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【潮香の部屋】


ルシアンは、いつも日が昇る前に目を覚ます。野営の時でも街の宿でも、それは変わらない。


「……そうか、セレフィーネ……」


見上げた天井に知らない場所かと一瞬思ったが、昨日到着した街、セレフィーネの富裕層にある宿屋だった。

昨日宿をとるために街の住民に声をかけてみたところ、こちらの容姿を一瞥(いちべつ)して何を勘違いしたのか、高級宿を案内された。

普通の冒険者向けの宿屋でよかったのだがしかし、青と白ですっきりと整えられた宿の外観と、洗練された従業員の接客が大変気に入った。

護衛の男に険しい顔をされそうな気もするが、——まぁそれを拝んでみたい気持ちもあったというところ。


柔らかなベッド、さらりと軽い掛け布団。起き上がれば、アロマの香りが室内に漂う。

別室の護衛のことを思う。普段、一般向けの宿屋を使っているようだった。

居心地の悪い思いをしていないだろうか。そう思い、ふふ、と微笑んだ。


起き上がり、寝間着から街歩き用の軽装に。

豪奢ではないが繊細な意匠の施された鏡台が、窓から見える海によく映えた。

軽く身なりを整え、外套——は、いらなさそうだ。


部屋を出て、斜向かいの扉の前に立つ。ノックはしない。小さく声だけをかける。


「ガルド、お散歩に行ってくるね」


声をかけた、という建前が欲しいだけ。当然返事はなく、やわらかな廊下を歩きだす。


——と、背後で扉が開いた。

肩越しに見ると、のそりと巨躯が出てくる。

眠そうにしているが、もう寝間着ではない。


「……歩くな、一人で」


言外に、俺も行く、が滲んだ。眉をしかめられ、ルシアンの顔に少し笑みが灯る。


「ふふ、寝てていいのに」


ガルドの眉間には、まだ薄く皺が刻まれている。無精ひげをざらりと撫で、自室の室内を一瞥する。


「……待っとけ」


短く吐き捨てるような声音に、ルシアンがまた肩越しに笑う。言葉にはせずとも、その笑みに含まれるものを、ガルドは知っていた。






足音が重なり、二人分の影が廊下に伸びる。

淡い影と大剣の柄が並ぶ、違いすぎる背中。


それでも、階段を降りて正面の扉を開けたとき、ガルドは小さく息を吸った。朝の潮風。宿の外には、夜露の匂いと共に、海の香りがほんのりと漂っている。

遠くには白い帆船が揺れ、灯台のシルエットが空を背景に浮かび上がる。

ふと横を見ると、ルシアンが顔を上げて空を仰いでいた。目元に宿る銀が、朝陽にきらりと光る。


「今日も晴れそう?」

「……そうだな」


口元をゆるめたその声に、海鳥が一羽、潮風に乗って飛んでいった。




海に近い街の朝は格別だった。


停泊する商船は、息を潜めて揺られている。朝の冷たい空気に、ほんのり潮の香りがのる。

海へと続く河口、その河口へと続く河川に沿うようにあるこの街は、陸と海と川を繋いでいる。

街の中央はしんと静まり返っていて、夜にも昼にも、人の世界にも属していないようだった。


しばし歩いてたどり着いた中央広場。ルシアンはその噴水脇に腰かけていた。マーメイドの石像の手から、水が流れ落ちている。

——こうして街が起きてくるのを見るのが好きだ。誰もいない街に、人の営みが溢れていくのが好き。

それすらも、ルシアンにとっては見る価値のある”美しいもの”だった。


ごつ、と靴音を鳴らして、ガルドが横に立つ。

ルシアンを見てはいない。けれど、ルシアンが見る景色を見ていた。


「……静かすぎて落ち着かねぇ」

「ふふ、そうだね」


率直な感想に、思わず笑みがこぼれた。

変に装飾をつけず、言葉をそのままぶつけてくれるこの護衛を、ルシアンはいたく気に入っていた。


——『一月、付き合ってやる。それ以上は、その時だ』。


護衛契約の際、ガルドがルシアンに対して放った言葉が、ルシアンの脳裏によぎった。

当時はそれに対して、『見限られればそれまで』と、答えた。


もうすぐ、その一か月が、経とうとしている。


(……今度、残りの契約金を支払わないとね)


「あとで、冒険者ギルドにでも行ってみようか、ガルド」

「……ああ」


短く返したガルドが、ちらとルシアンの横顔を見た。けれど、何も言わずにすぐ視線を戻す。

まだ人通りのない広場に、ふたり分の影。静寂を揺らすのは、噴水の水音だけ。


「ま……その前に、朝飯だな」

「ふふ」


ごつり、と大きな手が腰の革袋を叩く音。

護衛は胃袋で動くもの——そんな言い草にも似た仕草だった。

海風と河風の混ざる広場で、少しずつ朝日が昇っていた。




——朝食後、ギルドへ行くことにしたものの。

市場を調べてはみたが、街の食堂の開店にはまだ少し早く、宿へ戻る。


「お部屋へお持ちいたしましょうか」


宿の従業員にそう言われ、ルシアンが一拍間を置く。

もちろん宿の食堂もあるが、部屋で食べられるならそれに越したことはない。


「では、二人分、私の部屋に。簡単なもので結構です」

「かしこまりました」


ルシアンの言葉に、すら、と礼をして、従業員が奥へ下がっていった。

二階への階段を上がっていると、後ろから声がする。


「……おい」

「うん?」

「……お前の部屋で食うのか」


肩越しに振り返った先、赤い瞳が見上げてきていた。

——都合が悪かっただろうか。


「あ、うん、別にしてもらおうか?」

「……いや、いい」


返事とともに、すん、と鼻を鳴らす音。

確かに、部屋も別で取っているし、朝食もそれぞれの部屋でよかったのかもしれない。

そもそも自室があるのに、わざわざ雇用主と同じ部屋での食事は嫌だっただろうか。

——まぁ、嫌なら嫌だという男だ。などと。


そんなことを考えながらルシアンは絨毯の廊下を歩き、自室の前に。鍵を差し込みながら、後ろに立つ気配に視線だけを向ける。


「私の部屋、ガルドのよりひとつだけグレードが高いけど、怒らないでね」


冗談めいて言うと、護衛の男は少しだけ、肩をすくめた。


「……気にしねぇよ、んなもん」


低く返す声に、ルシアンの扉が静かに開かれる。入った瞬間、ふわりと香るのは、アロマと陽の匂い。

窓からは、さきほどの噴水広場が小さく見下ろせる。


ガルドは、部屋の中をざっと見回した。

広すぎず、だが調度は明らかに良い。ベッド、テーブル、鏡台、書斎机。すべてが落ち着いた色味で統一されていた。


「……書斎机とか何に使うんだ」


そうぼやきながら、歩を進めていく。

背負いの大剣を壁に立てかけ、背筋を軽く伸ばす。相手の部屋でも、変に萎縮することはない。

窓から外を眺めれば、ゆっくりと動き出している街並み。隣にルシアンが並び、同じようにそれを見下ろす。

まだ届かない朝食を前に、ふたりの間に、静かな時間が流れていた。




ほどなくして、ノックの音。

「失礼いたします」と、朝食を乗せたトレイが運ばれてくる。


焼きたての小さなパン、柔らかい蒸し卵、香草を添えたポタージュ。

派手ではないが、上質な素材を丁寧に仕立てた、優しい品々。


それを部屋の中央にある丸テーブルに置いて、従業員がそっと退室する。

扉が閉まると、室内に静けさが戻った。


「いただこうか」

「……ああ」


ふたりで椅子にかける。

ルシアンがポタージュの器に手を添え、——ガルドの視線に気づいて小さく笑んだ。

その笑みを前に、ガルドはフォークを取りながら、ひとつだけ、深く息を吐いた。


——どうにも、落ち着かない。

そう思いながらも、手は止めない。


朝食は静かに、そしてゆっくりと始まった。




カチ、カチと、ひかえめに食器の音がする。

ギルドに行ったら——

市場の露店が——

また海鮮の店で——

そんな話をしながら、食事を進めていく。


ルシアンは機嫌がよさそうで、窓から差し込む朝日に時折目を(すが)めていた。陽の光がその淡紫に触れて、さらに淡く透けている。


(……ホントに貴族みてぇな野郎だな、ったく)


心の中でぼやきつつも、この場を辞する理由にはならない。同じ卓で同じ飯を食うのは、決して軽い時間ではない。


無意識に働く護衛の目が、会話の合間に部屋を見る。

窓は外の通りに面してのみ造られている。部屋の扉からベッドは見えない。

鏡台に製肌水が置かれている。ベッド脇の壁に、柔らかな寝間着。


(——いや後半は関係ねぇな)


手触りのよさそうな寝間着から思わず目を背け、食事と会話に集中する。


「——で、ガルドはよく指名依頼とかは来るのかい?」

「あ、ああ、まぁ……だがあんまり受けねぇ」

「ふふ、君らしいね」


微笑むルシアンの後ろの方、旅の荷物がまとめられている。

旅装も、同じようにまとめて置いてある。

そこに、例の”腰装備”も畳んで置かれていた。前面編み上げの、装備。


(——っ!)


すぐに目を逸らす。ということは、着けていないのか、今は、と。

いや、数着持っているのかもしれない。

今履いているものも、同じ装備である可能性もある。十分に。というか絶対そのはず。


食事を終え、ルシアンが膝に広げていたナプキンをするりとたたむ。

その所作はやはり、この部屋の格式によく似合っている。


「面白そうな依頼があるといいね、ガルド」


楽しげに微笑むルシアンは、ガルドの混乱にまるで気づいていない。


「ああ……、……チッ、余計なもんばっか……」


つい低く吐いた言葉に、ルシアンが首を傾げる。

ガルドはそれには応じず、水をひと口含んだ。


ここ最近はほんの少し、”慣れて”きていた。”身を守る物”としてガルドが認識できたというか、やっと防具の枠に収まったというか。

けれどこうして一度気づいて意識が向いてしまえば、その意識のほうが勝手に追いかける。


(……つけてんのか、つけてねぇのか……)


脳裏に浮かびかけた想像を振り払うように、ガルドは勢いよく椅子を引いた。

木脚が絨毯の上で鈍く軋む音。


「廊下に下膳ワゴンが置いてあるって」


耳だけでその声を聞き、頷いた。

トレイを二つ抱えて、まだ静かな廊下に出る。見れば少し離れたところに手押しのワゴンが置いてあり、その上に朝食のトレイを片付けた。


(——アホか、俺は)


思春期のガキのような思考に、やや頭を振る。部屋へ戻れば、顔を上げて微笑むルシアン。


「片づけありがとう」

「……ああ。ギルド行くんだろ。準備すんぞ」


言いながら、壁に預けていた大剣を背に担ぐ。

肩紐を引き直しながら、視線は一切ルシアンの胸元より下に落とさない。


「……街着のままでいいな」

「そうだね」


再度扉へ向かえば、隣に立ち並ぶ表情は、いつものように柔らかく微笑んでいる。


だからガルドは、きしむ心を押し殺して、扉を開けた。






——【潮香の部屋】

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