【旅の空へ】
街の雑踏の中、ルシアンはガルドの少し後ろを歩いてた。先を行く護衛は、付かぬ距離。だが離れても行かない速さ。
人波の中、時折肩越しにこちらを振り返る視線。それとぱちりと目線が絡み、ルシアンはまたも微笑んだ。
「出発は明日の朝ですから、今夜はこの街で宿泊ですね。おすすめの宿屋はありますか」
ガルドの視線が、ほんのわずかにさまよう。
上等な旅装を着て、洗練された物腰で、言うに事欠いてどこの宿がいいかだと、と。
しかし目の前の彼は、冒険者向けの低価格帯の宿を案内しても、大人しく泊まりそうな雰囲気すらある。
下手に「自分で選べ」と言って、ものすごい高級な宿に泊まられても、それはそれで癪だ。
「……あー……」
小さく唸って、ガルドは頭をかいた。
どうにも判断が難しい。庶民宿を斡旋すればそれで済みそうだが、こんな奴をそこへ放り込めば——浮く。間違いなく。
「……静かで、寝床がマシなとこでいいな?」
振り返らず、ぽつりと呟いたその一言。案内というより、条件の確認のような言い方だった。
そしてそのまま、足取りを変える。街の大通りから少し外れた、木造の並ぶ落ち着いた区画へ。
夕餉の仕込みの匂いが漂い、表を掃く女将の姿もちらほらと見える。
歩くうち、ふと立ち止まり、ひとつの宿の前で視線を向けた。
古すぎず、派手すぎず。軒下に咲く花が、誰かの手入れの証。
二階建ての、木の梁と白い壁の外見。各部屋の窓枠にはガラスが使われている。
釣り看板には、小さく冒険者ギルドの印章。扉の板も丁寧に磨かれており、目立たないが、確かに“選ばれた宿”だ。
「……ここなら、まあ」
「ほう」
それ以上の説明はしない。ルシアンの好みも、金銭感覚も、まだ測りきれない。
だが、衛生も雰囲気も、最低限の水準は保たれている——はずだ。
そして何より、こんな風に歩くのが、意外と悪くなかった。
無言で横目をやり、斜め後ろにいるはずの気配を、さりげなく確かめる。
宿を一瞥して、ルシアンは微笑みのままガルドを見上げた。
「あなたもここに?」
「……ああ?」
その問いかけに、——がし、と頭をかく。ガルドは宿に泊まっていない。
昼は適当な依頼に出かけ、夜は酒場で飲んで、これまた適当に時間を過ごしていた。
「……いや、宿はとってねぇ」
「そうですか」
それきり何を言うでもなく、ルシアンはその宿屋の扉を開いて入っていった。
ぽつりと、ガルドが路地に残される。
——あいつ一人で宿なんてとれるのか。
——だがそこまで子守をしてやるほどガキでもねぇだろ。
そんな相反した考えが、ガルドの足をその場に縫い留めた。
よくよく考えれば律儀に待つ必要などどこにもないのだが、ルシアンが姿を消した扉をただじっと見つめる。
しばらくの後、ルシアンは扉を開いて出てきた。
先ほどと変わらぬ場所に立つガルドを見て、また、微笑む。
差し出した手に、木札のついた真鍮の鍵。
「……なんの真似だ」
「あなたの部屋の鍵です。明日から歩きますから、今日はきちんと寝てくださいね」
ちゃり、とガルドの手の中で、鍵が小さく鳴った。
「夕飯は、どこがおすすめですか?」
「……勝手に……」
鍵を見下ろし、ガルドは低く呻くように呟いた。怒る理由はなかった。
むしろ、用意されてしまったことへの戸惑いと、その行動が“当然”という顔でなされたことへの、妙な居心地の悪さ。
——まるで、ずっと連れだった仲間にする仕草じゃねぇか、と。
鍵を懐にしまいながら、仏頂面で歩き出す。再び、ルシアンが後ろにつく。
「……夕飯なら、裏通りのあれだ。鍛冶屋の隣にある小さな食堂」
「なるほど」
「地元の奴しか行かねぇが、肉は悪くねぇ。パンも焼きたてだ」
おすすめを訊かれたのだから、応える。ただそれだけのことだ。
「……てめぇの味の好みは知らねぇ、文句言うなよ」
そう言って、けれども歩く速度をほんのわずかに落とした。
肩越しに視線を送ることもなく、ただ前を向いたまま——だが、並んで歩ける程度の、悪くない歩幅だった。
ガルドは、丁寧に店先まで案内をしてくれた。
小さな佇まいながら、店内にはすでに何組かの客の姿が見える。
視線を泳がせたのち、ガルドは立ち去ろうとしたが、その背にルシアンが声をかけた。
「食べていかれないんですか?」
——立ち止まり、ガルドが振り返る。
にこ、とルシアンが微笑み、店の扉をくぐった。
ガルドも後に続き中に入ると、香ばしい匂いが二人を包んだ。
店員が顔を上げ、「いらっしゃ——」と言いかけたあたりで、少々戸惑ったような表情を浮かべた。
ぱたぱたと、駆け寄ってくる。視線はルシアンに。
「い、いらっしゃいませ、申し訳ございません、当店貴族様向けのメニューは……!」
はた、とルシアンが止まりかけ、しかしすぐに柔和な笑みを浮かべた。
「貴族様だなんてよしてください。一介の冒険者です。仲間もこの通り」
そうのたまい、つい、と手で後ろのガルドを指し示す。
ガルドの眉がぴくりと上がる。店員からの視線を受け、……まぁ、頷いた。
「そ、それは失礼いたしました……!あちらのお席へどうぞ」
壁際の席へ通され、向かい合わせに座る。
何か言いたげなガルドをみて、ルシアンは微笑みのままに肩をすくめた。
「……お前、あれをやるために俺を誘ったんじゃねぇよな」
ぼそりと呟いたガルドの声に、ルシアンは何も答えず、ただにこやかに水の入ったグラスを受け取る。
その柔らかさに毒気を抜かれたように、ガルドは舌打ちもせず黙った。
目の前のメニュー札は、手書きの黒板式。
焼き立てパンの盛り合わせ、香草焼きの肉、豆のスープに地元野菜の炒め物など、どれも地味だが、旅の胃には嬉しい品が並んでいる。
「……パンと、肉。あとスープだ」
注文を告げるガルドの横顔を、ルシアンが楽しげに見ていた。
注文の手慣れ方、料理の選び方。意外と常連ではないかとでも言いたげな視線。
「何だ」
「いいえ?」
赤い目がちらりと向けられると、ルシアンはまたも肩をすくめるだけ。
そのたびに、店の奥からは料理の香りが濃くなってくる。
「……んで、貴族なのかお前」
ぽつりと、ガルドが言った。
あの店員の慌てぶりは、この無骨な男にとっては見慣れない反応だったのだろう。
「俺はどう扱われようが構わんが……お前、さっきの対応、慣れてんな」
赤い瞳はまっすぐ。問いは、興味でも追及でもない。
ただ、向かい合って座った“旅の仲間”としての、初めての会話だった。
問いを受けたルシアンが、わずかに首を傾げた。やや薄れた笑顔。けれども、口元はまだ微笑んでいる。
「——まぁ、どうにも、私は意図せず視線を集めるようでして」
それは、何の打算も、悪びれた様子もない、声色。
自らへの自信でもなく、ただそういう事実として受け取っているだけのようであった。
要は、興味のない事柄らしい。
「私も誰にどのように見られようとかまいませんが、それにより行動が制限されるのは困りますね」
カウンターの奥、ルシアンを覗く店員の頬が、かすかに染まっている。
気づけば、周囲の客もちらちらと、こちらを見ている。
ルシアン自身、その視線には気づいている。が、気にするまでもない、という姿勢。
それよりも、と向かいの赤い瞳に視線をくれる。
ギルドのホールで、唯一、自分に”そういった視線”を向けてこなかった、男。
それどころか、こちらを値踏みし、見定めるような気配すらあった。
見た目や先入観で物事を図る輩とはわけが違う。
——非常に、好ましかった。
ガルドは、黙っていた。だが、その赤い瞳がじっと銀のそれを捉え続けていた。
「……ふん」
鼻を鳴らす。
それは嘲りではなく、半ば納得、半ば苛立ち。
どこまでが素か、どこまでが作為か——。その境界が見えねぇ、そういう奴が一番厄介だ。そんな表情。
けれど。
「視線を集めるのが“意図せず”なら、そう装うのも、お前の得意分野ってことか」
小さくつぶやいたその言葉に、反応するルシアンの肩先。
やはり、笑みは崩れない。
「……ああ、やっぱめんどくせぇな」
言いながらも、ガルドの指が、コップをくるりと回す。
そこに、焼きたてのパンが載った皿と、香草の香りが立つ肉料理が運ばれてきた。
店員がルシアンを見る目は、やはりどこか緊張と陶酔が混じっている。
それを横目に、ガルドは目の前の食事を無言で見つめた。
「……ま、確かに行動が制限されるってのは、俺も嫌いだが」
一言だけそう返すと、ナイフを取り、肉に刃を入れる。赤い瞳がまたルシアンを見据える。
「……俺は戦うだけだ。貴族様の従者なんかできねぇぞ」
静かな声。だが、どこか——試すような響きもあった。
ふふ、と正面から、小さな笑みが漏れる。
「戦い、守っていただければ、いいのですよ。あえて付け足すとすれば……」
ルシアンの呟きに、ガルドが鋭い視線を向けた。じろりとした眼差し。それを受けて、ルシアンの笑みも深まる。
そのすらりとした人差し指が、指先だけで店内をぐるりと示した。それを追うように、ガルドの眼光が店内を一巡すれば、不躾な視線たちが波のように引いていく。
咳払い。わざとらしい雑談の再開。慌てて店内に目を逸らす視線。
「…………」
「このように、あなたが隣にいるだけで、十分助かります」
肉料理を切り分けながら、目を伏せたルシアンが微笑む。
ちろり、と向けられた銀の瞳が、必要だ、と語っていた。
赤い瞳が、わずかに細められる。
「……そういう使い方かよ」
くぐもったような声が、喉の奥から漏れる。咎めるでも、怒るでもない。だが確かに——苦い笑いが滲んでいた。
だが、ルシアンは動じない。むしろ、真っ直ぐに“この男の価値”を言葉で肯定しただけの笑顔だった。
ガルドは、黙って皿の上の肉を切り取る。その手つきは乱暴でも粗野でもなく、実に正確で、無駄がなかった。
「……だったら、逃げんなよ」
ぽつりと呟かれたそれは、脅しではなかった。
ルシアンではなく、どこか、己に言い聞かせるような——低く、抑えた声音。
その言葉が届いたかどうかも気にせず、肉を口に運ぶ。パンをちぎり、スープに浸す。
もう視線はルシアンには向いていない。ただ、さっきの言葉が胸に何かを残していたのは確かだった。
“飾り”じゃないと、本気で言われたのは——きっと、初めてだった。
——翌朝。
ガルドが宿屋のロビーに降りてくると、ルシアンがソファに腰かけて待っていた。
にこり、と柔和な笑み。傾げた首の角度も、計算されたように完璧だった。
「おはようございます」
「……ああ」
並び立って宿を出る。街はまだ朝もやの中にある。
日が昇る前の世界は、どこか現世と乖離したかのようだった。
石畳を歩く軽い足音と、ごつごつとした重い足音。歩幅も重みも違うが、つかず離れずであった。
街門を出て、街の外、街道へ。
——乗合馬車は、と言おうとして、ガルドは口を閉じた。
目の前の主は、当然のように街道を歩き始めている。
なるほど、漫然たる”お坊ちゃん”ではないらしい。
「……俺が来ねぇと思わなかったのか」
少し前を歩く淡紫の髪に、そう声をかけた。
ルシアンは振り返りもせず、肩を少しだけすくめる。
「それならそれまでですが、あなたは来ると思っていましたよ。それに、あの試し金だけでは当座の酒代にもならないのでは?」
皮肉なのか本音なのか、微妙にわかりにくい返答。
——だが、ガルドには十分だった。
「……はっ」
小さく吐き捨てるように笑った声が、朝靄の中に溶ける。
気づけば、足取りが少しだけ軽くなっていた。
「試し金がどれくらいの価値か、知ってて渡してんだろうが」
淡くもやに包まれた街道の先、銀の瞳はちらりともこちらを見ない。けれども、確かに“歩幅を合わせて”いた。
わざとらしさのない自然な距離感。それが、昨日の出会いからわずか一晩で形成されたというのが、なんとも——癪だった。
「……行き先は?」
「ひとまず、次の街を目指しましょう」
「……ねぇってことだな」
言いながらも、赤い瞳はすでに周囲を見回している。
空の具合、草の動き、獣の気配。一歩街を離れれば、そこはもう“異常が普通に潜む”世界。
その只中で、背中を預けられる男かどうか——それを、あの銀の目は既に見極めていたのだろう。
「……いいさ。寄り道でも何でもしてみろ。魔獣が出りゃ、ぶっ倒す。それが俺の仕事だ」
無骨で、粗雑で、それでも——どこか信頼に足る声音だった。
——【旅の空へ】




