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【魔術師を振り向かせるために】



その頃、冒険者ギルドのセレフィーネ支部では、職員たちの会議が行われていた。議題は、敗走してきた冒険者パーティーが相対した、海の魔獣。

改めて聞き取りを行い、依頼の難易度の再設定を行った。出来上がったばかりの依頼書や資料を、各自読みまわす。



——《濁潮(だくちょう)の咆哮》

【依頼内容】

湾内外において、航行中の商船が相次いで沈む事例が発生。調査の結果、大型の海棲魔獣の存在が確認されたため、討伐依頼を発令。

一部の冒険者パーティーによる接触調査は被害多数・撤退の結果となっており、高ランクの戦闘対応が必須と判断される。


【討伐対象】

海棲大型魔獣 種別不明(エイ型)一体

・湾の深部、または潮流の境界部にて活動中

・船体の底部を突き上げ、沈没を誘発する行動が報告されている


【報酬】

金貨五枚(討伐成功時)

※発見・位置特定のみの場合は銀貨八十枚

※被害減少度により追加報酬支給あり


【注意事項】

・既出パーティー二組が撤退/片方は半壊状態(治療中)

・水中への進入が不可避となる可能性あり(海上戦では困難)

・出航前、または現地にてギルド指定の補助要員と合流のこと


【備考】

・該当区域を航行中の船体に“魔力的干渉による水紋”が出現する現象あり

・当該紋様は帰港後には消失

・討伐対象の位置特定が困難なため、近接戦闘者による単独潜行が有効とされる




「まずいですよ……ちょっとした水棲魔獣かと思っていましたが、予想外に大物です……」


書記官の男が、額を抱えてぼやく。

ギルドの人的財産でもある冒険者を、敗走させた。やはりそのことが、職員たちの間に重くのしかかっていた。


「治療中の冒険者は、命に別状はありません。ですが、しばらくは休養が必要かと」

「こちらの不手際だ、誠意をもって対応するように」

「……ですが、この二組のパーティー、中堅どころでした……正直、やはり無哭(むこく)のガルド氏に頼むほか……」

「……取り合ってくれまい」


職員らの脳裏に、先刻の冷たい赤目が蘇る。


「隣の魔術師が第一のようだった。護衛関係にあるのでは?」

「……ああ。下手に無理強いをすれば、逆に睨まれる」

「そうじゃなくても睨まれたことありますしね……昔……」


ぽつり、と一人の書記官が泣き言を漏らした。

”無哭”の威圧に()てられた者は、……どうも一人や二人ではないようだった。


「……まだ街には滞在しているようだが……魔術師殿の一存で、いつ街を出てもおかしくない。せめてその前に、もう一度だけ、声をかけてみよう」

「やってみない手はありませんが……せめてもう一手……報酬か、被害に訴えるか……」

「……無哭が動く何か……」


それぞれの声に焦燥が孕む。それは、もはや義務感だけの会議ではなかった。

海に沈んだ船、血を流した仲間、その報告を受けた職員たちの悔しさが滲んでいた。


「本来であれば同時進行で討伐隊を組むところだが……海中に潜行しての戦闘が可能な人員が集まるか……」

「それは……」


その言葉に、誰もが目を伏せた。先の敗走してきたパーティーも、数少ない水中戦闘を行える冒険者たちだった。無哭のガルドもそうだ、という情報は、過去の依頼の履歴からも記録として残っている。

書記官の男がかつ、とペン先を書類に打った。


「……街滞在の冒険者をもう一度洗います。潜行可能な者で、できるだけランクの高い者を」

「頼む……あとは、運が、どう転ぶかだ」


夜は、まだ深くなる。潮の向こうに漂う気配に、皆言いようのない不安を抱えていた。




「ん……?」


その中で、資料をめくっていた職員の手が、あるところで止まった。

無哭のガルドに関わる情報としてまとめた中に、つい最近セレス支部から届いた通達が混じっていた。無哭と魔術師が、セレス支部で受けた依頼を、セレフィーネ支部で報告する、だからよろしくという旨の、その通達。


それを、見た。


「……なぁ、これ見ろよ」

「ん?」


そろりとその職員が、隣の書記官に書面を渡す。手元が、わずかに震える。




■ 調査依頼報告:郊外村跡・旧壁画保全調査の件

経路中の滞在予定都市セレフィーネ宛てに報告を転送いたします。


調査協力者:

・護衛冒険者 ガルド・ヴェルグリム《無哭のガルド》

・支援魔術師 ルシアン


両名ともに極めて信頼性が高く、今後の依頼候補者として有望です。


※追伸:

ガルド氏への依頼をご検討の際は、同行の魔術師・ルシアン氏へのアプローチを推奨いたします。

本人に交渉の意図がなくとも、美しい景観・歴史・象徴性・不可思議な現象など情緒的な要素に反応し、説得材料となり得ます。

なお、前例として《星花の盆地》案件においても、同様の流れで協力が得られました。

本通達は極秘ではありませんが、判断は各支部の裁量にお任せいたします。




時が止まる。

本題ではない、あくまで追伸とされる情報。

目を通した書記官が、止まっていた呼吸を大きく吸った。


「……こ、れは……!けど、なんだこの……”美しい景観・歴史……じょ、情緒的な要素に反応”ってのは……!」


どやどやと、職員たちが顔を突き合わせてその通達を覗き込んだ。

皆一様に時を止め、戸惑いが伝播していく。


「そんな話あるか……!人命より景観だと!?」

「で、ですが星花の盆地……少年が救助された事件です!あれもルシアンさんの一存で……?」

「……な、何かないか!魔術師の情緒に問いかけるような……!」

「月……いや、景色……う、海のど真ん中だぞ!んなもんあるか!」

「す……水紋!!被害にあった船は、航海中、船上空に水紋が浮かんだと報告が!」


女性職員が叫び、全員がぴたりと息をつめた。じわりと汗が滲み上がる。——もう、それしかない。


「明日の朝までに資料をまとめます!水紋についての聴き取りももう一度!」

「いいか、懇願はするな!礼も報酬も話題に出すな!」

「う、美しいものを探している旅人に、何故無哭がくっついてるんだ……!」

「……情緒で落とせってか……あの無哭ごと!?」


職員たちの間に、重くも妙な熱気が広がる。全員、うっすらと顔が強張っていた。

……“美しい”という言葉を、討伐依頼の交渉に使うことになるとは、と。


「最終確認だ、認識をすり合わせるぞ」


上級書記官の声に、全員の視線が集中した。各々が、頷く。


「……いいか、魔術師は、美しい景色で動く」


「魔術師が動けば、無哭も動く」


「つまり、魔術師に“美しい”って言わせれば、勝ちだ」


冷静なようで、どこかでおかしいその理屈に、誰かが吹き出してもおかしくなかったが、誰も笑えなかった。

笑えば、明日の海で誰かが死ぬかもしれない。それが、彼らの現実だった。


「嘘は書くな、比喩にも走るなよ、詩人じゃねぇんだからな!」

「視覚的、直感的に“美しい”と思わせろ!理屈はいらん!」

「交渉は一番接点の多い職員がいいかもしれません!」

「誰よそれ……受付くらいしかいないじゃない」


ガタガタと資料棚が揺れるほどの慌ただしさ。

何枚もの地図、記録、潮の動き、水紋の模写が並べられていく。


「……どうしてこうなる……どうして俺たちは、情緒に賭けて討伐の流れを作っているんだ……」


ペンを手に、書記官のひとりが机に突っ伏した。誰も答えない。だが誰も止まらない。

夜のギルドは、まだ明かりを落とさなかった。——情緒と、水紋と、美しさに、縋るように。




そして、そんな水面下の戦いを知る由もなく……ルシアンとガルドの眼前には、朝焼けが広がっていた。

船乗りの一人が、朝日とともに造船所へ戻ってくる。


「よう、護衛ありがとよ!異常なかったかね!」

「……ああ」


ぶっきらぼうにガルドが答えると、船乗りはにこやかに笑って、ルシアンが差し出した報告書にサインをした。


「またなんかあったらよろしく頼むぜ!」

「ええ、こちらこそ。……そうだ、よろしいでしょうか」


サインを確認して柔和に微笑んでいたルシアンが、ふと、船乗りに正面から向き合った。

その微笑を直で受けた船乗りが、さすがに狼狽する。


「お、おう……」

「航海中、座礁したとおっしゃってましたが、他に何かありませんでしたか?」

「他に……?……ああ、なんか、へんな模様が浮かんだなぁ。こう、船の上によ」

「船の上に?」

「ああ……街に来るにつれて消えてったから、すっかり忘れてた」


もう一度、ルシアンの視線が船底に向いた。じ、とわずかな間だけ、眼差しがそこに留まるが、……すぐに船乗りに向き直る。


「それは不思議ですね。航海の安全を祈りましょう」

「わっはっは、ありがとうよ!」


軽く一礼をして、ルシアンとガルドは宿へ向けて歩き出した。

朝の船着き場は、人のざわめきが少しずつ増えていく。夜の静けさは、もうどこにもない。


「何もないのも疲れたね、ガルド。昼まで仮眠を取ろう」

「……だな」


短く応じて、ガルドも歩調を合わせた。夜を越えたばかりの港は、潮の匂いを深く残している。

ルシアンの言葉どおり、“何もない”夜だった。だが、何もないからこそ、気を張る。

風の音、水の軋み、人の気配、月の動き——全てに異常がないことを、確かめ続ける。それが、護衛という仕事だった。


「……模様、なんかあったか」


あくび混じりの問いかけに返答はなく、ルシアンは小さく肩をすくめ、前を向いたままだった。

その背を見て、ガルドもそれ以上は追及しない。


街の輪郭が、朝日に染まる。


静かに伸びた影の中、ふたりの足音だけが、宿への道を刻んでいた。






宿にて仮眠を取り、ふたりは少し遅めの昼食を、ルシアンの部屋でとっていた。

ルシアンはまだ少し眠たげで、ガルドも少々静かだった。


「二日続けて夜の依頼は、ちょっと疲れたね」

「……ああ。今日は休むか」

「ふふ、それもいいかも」


微睡(まどろ)むような陽気と、静かな部屋に響く食器の音。穏やかな会話を交わしていると、部屋の扉がノックされる。……宿の従業員だった。


「お食事中、失礼いたします。冒険者ギルドの方々がお越しになっており、ルシアン様へ、急ぎお話ししたいご用向きがあるとのことでございます」


ぴたり、とガルドの手が止まる。

赤い瞳がぎろ、と従業員を見るが、……残念ながらこの宿の従業員は洗練されていた。

ルシアンはそちらに目を向けることもせず、ほんの少しだけ肩を落とした。


「……。では、食事が終わるまでお待ちいただきましょう」

「承知いたしました」


音を立てずに扉が閉まり、部屋に再び静寂が訪れる。おい、というガルドの視線に、ルシアンがひとつだけ微笑んだ。


「ふふ、君と私、どちらに用事だと思う?」

「……どっちにしろ、クソだな」


乱暴なその物言いにも、階下の客人の気配にも、ルシアンは変わらず優雅にそこにあり……ガルドが大きくため息を吐くのに、十分な理由となる。


「……寝不足だって言ってやれ」


ぶつぶつと零れる文句に、銀の眼差しがわずかに細められる。昼の日差しが、カーテンの隙間から柔らかく差し込む。

テーブルの上、湯気の立つスープと、焼きたてのパン。——いつものように、静かで優雅な食卓。


だが、階下に感じるわずかな緊張は……天気の話ではなさそうだ。食事を口に運び、微笑んだまま、ルシアンの首がそうっと傾ぐ。


「……さぞ、睡眠を削らせる価値があるんだろう」


それはまるで、観劇でも始まるかのような口調だった。






ルシアンがガルドを連れ立って宿屋一階の受付へ降りてくると、ロビーに肩を並べて待っていたギルド職員たちが、総じて姿勢を正した。

呼んだのは、ルシアン。けれどもこうして、”無哭”も付いて来た。……やはりここは常に”セット”か、と身構える。資料の束を持った指先に汗が滲む。

ロビーの応接ソファに、ルシアンが黙したまま座り。一言も交わさずに、宿の従業員がその目の前に紅茶を添えた。


「……失礼、紅茶をいただきますね。少々寝不足でして」


その涼やかな声に、ギルド職員が膝から崩れそうになる。

一晩中働いた。あなた方は睡眠の邪魔をしている。——そんな幻聴すら聞こえた気がした。

その背後に立つガルドは、腕を組んで、職員らを見下ろしている。こちらも夜勤明けで、いつもより双眸(そうぼう)が鋭い。


「どうぞ、おかけください」


すらりとルシアンの手が、向かいのソファを示す。

誰が行く、と一瞬だけ職員らで目配せをしたのち、……「お前が一番会話を交わしている」と無理やり引っ張ってこられた受付男性が、おずおずと腰かけた。


「失礼いたします、ろ、ロンドと申します。お休みのところ、大変申し訳ございません」

「ええ」

「っ……し、沈みゆく船が、海に花を咲かせる——そんな、話でした」


唐突に始まった歌詠みに、ルシアンがやや、目を丸くした。

はぁ、と深くため息をついたガルドが、心底面倒そうな顔をして、どす、とルシアンの横に腰かける。

まだがちりと腕を組んでいる。その視線は、まだ固まる職員たちに。


——頭湧いてんのか。……そういう顔だった。が、それを見て、ルシアンが軽く肘でガルドに触れた。


——まぁ、聞いてみようよ。そんなことを言っているかのような、面白そうな顔をガルドに向けたのち、……柔和な微笑でロンドに向き直る。


「ええ、それで?」

「きっ、記録には残せませんでした……海の上でのみ、花開いたからです……。“魔力の爪痕”と、……そう表現した者も、いました」

「なるほど」

「……っう、“美しいからこそ、恐ろしい”と、感じたんです」


ガルドが、天を仰いだ。……こいつら、攻略法を携えてきてやがる、と。

じわりと横の魔術師を見ると、その横顔は、ロンドではなく遥か彼方の海を見ていた。


「あなたの記録に、あの水紋が残ったなら……沈んだ船も、無駄じゃないのかもしれないと——そう、強く思いました」

「…………」


それ以上、加えるでもなく、引くでもなく……(そら)んじ終えたロンドの言葉に、ルシアンが、にっこりと、笑った。

紅茶のカップが静かに持ち上げられる。その指先は揺るぎなく、けれどもどこか、音楽の終わりを告げるように優しかった。


……沈黙。


だが、それは拒絶ではなかった。

伏せられた銀の瞳、頬はわずかに緩み、紅茶を含む唇が柔らかな弧を描き、……ガルドが舌を打つ。ルシアンのその微笑みは、あまりにも“肯定”に近すぎた。


「……こちら、失礼します……」


ロンドから震える手で差し出されたのは、水紋の図案を写した報告用紙だった。目撃した船員たちの記憶を元に、複数の証言を重ねて描き起こされた模写。

円環と……波か、連なる光のような文様。それはたしかに、“美しい”と言いたくなる何かを秘めていた。


ルシアンが手を伸ばし、紙面をそっと撫でる。その指先は、まるで水面をなぞるかのようで。


ロビーの空気がかすかに変わる。まるで、ひとつの扉が風の音とともに開いたような、そんな心地。

赤い瞳が、横目でちらりとルシアンを見る。そして、腕を組んだまま、低く一言。


「……それで?」


ハッと息をのむ音が、気配としてたゆたった。ここからはもう、開いたその先……”無哭”の面前。

ロンドが資料を手にしたまま固まっていたが、思い切ってもう一歩、踏み込んだ。


「はい、……詳細な依頼書をお持ちいたしました」


卓上に置かれた書類群を、ルシアンはすぐには取らなかった。代わりに受け皿にコト、とカップを置き、その紙束へ視線を落とす。

……そして、紅茶を飲んでいた方とは逆の手で、ゆっくりと資料の束を手に取った。


「……くそが」


ぼそり、とともに、ガルドが組んでいた腕を解いた。たっぷりと大きなため息、ついで背もたれに手をかけ、ルシアンの横からその束を覗き込む。

——書類の中から、折りたたまれた紙を抜き取る。ばさ、と広げたそれは近海の海図や図面で、……ともに記された航路記録を眺め、低く、短く、吐き捨てた。


「……水紋の出た座標。全部、地図に起こせ」


職員たちが一斉に息を吸った。


「敗走した奴らが遭遇した場所、そのときの潮流、出せ。船は二隻。一隻は遠くにつけとけ。沈没したらこいつだけでも連れ帰れ」

「しょ、承知しました!」

「すぐ手配をっ……あ、明日朝にはなんとか!!」


わたわたと頭を下げる職員たちをよそに、ルシアンは再び、そっとティーカップを口元に運ぶ。熱くもない紅茶の香りが、かすかに立ちのぼった。

隣を見れば、心底面倒そうな、けれど窓から海を見据える赤い瞳。


「ふふ、明日は朝から忙しいね」

「…………チッ」


いつもの舌打ちに、ルシアンは柔らかく笑った。


ロビーの空気は、がらりと変わっていた。それは、潮の流れが反転するような、目には見えぬ圧の変化だった。

職員たちは、踵を返しつつも、無言の歓喜を隠しきれずにいた。背筋は伸び、足取りに迷いはない。——濁潮の海に、ひとつ、確かな希望が灯ったのだ。


「地図班、記録班、準備急げ!」

「座標、今すぐ洗い出す!潮境の推移も添えるぞ!」

「失礼いたしました、ガルドさん、ルシアンさん!よ、よろしくお願いします!」


口々に礼を述べながら、職員たちは宿を後にした。

その背が見えなくなってからも、その場にはまだ紅茶の香りが残っている。


窓の外では、午後の日差しが波を撫でていた。静かな港町。けれど、その海の下には、沈んだ船が眠っている。

ガルドが重たげに立ち上がり、窓へと歩を進める。組み直した腕の中で、またため息がひとつ、零れた。


「……結局こうなる」


背中で呟いたその声に、ルシアンはカップを置いたまま、小さく目を細めた。瞳の奥に、次の波を見据えるような静謐(せいひつ)が宿っていた。


“沈みゆく美”を見届けるために。


“恐ろしいほどの情緒”に、立ち向かうために。






……夜、ルシアンは、宿の自室の書斎机に座っていた。

小さな革の袋を取り出す。そこに、金貨を四枚入れた。


もうすぐ、ガルドと契約して一月(ひとつき)が経つ。

契約金は、月に金貨五枚。契約の初めに、試し金として、金貨一枚を渡していた。

この一か月は、雇用主に値するか、判断してもらう期間だった。


ガルド自身、それを覚えているのかは定かではない。……だが。


『一月、付き合ってやる。それ以上は、その時だ』


契約の際に、試すように言われた時のあの視線を、ルシアンはまだ忘れていなかった。


もちろん、ルシアンがガルドを見限る、という想定もしていた。

だが、粗野な男は思いのほか実直で、こちらの意図を汲み、つかず離れず、それでいて遠慮のない物言いをする。

——心地よかった。


それと同時に、高い実力を持つ彼を、この奇妙な旅に縛り付けておいていいものかと……ルシアンは、そうも思っていた。


「……手放すのもまた一つだね」


きゅ、と革袋の口を閉じる。

選ばれればそれまで。……選ばれなくとも、それまで。


ならば、残り数日を、楽しんで過ごそうと思った。




ガルドは宿屋の前の石段に座り、眼下に見える河口、そしてその先に広がる海を見ていた。

昼にギルドの職員らが来た時も、さっき夕食を食べたときも、ルシアンの口元に浮かぶのは相変わらずの笑みだった。

明日の目的地は、……今は漆黒に広がる大地のように、波を湛えている。


「…………」


ちらりと見上げて、ルシアンの部屋に目をやった。灯りは灯っていて、窓は閉まっている。上着から煙草を取り出せば、しばらく用のなかったそれは、紙箱の角が潰れていた。

……別に控えていたわけではない。元々大して依存もしていなかった。なによりあの魔術師に、こんな匂いは似合わないと思って取り出すこともしなかっただけ。だが今は、気持ちを落ち着けるのに必要だった。


……明確に、戦いに(おもむ)く。


この穏やかな旅路では、縁遠いものだったからこそ、少し心がざわついた。

ぱち、と焚きつけた火種が、煙草の先に朱を灯す。それを咥えたまま、ガルドは再び海へ視線を戻した。


(……水紋、だとよ)


良いように使われたな、と思った。……いろいろな意味でだ。


一月付き合ってみて、あの雇用主がどんな男なのか、わかってきていたつもりだった。

等しく柔和な仮面を被っているのかと思えば、無差別に人助けをするような”偽善”の仮面は持ち合わせていない。


誰にでも崩さぬ態度は博愛のようでいて、その実、すべてを平等に切り捨てるかのように一線を引いている。

ならば自分もその”一線”の向こう側かと思いきや、どうやら”内”に入れられているようだ。


前回の星花や、今回の水紋のように……己の琴線に触れる景観や不可思議を追う欲望に忠実かと思えば、迷子の子どもにひそりと寄り添い、道を照らす。


——次々と見えてくる彼は、その度にガンと頭を殴っていくかのよう。宵に浮かんだ紫煙を、夜の潮風がさらっていく。


(……、続きの話、されねぇな)


消えていった煙の名残を目で追いながら、心に浮かんだのは、いつかの契約の言葉。


『一月、付き合ってやる』


それを言ったのは、自分だった。だが、その一月を目前にしても、あの男は変わらず微笑んでいる。

変わらず、気ままで。変わらず、優雅で。変わらず、どこか届かない。


「……くそ」


低く呟き、最後の煙を吐き出す。潮風に混じった煙草の香りは、すぐに夜気へ溶けた。

どこかの家の窓が、かすかにきぃ、と軋んだ気がして、火の始末をした。


二階の窓に淡紫の影は見えない。その眼差しが何を見たがっているのかも、まだ自分には捉えきれていない。

ただ、……”美しいもの”を見るために、必要なんじゃないのか、”俺”が、……とも、思う。


「……手放せるもんなら、手放してみろ」


誰にも聞こえない声は、深まった夜にたゆたって消えた。ゴキ、と首を鳴らす。

道を切り開く切っ先として、最初に自分を選んだのは向こうだ。


……ならば、力で証明するだけだった。






——【魔術師を振り向かせるために】

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