表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/26

【濁潮の咆哮】


——翌朝。

もはや慣れたことのようにルシアンが、ガルドの部屋まで朝食の誘いに来た。

すでに着替えていた護衛が自室を出れば、廊下を歩く後姿にはいつもと変わらない微笑みの気配。


「さっき、海域の資料が届いたよ」


ルシアンがそう言いながら、部屋の扉を開く。

ギルドの職員によって朝一番に届けられたのであろうその資料は、適度に広げられて書斎机に置かれていた。

背後、宿の従業員が丸テーブルに朝食を整えている間、二人でざっと目を通す。


水紋の目撃情報は、海流と海流が交わる一点を中心に、円状に印がつけられていた。先行の冒険者パーティーが崩れた場所も、その一角。

ごゆっくり、という従業員の声に、二人そろって席に着く。




「潮待ちの護衛で、船底に座礁した傷があったね」


ポタージュをスプーンですくいながら、ルシアンが声だけをガルドに向けた。ガルドも、小さくそれに返事をする。

船底に触れた際の木の感触が、まだ指先に残っている。ずっと気にはなっていたが、それがここでつながった。


「彼ら、船の上に変な模様が浮かんだとも言っていたけれど、……あの船底の傷には、魔力の残滓(ざんし)があった。加えて、潮の流れが落ち着かなくて出向のめどが立たないとも」

「……ああ」

「潜るのかい」


君一人で。——そんな視線が、ガルドを捉えた。


「……必要があるなら、潜る」


言葉を置くように言いながらも、ガルドは視線を地図に落とし、眉を寄せる。


「……、こいつは船の上からじゃ狙えねぇ。あの船底の傷も、下からの突き上げだった」


指先を、海流の中心に落とす。その周辺を囲うように、沈没船の位置、潮流の渦、冒険者たちの撤退記録が記されていた。


「一番の深み。……そこに、いる」


静かにそう結論づけたとき、ルシアンの動きが止まった。スープの揺れが、彼の呼吸とともに静まる。

返答はない。だが、それだけで十分だった。その沈黙こそが、ルシアンからの“許可”であり、“信頼”の証だった。


赤い瞳が、テーブル越しに銀の瞳を捉える。そのまま一瞬だけ、視線を落とし——。


「……お前は、船上で待ってろ。好きに景色でも眺めて、な」


添えられた言葉にルシアンは軽く瞬きをし、ふわりと微笑んだ。その笑みの意味を読み取らないまま、ガルドが食事を終える。

パンをちぎる手元を一瞥だけして、赤の眼差しは伏せられた。


誰よりも静かに。

誰よりも深く——海の底へ向かって。






四半刻の後、目標の地点へと向かう船の上——潮風が、淡紫の髪を揺らしていた。


「この海域には、同型のシーグロウルという魔獣がいるんです」


船に同乗したギルド指定の補助要員が、書板を手にそう切り出す。

敗走した冒険者パーティーから唯一聞きだせた、対象の魔獣の情報。

そのシーグロウルとは、エイ型の魔獣で、大きくとも三~五メートルほど。するどい尾を振り払うように攻撃し、尾の先に鋭利な毒針を持っていた。


「ですが、問題の魔獣はそのシーグロウルよりもはるかに巨大で、通りがかった船を見境もなく攻撃をしていて……」


はた、と顔を上げた補助要員が、そこで言葉を止めた。銀の瞳は遥か水平線を眺めていて、赤い瞳は静かに閉じられている。かと思えばふとした瞬間に二つの視線が交わり、また逸れる。

続きを促されることはなく、彼らはただ甲板に立ち、目的の海域の方向を見据えていた。


——いらないのだ。情報が。


片や美しい景色を求める旅人。片やその障害を薙ぎ払う刃。……ただそれだけが、彼らの在り方だった。

一拍だけ息をつめた補助要員が、会釈をして半歩下がる。


そうして風を孕んだ帆に運ばれる中……ぴくり、と、ガルドが頭を動かした。全く同時に、ルシアンもそちらへ視線を向ける。

赤と銀の双眸が、海面のある一点を見つめる。その異様に慌てて補助要員や船乗りたちが身を乗り出すが、何も見えない。


……けれど、ほぼ野生に近いガルドの勘には……魔力に敏感なルシアンの感知には、すっかりとそれが感じ取れていた。


ガルドが外套を脱ぎ、胸当てなどの重さのある装備もガチャリと脱ぎ落す。軽装のような出で立ちに、たくましい肉体の線だけが浮かぶ。添えられるのは、幅の広い大剣のみ。


「おい」


足で無造作にその装備をまとめながら、ガルドが船上にそう声をかけた。慌てて声を返したのは、ギルドの補助要員。


「は、はいっ!」

「……万一があったら、そいつだけでも逃がせ」


低い声は、目線でも仕草でも誰も示さなかったが、……誰のことを言っているのかは、その場の全員が分かった。

皆が頷く傍ら、ルシアンは微笑んで何も答えず、その代わりにガルドの腕に触れ、ひたりと防御の膜を這わせた。




——とぷんっ——。


その巨躯に似合わない着水音が、静かに海上に響く。

皆が上半身を乗り出すように海面を覗き込むが、深い海に陽光が反射して、海中は見えなかった。




紺碧の海中で、ガルドの視界はすぐに慣れた。……気配は感じる。何より、他の生き物がいない。

海底から立ち上る見えない闇は、よく慣れた、孤独の世界だった。


見回す視界の端、ゆらりと紺青の影が揺らめく。遥か下、優雅に両翼をはためかせ、それはいた。


シーグロウル。——だが、その全幅が十二メートルはあろうかという巨体だった。

左右のヒレに波紋状の紋様が浮かんでおり、それがかすかな陽光を浴びて金色に光っていた。


(……あれが、水紋の正体か?)


海中を舞うその魔獣を、赤い眼差しが静かに追う。……その紋様は、美しかった。

だがその美しさが、何隻もの船を沈めた現実と直結していることを、何よりも身体が理解していた。


(……キレイなだけでいりゃいいのに)


緩やかに旋回するその巨影に向けて、体を沈める。気づかせず、近づく。相手が悠然と構えるうちに——喉元に、一撃を。

……だが次の瞬間には、海底の闇がざわりと動いていた。シーグロウルの尾が、ゆっくりと持ち上がる。


(まぁ、当然気づかれるか)


互いの距離が詰まるのは一瞬だった。伸びやかに広がる両翼の下から、地響きのような水流が迫る。


ズン……ッ!


海水が揺れる。視界が歪む。くるりと弧を描いた長い尾が、鞭のように振り下ろされる。

それが当たる直前で、なんとか体を捻った。大剣を盾のように構え、衝撃を受け流す形。

だが、水圧とともに襲いくる一撃は、身体を大きく後方へ弾く。


(……っ、こいつ)


噛みしめるように、その口元が歪む。大剣の柄を握り直し、逆に海流を蹴って突進する。

地の利は完全に相手にある。脅威とすら思われていない可能性もあった。……だが、敵の目が、こちらを捉えた。


わずかばかり、ガルドの口角が上がる——ようやく、“戦い”が始まった。

静かで、深く、音のない対峙が。




わずかな海中の振動は、海面にまで上がってきていた。波が微細な振動を見せる。この大きな船すら、ギシギシと震える。

ふと何かの気配を感じたルシアンが頭上を見上げると、件の水紋らしきが船の上に浮いていた。歪な円の中に、何らかの意匠。

……人間の言葉ではない。文字なのかすら危うい。けれど確かに、……何かの意思を感じた。


ズンッ……!


また、海中から振動が響いた。

あちらはガルドの領域だ。ならば、自分の領域はこちら側、船の上、あの水紋だ。


水紋の真下まで進み、くるりと向きを変える。もう一度向きを変える。上下もわからないが、白く発光するそれに、害意は感じられなかった。

波打つ海面から顔を上げたギルドの補助要員が、ルシアンとその上に浮かぶ水紋に気づき……書板を手に慌てて駆けてくる。


「!水紋がっ……す、すべての船で、全く同じものが確認されています!」

「円の中の意匠も同じですか?」

「え、ええ!」


資料を手に何度も頷いた補助要員に、一つだけ「ふむ」と返し……それきり、ルシアンが黙った。補助要員も、押し黙る。



(……なんだろうね、これは)



揺れる足場には目もくれず、ルシアンは白く揺らめくその紋章から目が離せなかった。

水紋に、魔術用語などどこにもない。古代文字でもない。……これは、人間の理の外にある。

であれば、これの発信源としてもっとも可能性が高いのは、今、かの護衛が相対している水中の魔獣。


頭上の紋様に意識を集中させる。魔方陣、のようなものではない。何らかの魔術が組み込まれているかと思ったが、”これ”は空っぽで、ただここにあるのが役目のようだった。

そして何より、この水紋から害意は感じ取れない。……けれども今も、水中からは害意・敵意・殺意が溢れてきていた。


「……意識の乖離(かいり)……」


薄くぼやくルシアンに、書板を手にした補助要員がそわ、と、自分の肩を抱いた。


「果たしてどちらが本心か……あれの姿が見てみたい」


陽光を受けた銀の眼差しが、くるりと海中に向けられる。

深い闇の中、狩りは、まだまだ終わらなさそうだった。




一方海中でガルドは、その視線を確かに感じていた。

見ている、あの銀の瞳が。今にも飛び込んできそうな圧で。


(——まさか見てぇだの言わねぇよな)


ふとそんなバカげた可能性が浮かんだが、……ありえそうでしかなかった。それはどうにか諦めてほしい、と緩く肩を回す。


シーグロウルは今、ガルドの周囲をぐるりと旋回していた。

隙を窺っているのか、地の利を理解しているのか、ゆらりと優雅に。


(……くそ、面倒だ)


息継ぎのため、水中を一蹴りする。シーグロウルが追ってくるかと思ったが、それは逆に、海中深くに沈んでいった。……バシャリ。


「……っはぁ!」


水面に顔を出すと、船乗りが数人身を乗り出してきた。

その傍らの銀の瞳と、視線が絡む。


「……でけぇ。シーグロウルの十二メートル級。両ヒレに波紋状の紋様」


端的に伝えると、ルシアンが頷いて船の上を指さした。


「これと同じ意匠だったかい?」


ガルドがそれを見上げ、怪訝そうに眉をしかめる。


「いや、ちげぇ。なんだそりゃ」

「報告にあった水紋だよ。他に何か情報は?」

「あー……、光ってた。紋様が。水中で金色に」


ざわ、と船の上がさざめく。今まで特定できなかった情報に、補助要員たちが頭を突き合わせる。


「ガルド、一度上がってこれるかい」


問われ、ガルドはもう一度だけ海中を振り返った。シーグロウルの巨影は、すでに水底に沈んで姿を消している。

だが気配は、消えていない。——潜って、構えている。それが……不気味だった。


「……ああ。上がる」


ひとつ頷いて、海面に垂れた縄梯子を掴む。びしょ濡れのまま甲板に這い上がると、船乗りが慌ててタオルを差し出す。

しかしそれを片手だけで制して、ルシアンの示す水紋の中心へと歩み寄っていった。

濡れた髪から滴が落ちる。甲板の上を一歩進むたび、足元の木板が軋む。けれどそんな些細なことには目もくれず、ガルドはその白く浮かぶ紋様を、真下から見上げることとなった。


「……やっぱり、ちげぇな」


呟き、視線を巡らす。紋様の曲線、中心の意匠。

どれも、さっき見たヒレの紋様とは形状が異なっていた。


「ヒレにあったのは、こういうんじゃねぇ。円なのには変わりねぇが……」


低い呟きに顔を上げたのは、書板を抱えた補助要員らだった。


「“意図的な模様と、自然に現れる魔力痕の乖離”……!?」

「じゃあ……やはり、これは敵意じゃない……のか?」

「でも、現にあれは攻撃してるんだぞ!?」

「じゃあふたつに分裂してるとか……?」

「いや、精神の断層かも……あっ、前例があったな確か、霊域で……!」


船上が一気に騒がしくなる。……なんの話だ、とガルドがルシアンを見やるが、ルシアンも同じような表情をして、小さく肩をすくめただけ。その眼差しが少しだけそちらへ流れるが……すぐに水紋へと戻る。

唇が、ほんのわずかに笑みの形を描いていたが、その騒動に入っていくつもりは毛頭ないようだった。


そののち、静かに目線を海へ向ける。品の良い顔に浮かんだのは、柔らかな微笑でも、冷たい理性でもなく——らんと煌めく“好奇”の色だった。


ガルドが、ぐっと奥歯を噛みしめる。今の自分の心境に適切な音をつけるとすれば、”ぎくり”だ。その表情は、初めて見た。


「……、お前……」


……やりづれぇ。


その一言を飲み込んだとき、海面がふたたび——静かにゆらいだ。ちゃぷりと小さなその波音に、乗員たちがまた身を乗り出して海面を覗く。


「ま、また来るのか!!」

「その紋様、なんとか見れないか……!」


ざわり、ざわりと交わされる声の中。


ルシアンとガルドだけが、向かい合っていた。



「……さて、ガルド」

「……ああ」


落ちた返事は、ため息交じりだった。ぽた、と黒髪から、海水が滴る。


「ほかの種より大きな個体、特徴的な紋様、潮の流れを変えるほどの強大な力。あれはそれを持っている」

「……そう、だな」

「私も古い文献でしか読んだことがない。存在すら怪しかったけれど、……あれはただの魔獣じゃない。恐らく、この海域の守護獣だよ、ガルド」


……ガルドが息を止め、次に大きく舌打ちをした。

紡がれた言葉は、(そら)んじられた正体は、決して一息に聞き流していいものではなかった。


「船の上の水紋からは、全く害意を感じない。けれど、君は海中で明確な敵意を感じた。それは合っている?」

「ああ。……どうすりゃいい」


ゆらりと、海底からまた気配が立ち上ってきた。

ガルドの視線が海面へ行きそうになり、けれどもルシアンから目を逸らせなかった。


「本来守護獣は、こうした攻撃的行動はとらないという。とるとすれば、老齢で判断力が落ちたか、格が落ち守護獣ではなくなってしまったか。でも、”金紋は輝いていた”んだね?」

「……ああ」

「ならば、あれはまだ守護獣だ。そして、空の水紋は恐らく私たちへの警告だ」


ルシアンの指が、上空の水紋を示す。

まだそこで、白く輝いている。何かを伝えるように、穏やかに。


「こうして近海を通過する船に、ここを離れろと言っている可能性がある。まだ知性が残っている。けれど、身体はもういうことを聞いていない」

「…………」

「……倒すのが、唯一の救いになるかもしれない、ガルド」


大きく、船が軋んだ。その軋みに、ガルドが即座に海面へ振り返る。

波は小さく、しかし確実に“揺れ”を孕んでいた。重たい何かが、こちらへ昇ってきている——そう感じさせる沈圧。


ルシアンへ視線を戻す。


銀の瞳は、まっすぐに海を見ていた。もうあの好奇に満ち満ちた眼差しはなく、すでに役目を終えたようにただそこにいる。

それを見て、ガルドは——あえてもう一度、深く息を吐いた。


「……てめぇの“情け”ってのは、おっかねぇな」


そう言い残して、海へ向かって跳ねた。甲板の端に足を掛け、宙を裂いて飛ぶ。

海面が、彼の突入を迎えるように波紋を広げた。


ザブンッ——。


海へと、再び。……けれど、さっきとは違う。


今度は明確な“目的”が、……示された指標がある。それが果たして“殺し”か“救い”か……それを決めるのは誰でもないことだけが確かで。いずれにせよ、これは終わらせるための一撃だ。


仄暗(ほのぐら)い海底から立ち上る紺碧の中、赤い双眸はすでに深海の影を捉えている。

巨大な影が、今、こちらへ向かって——浮上していた。






——【濁潮の咆哮】

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ