ギシギシと震える。
ふと何かの気配を感じたルシアンが頭上を見上げると、件の水紋らしきが船の上に浮いていた。歪な円の中に、何らかの意匠。
……人間の言葉ではない。文字なのかすら危うい。けれど確かに、……何かの意思を感じた。
ズンッ……!
また、海中から振動が響いた。
あちらはガルドの領域だ。ならば、自分の領域はこちら側、船の上、あの水紋だ。
水紋の真下まで進み、くるりと向きを変える。もう一度向きを変える。上下もわからないが、白く発光するそれに、害意は感じられなかった。
波打つ海面から顔を上げたギルドの補助要員が、ルシアンとその上に浮かぶ水紋に気づき……書板を手に慌てて駆けてくる。
「!水紋がっ……す、すべての船で、全く同じものが確認されています!」
「円の中の意匠も同じですか?」
「え、ええ!」
資料を手に何度も頷いた補助要員に、一つだけ「ふむ」と返し……それきり、ルシアンが黙った。補助要員も、押し黙る。
(……なんだろうね、これは)
揺れる足場には目もくれず、ルシアンは白く揺らめくその紋章から目が離せなかった。
水紋に、魔術用語などどこにもない。古代文字でもない。……これは、人間の理の外にある。
であれば、これの発信源としてもっとも可能性が高いのは、今、かの護衛が相対している水中の魔獣。
頭上の紋様に意識を集中させる。魔方陣、のようなものではない。何らかの魔術が組み込まれているかと思ったが、”これ”は空っぽで、ただここにあるのが役目のようだった。
そして何より、この水紋から害意は感じ取れない。……けれども今も、水中からは害意・敵意・殺意が溢れてきていた。
「……意識の乖離……」
薄くぼやくルシアンに、書板を手にした補助要員がそわ、と、自分の肩を抱いた。
「果たしてどちらが本心か……あれの姿が見てみたい」
陽光を受けた銀の眼差しが、くるりと海中に向けられる。
深い闇の中、狩りは、まだまだ終わらなさそうだった。
一方海中でガルドは、その視線を確かに感じていた。
見ている、あの銀の瞳が。今にも飛び込んできそうな圧で。
(——まさか見てぇだの言わねぇよな)
ふとそんなバカげた可能性が浮かんだが、……ありえそうでしかなかった。それはどうにか諦めてほしい、と緩く肩を回す。
シーグロウルは今、ガルドの周囲をぐるりと旋回していた。
隙を窺っているのか、地の利を理解しているのか、ゆらりと優雅に。
(……くそ、面倒だ)
息継ぎのため、水中を一蹴りする。シーグロウルが追ってくるかと思ったが、それは逆に、海中深くに沈んでいった。……バシャリ。
「……っはぁ!」
水面に顔を出すと、船乗りが数人身を乗り出してきた。
その傍らの銀の瞳と、視線が絡む。
「……でけぇ。シーグロウルの十二メートル級。両ヒレに波紋状の紋様」
端的に伝えると、ルシアンが頷いて船の上を指さした。
「これと同じ意匠だったかい?」
ガルドがそれを見上げ、怪訝そうに眉をしかめる。
「いや、ちげぇ。なんだそりゃ」
「報告にあった水紋だよ。他に何か情報は?」
「あー……、光ってた。紋様が。水中で金色に」
ざわ、と船の上がさざめく。今まで特定できなかった情報に、補助要員たちが頭を突き合わせる。
「ガルド、一度上がってこれるかい」
問われ、ガルドはもう一度だけ海中を振り返った。シーグロウルの巨影は、すでに水底に沈んで姿を消している。
だが気配は、消えていない。——潜って、構えている。それが……不気味だった。
「……ああ。上がる」
ひとつ頷いて、海面に垂れた縄梯子を掴む。びしょ濡れのまま甲板に這い上がると、船乗りが慌ててタオルを差し出す。
しかしそれを片手だけで制して、ルシアンの示す水紋の中心へと歩み寄っていった。
濡れた髪から滴が落ちる。甲板の上を一歩進むたび、足元の木板が軋む。けれどそんな些細なことには目もくれず、ガルドはその白く浮かぶ紋様を、真下から見上げることとなった。
「……やっぱり、ちげぇな」
呟き、視線を巡らす。紋様の曲線、中心の意匠。
どれも、さっき見たヒレの紋様とは形状が異なっていた。
「ヒレにあったのは、こういうんじゃねぇ。円なのには変わりねぇが……」
低い呟きに顔を上げたのは、書板を抱えた補助要員らだった。
「“意図的な模様と、自然に現れる魔力痕の乖離”……!?」
「じゃあ……やはり、これは敵意じゃない……のか?」
「でも、現にあれは攻撃してるんだぞ!?」
「じゃあふたつに分裂してるとか……?」
「いや、精神の断層かも……あっ、前例があったな確か、霊域で……!」
船上が一気に騒がしくなる。……なんの話だ、とガルドがルシアンを見やるが、ルシアンも同じような表情をして、小さく肩をすくめただけ。その眼差しが少しだけそちらへ流れるが……すぐに水紋へと戻る。
唇が、ほんのわずかに笑みの形を描いていたが、その騒動に入っていくつもりは毛頭ないようだった。
そののち、静かに目線を海へ向ける。品の良い顔に浮かんだのは、柔らかな微笑でも、冷たい理性でもなく——らんと煌めく“好奇”の色だった。
ガルドが、ぐっと奥歯を噛みしめる。今の自分の心境に適切な音をつけるとすれば、”ぎくり”だ。その表情は、初めて見た。
「……、お前……」
……やりづれぇ。
その一言を飲み込んだとき、海面がふたたび——静かにゆらいだ。ちゃぷりと小さなその波音に、乗員たちがまた身を乗り出して海面を覗く。
「ま、また来るのか!!」
「その紋様、なんとか見れないか……!」
ざわり、ざわりと交わされる声の中。
ルシアンとガルドだけが、向かい合っていた。
「……さて、ガルド」
「……ああ」
落ちた返事は、ため息交じりだった。ぽた、と黒髪から、海水が滴る。
「ほかの種より大きな個体、特徴的な紋様、潮の流れを変えるほどの強大な力。あれはそれを持っている」
「……そう、だな」
「私も古い文献でしか読んだことがない。存在すら怪しかったけれど、……あれはただの魔獣じゃない。恐らく、この海域の守護獣だよ、ガルド」
……ガルドが息を止め、次に大きく舌打ちをした。
紡がれた言葉は、諳んじられた正体は、決して一息に聞き流していいものではなかった。
「船の上の水紋からは、全く害意を感じない。けれど、君は海中で明確な敵意を感じた。それは合っている?」
「ああ。……どうすりゃいい」
ゆらりと、海底からまた気配が立ち上ってきた。
ガルドの視線が海面へ行きそうになり、けれどもルシアンから目を逸らせなかった。
「本来守護獣は、こうした攻撃的行動はとらないという。とるとすれば、老齢で判断力が落ちたか、格が落ち守護獣ではなくなってしまったか。でも、”金紋は輝いていた”んだね?」
「……ああ」
「ならば、あれはまだ守護獣だ。そして、空の水紋は恐らく私たちへの警告だ」
ルシアンの指が、上空の水紋を示す。
まだそこで、白く輝いている。何かを伝えるように、穏やかに。
「こうして近海を通過する船に、ここを離れろと言っている可能性がある。まだ知性が残っている。けれど、身体はもういうことを聞いていない」
「…………」
「……倒すのが、唯一の救いになるかもしれない、ガルド」
大きく、船が軋んだ。その軋みに、ガルドが即座に海面へ振り返る。
波は小さく、しかし確実に“揺れ”を孕んでいた。重たい何かが、こちらへ昇ってきている——そう感じさせる沈圧。
ルシアンへ視線を戻す。
銀の瞳は、まっすぐに海を見ていた。もうあの好奇に満ち満ちた眼差しはなく、すでに役目を終えたようにただそこにいる。
それを見て、ガルドは——あえてもう一度、深く息を吐いた。
「……てめぇの“情け”ってのは、おっかねぇな」
そう言い残して、海へ向かって跳ねた。甲板の端に足を掛け、宙を裂いて飛ぶ。
海面が、彼の突入を迎えるように波紋を広げた。
ザブンッ——。
海へと、再び。……けれど、さっきとは違う。
今度は明確な“目的”が、……示された指標がある。それが果たして“殺し”か“救い”か……それを決めるのは誰でもないことだけが確かで。いずれにせよ、これは終わらせるための一撃だ。
仄暗い海底から立ち上る紺碧の中、赤い双眸はすでに深海の影を捉えている。
巨大な影が、今、こちらへ向かって——浮上していた。
——【濁潮の咆哮】




