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【星を見る子ども】



夕食を終え、宿を出る。


夜の港湾は、昼とは違って静かに船を抱いていた。ぽつぽつと灯る橙の街灯が、商船をぼやりと照らす。

時間は月が天に上りきる前。けれど、船乗りや人夫たちはもう、ここにはいなかった。


ざり、と石畳に靴底をこすりながら、ガルドが周囲を見回す。

獣のような感性で、時に魔獣を、時に異変を見つけるこの男。……今夜は、振るわなかった。


「……いねぇ、な」


ちゃぷちゃぷと、河川の水面が桟橋の支柱を撫でる。どこか静かで、人の世から手放されたかのような景色。

ルシアンもまた、その隣に並び立った。


「港に座ってた……船の上で星を見てた……だっけ」

「……生きてるやつなのか」


ふと、ガルドがそう零した。確信などはなく、可能性の一つとして思い至ってしまっただけ。……それに対してルシアンも、そろりと隣を見上げる。

明白ではない目撃情報。夜にしか現れず。行方不明の届けもない。

街では見ない顔。見た、という証言しかない、背景。


「……どうだろうね」


半歩だけ、ルシアンがガルドに近づいた。周囲に目をやる。……もちろん、何もいないが。



風が吹いた。海から、川を遡ってくるような冷たい風だった。ルシアンの外套がふわりと揺れ、淡紫の髪が風を抱く。


「……ま、目撃があった場所、片っ端から回るしかねぇな」


隣を一瞥だけしてから低く呟いて、ガルドが歩き出した。

桟橋、旧灯台、荷揚げ場、そして小さな漁船が寄港する湾の奥——それぞれの地点で立ち止まり、目を凝らし、耳を澄ませる。

……だが、波の音と、木材が軋むかすかな音しか返ってこない。まるで、そこに最初から誰もいなかったような、空虚な静けさだった。


「……なぁ」


ふと、ガルドが足を止め、後ろを振り返った。ほんのわずかに肩を揺らしたルシアンが、すぐ後ろで立ち止まり、首を傾げる。


「どうかしたかい」

「……“星を見る”って言ってたよな」


赤い瞳が、夜空を仰ぐ。頭上に広がるのは、雲ひとつない、満天の星。


「——あのへんじゃねぇか」


ガルドが顎で示したのは、港の突端。灯台のさらに先、立ち入りをためらうような細い突堤(とってい)

手すりもなく、海風が抜ける、まるで“人の世から外れた場所”。それは、夜の海に溶け込む“境界”のようでもあった。


歩を進めていけば、波の音が、ふたりの足元を洗うように響いていた。灯りはまばら。昼は賑やかしい海鳥の声がひとつもないだけで、一層静けさを際立たせる。


ガルドが、すん、と鼻を鳴らす。だが風に混じるのは潮と魚と、古びた木材の香りばかり。

生きた気配——呼吸、体温、視線。何ひとつ感じられない。


「……いるのだろうか、本当に」


ルシアンがぽつりと呟き、ガルドを追うように突堤の先端へと歩を進める。足元を踏み締めながら、波の音だけが二人を包む。

天を見上げれば、星が瞬いている。確かに、今宵も星はそこにある。

なのにそれを見上げていたという子どもは、どこにいるのか。


その瞬間、ガルドの視界——海へ延びる地面の先端に、小さな影が、揺れたように見えた。

巨躯が動きを止める。……気配はない。だが、目の端に“輪郭”がよぎった。それは子どものような、小さな背中のような……。後ろ手に、ルシアンの方へ手を差し出す。

触れず、声もかけず。ただ、そこにいてくれと告げるように。


ぴく、とルシアンの足が止まる。

動きを制するように伸ばされたその手に、わずかに触れる距離で——それ以上は踏み込まない。しかし確かに、その意図を受け取っていた。


ざり、とガルドの靴が鳴る。大きな影が、一歩、また一歩と進み出す。

靴底が木材を踏む音すら、海に吸われるほどの静けさ。

突堤の先、影がまだ——いや、もう——そこにあるかどうかも、わからなかった。


だが確かに、さっきは見えた。星を見上げる背中。届かぬ声。何かの気配。


「……おい」


低く、呼びかけたその声は、突堤の先端を越えて夜の海に溶けていった。静かにもう一歩、前へ出る。……いた気がした。けれど水面が、頼りない月光を反射して揺れているだけ。


ガルドが小さく息をつき、後ろを振り返る。ルシアンが首を傾げていた。


「……いや、わりぃ」


そうぼやく。暗闇の、月明かりに揺れる水面、何かを見間違えたのだと思った。歩き出そうとして、はたと立ち止まる。左手側、視界の端、足元に——それが見えた。


八歳くらいの少年。こちらに背を向け、空を見上げ、星を数えるように指先を動かしていた。

少し大きめの船乗りの帽子をかぶっている。商船に乗ってきた子どもか。


こちらには気づいていない。星だけを、見ていた。


「ガルド、どうしたんだい」


柔らかな声とともに、ルシアンが歩み寄ってくる。立ち止まってしまったガルドに、わずかに首を傾げながら。その目線の先を見て、……もう一度見上げてきた。


「何かあったのかい?」


……その問いかけが、全てだった。

ルシアンには見えていない。魔力体ではなく、霊体だからか、と、ガルドは頭の隅で納得した。


「……そこにいる。星を見てる」

「え、……」


ルシアンがもうそこへ一度目を向けて、少しだけ銀の瞳を細めた。

……意識を集中させれば、その存在にかすかに残る、魔力の残滓(ざんし)のようなものを感じる。

けれど、もう今にも消えかけていた。


「本当だ、何かいるようだね。……でも私には姿もわからない。話しかけられるかい?」

「……やってみる」


低く答え、ガルドが一歩踏み出す。足音を立てぬよう、突堤の板を押し沈めるようにして進む。

星を辿る小さな指先。風に揺れる帽子。それは、あまりにも静かで、まるで置き去りにされた時間の中にいた。


「……おい」


届くか、わからぬ声。けれど、少年の指がふと止まった。

星を見上げたまま、何かを感じ取ったように、首が(かし)ぐ。


「何してんだ、こんなとこで」


もう一歩。

ガルドが近づけば、少年の背中がゆっくりと、こちらへ向き直った。


——目が、合った。


けれど、その目は、どこか焦点を結ばず、うつろだった。身を沈めるようにしゃがみ込むガルドを、見ているようで、見ていない。言葉を聞いているようで、届いていなさそうな。


「お前は……誰だ」


再び問えば、少年の唇がわずかに動いた。けれど零れる音はなく、風がそれを攫っていく。


(……もう、長くねぇな)


……なんとなく、感覚でわかった。

この霊体が、自分の“かたち”を保っていられる時間が、限られていることが。

背後ではルシアンが、静かに成り行きを見守っている。……何も見えないが、ガルドがこういった悪ふざけをする男ではないことも、十分に理解していた。

ただ黙って、その背に立つ。


「……帰りてぇのか」


夜の波が、また突堤を打った。少年の帽子が、少しだけ傾いた。


『 かえり みちが わから ないの 』


声なんて聞こえなかった。だが、口元がそう動いた。

よく見れば、その足元は水でぐっしょりと濡れていた。


——落水。そんな言葉が、ガルドの頭をよぎる。


船乗りの子供ならば、星を見て海を進む術を、教えられていたのかもしれない。

だがこうして、迷っている。帰り道が、逝く先がわからないのだ。


『 どう すれば いけるん だろう 』


ぐ、と奥歯を噛みしめて、ガルドは声だけを後ろに投げた。


「行き先がわからんらしい」

「…………」


——ルシアンは、何も言わなかった。

空へ視線を投げれば、満天の星空。そのどれもが、瞬くようにちらちらと光を湛えている。

細く息を吐いた。

一歩を踏み出し、ガルドの隣にしゃがみこむ。やはり何も感じ取れないが……ガルドが見ている空間を、見る。


「私が、ゆく先を照らしましょう」

『 ほん と? 』


安心するような、嬉しそうな顔は、ガルドにしか見えていなかった。

ちら、と赤い視線が自分へ向くのを見て、ルシアンがふわりと立ち上がった。少年がいるであろう空間を、手のひらで包む。


今にも消えそうな魔力の気配から、……読み取れるものは多くない。

君は誰で、どこから来たの?——そんな思いが、ふと沸いて出る。


どんな旅で、どんな船だった?星読みを教えたのは、誰?

家族はいた?大きくなったら、何になりたかった?


突堤の前方、水面からわずかに浮いた空間に、……小さな魔方陣が生まれた。

そこへ、ぽ、ぽ、と光の玉が連なっていく。

星花の盆地で見たものよりも、小さく、暖かな光だった。


「そこに、お星さまが見えますか」

『 みえ るよ 』


少年の代弁をするように、ガルドが頷いた。

それを見てルシアンが再び、少年がいるであろう、その空間を見る。


「では、お星さまの先の、あの光に向かって歩きましょう。怖ければ、着いていきますよ」

『 へいき こわく ないよ 』

「……いらねぇとよ」


小さく呟いたガルドが、ルシアンの隣で立ち上がった。

月明りに照らされた突堤の上、少年はひとつ、またひとつと、光の玉を辿るように歩き出す。

その足取りは音もなく、重さもなく。だが確かに——“前へ進む”意思だけは、そこに宿っていた。



「……もう迷うなよ」


ぽつり、とガルドが呟く。

それは少年に向けられた言葉でもあり、同時にまるで、自分自身にも向けられた声のようでもあった。


少年が、一度だけ立ち止まった。小さく、帽子のつばを押さえ、振り返るような仕草。

その目は、今度こそ焦点を結んで、ガルドを見ていた。声はない。けれど、やはり口元が動いた。


『 ありが とう 』


——そして、光の先へと、消えていった。


光の玉の最後の一粒が、音もなく水面に落ちる。残ったのは、ただ波の音と、夜の静寂。


「……どう?」

「……ありがとうだと」


ガルドの声に、ルシアンがゆっくりと頷く。突堤の先端に、もう誰の気配もない。

ただ、ほんのわずか……星がひとつばかり、輝きを増したように見えた。




宿に戻り、それぞれの部屋に帰る頃には、とっぷりと夜が更けていた。


帰りの道中は、ほとんど言葉を交わさなかった。どこか、”送り”の余韻が深く残っていた。

宿の自室で、ガルドが外套を脱ぐ。靴も脱ぎ、どさりとベッドに横たわった。


……少年へ問いかける声が震えそうだった。守らなければと思った。帰り道をずっと探していた。小さな子どもが一人で、夜に、ずっと。

そう思うと、頭がおかしくなりそうだった。


だが自分では、恐らくあれ以上何もできなかった。それが頭をぐるぐると回る。


——コン、と扉が一度だけ、ノックされる音が、暗い部屋に響いた。

扉に視線を投げる。一瞬ドキリとしたが、よく知った気配だった。


「……開いてる」


聞こえるかどうかの声で応えれば、カチャリと扉が開いて、ルシアンが入ってきた。少し、困ったように笑っている。

ガルドと同じように、どこにもやれない思いを抱いているようだった。


それを見とめてむくりと起き上がり、ベッドから降りようとすれば、無言のままに手で制された。

柔らかな気配はそのまま黙って、寝台の淵に片膝をかけてくる。


「——なん、だ」

「……見えなかった。……何も……聞こえなかった」

「…………お前が送った」


ゆらりと、ルシアンの身体が沈んで、ベッドに横たわる。

掛け布団をひいて、寝る体勢に入っていた。


「……それでも、君がいなければ、素通りしていたよ。……ありがとう、ガルド」



ガルドは、しばらく動かなかった。

隣に沈んだ淡紫の影。布団に伏せられた顔。その隣に、ぽっかりと一人分、用意された空間。

その全部が、いつもと違って、けれど、ちゃんと“ルシアン”だった。


「……」


無言のまま、手を伸ばす。

そっと、開けられた場所へと布団を持ち上げ、重く沈んだ身体をそこに預けた。


隣に人がいるのに、背を向けるのは苦手だった。けれど、正面から向き合うには、言葉がうまく出てこなかった。

ただ、わずかに横を向いて、静かに隣の気配を感じる。温度。匂い。呼吸。

ルシアンは何も言わず、けれど確かにそこにいた。枕に広がる淡紫の髪が、呼吸でわずかに揺れている。


「……”見えた”。あいつの声が」


ガルドからぽつりと漏れたその声は、思考よりも先に出ていた。


「“帰り道がわからない”って、そう言ってた。……夜に、一人で、だぞ」


喉奥で詰まるような音。

ルシアンは目を閉じたまま、黙って聞いていた。


「……ああいう、のは、……」


ぷつりと、そこで言葉が止まる。


視界の端、ルシアンの肩がわずかに寄ってきた。

その距離は、慰めでも、寄り添いでもない。ただ“ここにいる”という、確かな気配。

ガルドは、深く息を吐いた。頭を抱えるように、腕を顔に乗せる。


「……お前がいてくれて、よかった」


その声は、夜の中へ溶けていった。……返事はなかった。

けれど、その沈黙は、確かに隣に在った。


夜に迷ったままだった、小さな命。もう星の先へ還っていった、その背に手は届かない。けれど、それでも——“ひとりじゃなかった”と、あの子どもが思えていたなら。

ルシアンの呼吸が、ほんの少し深くなった気がした。静かに、ゆっくりと。まるで、言葉の代わりのように。


布越しに伝わる体温。眠っているわけでも、無理に気丈に振る舞っているわけでもない。

ただ、あの子どもの“気配”を、今もどこかで受け止めているのだと——そう感じさせた。


ガルドは顔を隠したまま、もう一度息をついた。掠れるような吐息に、胸の奥のざらつきが少しだけほどけていく。


港の夜が、ようやく静かに、明けようとしていた。






——翌朝。

ルシアンの部屋で朝食を取りながら、ガルドは窓から見える海を眺めていた。

終わったことへの安堵が、夜が明け、暖かい朝食を食べたことで、今……身に染みている。


「……ありゃあ、どういう魔法だったんだ。あんのか、なんか、そういうのが」


正面で食事をとるルシアンに、そう問いかけた。

魔術師の中には、不死系の魔物を浄化する者もいるという。ガルドもかつて一度だけ、そんな魔術師とパーティーを組んだことはあった。

が、浄化魔法はもっと乱暴で、強制的なものだった。


だからこそ、あの”送り”が深く刺さった。


「光の玉は、ただの道標だよ。星を指標にしていたみたいだったから」

「……あの魔方陣は」

「ううん……あの土壇場で練ったものだから……。性質的には、座標を定めるような……」


言いながらルシアンが、ガルドを見る。続けろ、とその赤い瞳が言う。

ルシアンの魔法を信じていないのではない。同じものを知ろうとする目。


「……防御魔法は、座標を定めて使うんだ。君の肌にまとうようにとか、私の前に壁のようにとか。対して回復魔法は、相手の内に届かなければいけない。”壁”を越えて届かないと、伝わらない」

「……つまりは?」

「防御魔法と回復魔法の応用で、あの子のいきたいところに座標を据えて、帰れる場所があるならそこに届くようにした。あの子の家族のもとでも、信じる神のもとでも、星のもとでも。

どこへいったかまでは、わからない。……けれど、帰れていればいいね」



昨夜の、見送るようなルシアンの眼差しを、思い出した。

あの少年の最後の一歩が、誰かのもとへ帰るように弾んだことも、思い出した。


——それを、土壇場で練ったと、平然と言ってのける。


「ギルドになんて報告しようね」


そう言って彼は、困ったように微笑むだけだった。



「……魔術師ってのは、皆そんなもんなのか」


スプーンを器に置き、ガルドがぽつりと呟いた。呆れとも、賞賛とも、感嘆ともつかぬ声だった。

彼が言うことは、やはりガルドには少々小難しかった。きっと自分にもわかるように、かなり嚙み砕いて説明をしたのだと思う。

“帰る座標を与える魔法”。防御と回復を応用し、目に見えない存在に“触れて”“届ける”——そんな魔法があるわけじゃない。だが、目の前の男はそれを、やってのける。


「……お前が、いてよかった」

「……そうかい?」

「ああ」


昨夜と同じ言葉が、今朝の声で落とされた。言葉を濁さず、ただまっすぐに。


「……ギルドには……適当に報告する。……こういうことも、たまにある」


眉をしかめるガルドに、ルシアンがふふ、と笑う。その笑みに、ようやく空気が緩んだ。

パンをちぎり、スープに浸して口に運ぶ。咀嚼する合間に、赤い瞳がちらとルシアンを見やった。


「……しかしあれだな」

「うん?」

「お前が”ああいうの”が苦手なのは、意外だった」

「…………」


ちろ、と銀の瞳がガルドを見た。……否定も肯定もないことこそが、それを認めているという何よりの証になってしまう。

ルシアンも何一つ言葉を足さず、一度だけ肩をすくめ、食事に戻る。わずかばかり、ガルドの口角が緩んだ気配がした。




朝食を終えて宿を出る。


街は朝を少し過ぎていて、けれどまだ昼の陽気はなかった。

昨夜とは断絶された、昼の世界。だが確かに、昨日と何も変わらない街だった。


冒険者ギルドへの道を歩く。今日は少し、のんびりと街を歩いてもいいかもしれない。


「報告書をだしたら、市場の露店を見にいっても?」


隣を歩く護衛に許可を取ると、ちらりと横目で見られた。


「……また変な奴に絡まれるぞ」


言外の、”俺も行く”が滲む。ルシアンの表情が、ふわりと微笑んだ。


冒険者ギルドは今日も朝から賑わっていて、生に溢れていた。

大扉を開けてルシアンらが現れると、一瞬だけ静まり、しかしまたすぐに空気が戻る。皆、慣れてきたようだった。


ルシアンは依頼掲示板を覗きに。

ガルドは依頼報告のために、受付担当の男性のもとへいった。


「お、おはようございます、ガルドさん」

「ああ……港の迷子の件だ」

「はっはい」


依頼書を受付に置き、ガルドがそのままカウンターに肘をついた。

受付担当が慌てて調書を取り出し、ペンを手に持つ。


「……生きた奴じゃなかった。現場で鎮静処置、消失確認済み。目撃証言との一致あり」


受付の男性は一瞬だけ眉を動かしたが、すぐに表情を戻す。勤務が長い職員ほど、“そういう事案”があることを知っている。


「あの近辺で、子どもの落水事故は」

「……ありました、三年ほど前に、当時八歳だった少年が……遊んでいて」

「身体はあがってんだな」


こくり、と受付の男性が頷けば、ガルドも納得したように頷いた。……心だけが、あそこに置き去られていたのだろう。


「ならこの件はしまいだ」

「……承知しました。霊的反応の鎮静処置とのこと、……“霊障の懸念なし”と記録いたします」


淡々と、だが敬意を込めて処理を進める手元。

ガルドはそれを黙って見届けた。


「報酬対象外。依頼達成度も、未満でいい。備考欄に記録残しとけ」

「はい。……ご対応、ありがとうございました」


帳簿に書き込まれた文字は、ほんの数行。

だがその背後に、ひとつの夜と、一人の子どもの“帰り道”があった。


ぺこ、と一つだけ会釈を受けて、ガルドは身体を起こし、背後を振り返る。依頼掲示板の前、ルシアンは指先で何かをなぞるように、依頼書の角を押さえている。

その表情は柔らかく、そしてどこか“終わり”の余韻を纏っていた。


(……んな顔してっから、変な奴が寄るんだ)


そう思いながら、ガルドはゆっくりと彼のもとへ戻っていった。

昼の街は、すでに次の営みへと動き出していた。




「あ、ガルド。ほら見て」


戻ってきたガルドに気づいたルシアンが、掲示板から離れながらも、依頼書を一枚見せてきた。

また面倒ごとか、と、ガルドの眉が一瞬だけ寄る。




——《潮待ちの護衛》

【依頼内容】

潮流の関係で出航を見合わせている商船の停泊中護衛を行う。船体は修理中。夜間の船体の安全確保を目的とする。


【目標】

・指定された商船の監視と異常発生時の対応

・部品の盗難防止


【報酬】

銀貨三十枚


【注意事項】

・護衛時間は日没後〜日の出前までとする

・船員は夜間、全員陸上にて待機のため、船は完全に無人となる




「これ、あの座礁した人たちの依頼だろうか?」

「……お前の”お気に入り”か」

「あ、ねぇ、ふふ、からかってるでしょう」


依頼書を掲示板に戻しながら、ルシアンが笑う。

その親しげな応酬に、周囲の目が少し集まる。


「ちょっと見つけただけだよ。行こう。市場、着いてきてくれるんだろう?」


歩き出しながらも、する、とその手が、ガルドの外套を揺らした。

ガルドの肩が、わずかに揺れる。振り返ることなく、そのまま隣に並び、低く応じた。


「……ああ。行く」


言葉以上に、その歩幅が物語っていた。手を伸ばせば届く距離、……けれど触れない距離。

しかしその外套の揺れは、確かに“呼ばれた”感触を残していた。


「…………」


通り過ぎざま、ガルドの視線が一瞬だけその依頼書に流れる。

陽気な海の男たち。港の茶屋で、ほんのわずかな時間だったが、ルシアンを楽しませたその喧騒。

あの賑やかさは、……ガルドもまた、嫌いではなかった。


ギルドの外、通りを歩けば、遠くで街の鐘の音が鳴った。朝の終わりを告げるように、ゆっくりと、静かに。

市場の通りは、朝よりも少しだけ賑わいを増している。香草、果実、干した魚、焼いた貝の香り。陽が高くなるにつれて、人の流れも早くなる。


ルシアンは、それをまるで絵のように眺めながら歩く。たまに立ち止まっては、小さな花飾りを見て、また別の屋台で干し果物の試食を勧められる。


黙って一歩後ろから、ガルドもそれを見ている。何を買うでもなく、何に惹かれるでもなく。

けれど確かに“守る”という行為の中にいた。

潮風にふわりと揺れる淡紫の影。笑みを浮かべる銀の瞳。そして、知らない誰かと交わす、優しい声。


(……お前は、どこにいても馴染むな)


……その傍らに立っている自分を、誰も咎めないこの街を……悪くないとも思った。


「……あとで、あの依頼受けるか。今夜も暇だろ」


ガルドの声に、ルシアンが振り返って意外そうに微笑んだ。


「ふふ、君の方こそこの街が気に入ったんじゃないのかい」

「……るせぇ」


舌打ち混じりの悪態に、ルシアンがまた笑った。香草の籠をひとつ指でなぞりながら、何も言わず。

その笑みには、からかわれているような、受け入れられているような、両方の色が混じっている。


「……言っとくが、街の飯が悪くねぇってだけだ」


そう続けながら、ガルドの赤い瞳が人混みの先へ向く。

活気。喧噪。すれ違う商人。行き交う市民。生に満ちた空気。


「うん、そうだね」


ぽつりと柔らかな声が落ちて、ルシアンがくるりと踵を返す。

また何か面白いものでも見つけたのか、遠くの屋台へと歩き出した。

陽光の下、風をはらむ淡紫がまた、揺れる。


ガルドは一歩遅れて歩き出す。そして気づかれぬように、ごくわずか、口元を緩めた。


日が高くなる昼の市場。

ふたりの旅人は、今日も確かに、この街の空気に溶けていた。






——【星を見る子ども】

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