【セレフィーネ】
次の街へ進みだして、三日目。
丘から望めるはるか遠くの眼下、河口に面した街が見えていた。
その河口は少し先のほうで海へと続いており、陸路と海路を結ぶ、中規模の都市だった。
商船が、河口を遡って街へと入っていくところを見ると、水深のある河川なのだろう。
海を渡る予定こそないが、どこか世界の広さを感じてしまう。
——白水門の街・セレフィーネ。
メルダリオという大きな河川に沿うように作られた都市だった。
「日が暮れる前に着きそうだね。久々にベッドで眠れそう」
丘から伸びる街道を下りながら、ルシアンが肩越しに笑う。
淡紫の髪が、風に揺れる。
「……風呂入りてぇな」
「ふふ、そうだね。あとご飯」
「お前、また押し付けんだろ」
「たくさん種類を食べられていいじゃないか」
ルシアンの軽口に、ガルドが鼻を鳴らす。時たま舌打ちも返ってくる。それすら、ルシアンは楽しむ。
のんびりと、他愛のないことを話しながら、街道を進んだ。
セレフィーネの街は、遠目にも活気が感じられた。
帆をたたんだ商船が何隻も係留され、街の端には、河岸沿いの市場らしき布張りの屋台群が点在している。
街に近づくにつれ、人の声、金属の音、船の帆を打つ風の音が次第に大きくなっていく。
「……騒がしいのは……あんま好きじゃねぇが、飯はうまかったはずだ」
そう言いながら、ガルドが街を見下ろすように目を細めた。
警戒というよりは、風景に対する“目利き”の眼差しだ。
ルシアンが足を止め、街を眺める。銀の瞳に、海に続く河と、並ぶ屋根が映る。
風が吹いた。旅路の終わりではない、だが一区切りにふさわしい景色。
ガルドが一歩先に街道を踏み出し、肩越しに低く呟いた。
「……ほら、早く行くぞ。宿、混んでるかもしれねぇ」
それに、ルシアンもまた柔らかく歩を合わせる。
こうして、風に乗って香る潮の匂いを胸に——ふたりは、新たな旅へと足を踏み入れた。
街門までは、少し河川沿いに歩く必要があった。
左手に河を拝みながら、街への石畳を歩く。後ろが河口。潮の匂いが、背後からふわりと香ってくる。
ふと、河のほうに気配を感じた。ガルドも同時に。
目線を向けると、水面を馬が走っている。尾やたてがみが、水のようにゆらめいていた。
「……ケルピーかな?」
ルシアンの問いに、ガルドが頷いた。
水棲の、馬型の魔獣。船を曳くともいわれるし、いたずらをして水に引き込むともいわれていた。
そんなケルピー群が複数体、嘶きながらも河を遡上するように水面をかけていく。
「……ありゃ逃げてんじゃねぇか。お前の魔力にビビったとかよ」
「私の魔力よりガルドの顔じゃない?」
軽口の応酬をしながら、その群れを見送る。暴走したりだとか、そういった害はなさそうだ。
「近くで見てみたかったなぁ」
「……よそ見して水に落ちんなよ」
ぼそりと呟くガルドの声に、ルシアンがふふと笑う。
水際の石畳はよく磨かれ、苔も滑りもなかったが、それでも“護衛”としての警戒は緩めない。
肩越しにちらりと視線を送り、念のため一歩だけ内側に寄る。
河をかけていったケルピーの群れは、やがて遠くの水面に溶けるように姿を消した。
その尾が消えた方向には、川に張り出すように造られた港湾施設の木桟橋が見える。
船の帆柱が並ぶその先に、白く塗られた街門があった。
「……白水門って、あの門のことかな?」
見上げ、ルシアンが呟く。門の上部に、透き通るような白い石材が埋め込まれていた。
陽光を受けて、ほんのりと青みを帯びた光を返している。
「ああ。見た目は綺麗だが、中は結構硬ぇ石材だ。斧も通らねぇって聞いたことある」
呟きながら、街門の列へと足を向ける。
列はそこまで長くはなく、門兵たちは順番に身分証の確認と、軽い所持品検査をしているようだった。
ルシアンが鞄からギルドカードを取り出し、ガルドは一歩下がってそれに付き従う形を取る。
近くの商人たちがちらちらとふたりに視線を送ったが、敵意や警戒はなく、ただ目を引かれただけのようだ。
「次——身分証を」
兵の一人が声をかける。
セレフィーネの街が、ふたりを迎え入れようとしていた。
メルダリオ河の河口に面したセレフィーネは、海路と陸路を繋ぐ交通の要所であった。
街は長く河口から湾へと続く構造で、接する河川は大型商船が出入り可能な水深を持つ。
港湾区は交易商の拠点、内陸側に一般市民向け街区、丘側に富裕層向けの区画。
その中心部に、中央市場や冒険者ギルドセレフィーネ支部がある。
ひとまず、壁画調査依頼の報告書を出すため、ルシアンとガルドは冒険者ギルドに向かった。
扉を開けると、内部構造はセレス支部とほぼ同じ。
多少の規模の違いはあれど、どこに何の窓口があるかすぐわかるのが、冒険者ギルドの親切なところだった。
舞い込んだ異質な二人組に、ギルド内部がざわりとする。
「——おい無哭だぞ」
「本物だ……」
「隣は……貴族か?」
「あいつソロじゃなかったのか?」
変化に欠けるお決まりのひそひそ話が耳に触れる。が、ルシアンは何も気にしない。
そんなルシアンを見て、ガルドも周囲の声を無視する。——つまんねぇ奴らだ、と一瞥をくれれば、蜘蛛の子を散らしたようにいなくなる。
ふん、とガルドの鼻が鳴った。
「こんにちは、依頼の報告をお願いしたいのですが」
受付担当の男性に、ルシアンが柔和な笑みで微笑んだ。
一瞬ギョッとした男性が、その背後に立つガルドを見て、慌てて姿勢を正す。
「あっ、はい、ガルドさんのパーティーですね!セレス支部から通達を受けております!報告書、お預かりします!」
受付係の男性が、差し出された報告書を確認する。ルシアンは、ふと背後のガルドを見上げてみた。
——パーティー?と、その銀の瞳が尋ねている。
対するガルドも軽く肩をすくめながら、視線を逸らさなかった。
ギルドが勝手に言っているだけで、パーティーを組んだ覚えはない。
けれどその眼差しが何か考えているように見えて、言葉を足そうとしたのをやめた。
「……あー……。この街、長居するのか?」
ぼそりと呟く声が、ルシアンにだけ届く距離で落とされる。
依頼の報告が済めば、次の街を目指すか、それともこの街での滞在となるか。
“パーティー”だなんて勝手に言われた関係だけれど、今やガルドの行き先は、ルシアンの歩みとともにある。
「うん、折角だから、軽く観光していこうか」
返る言葉は、大方想定通り。
ぱたぱたと奥へ引っ込んでいく受付の男性を、ふたりの視線が追う。
「パーティー……登録が必要なんだっけ?」
男性を待つ間、ルシアンがそうガルドに尋ねた。
登録の意思——というわけではなさそうで、制度の確認のような声色だった。
「……ああ、Dランクから申請できる。報酬の均等分配やら……あとは互いの受けた依頼がわかるようになる」
「ふぅん。……私たちの場合、パーティっていうか」
「お待たせしました!確認取れましたので、依頼の報告を受理させていただきます!」
言葉を遮るように、受付係が駆けてきた。
ルシアンも、柔和な笑みでぱっと向き直る。その笑顔に、受付の男性が少し目を逸らした。
(——またやってやがる……)
ガルドの視線が、やれやれと言った風に宙を泳いだ。
この淡紫の魔術師に、あてられる奴は少なくない。——少し、同情した。
諸悪の根源が、こちらを振り向いて微笑む。
「行こうか、ガルド」
「……ああ」
咳払いも含めて小さく返事をし、扉の方へと歩き出した。
その背に、ちらりと受付の男性が視線を送っていたが、目が合った瞬間に慌てて伏し目になる。眉ひとつ動かさず、ギルドをあとにした。
外へ出ると、潮風が頬をなでた。
ほんの少し、港町の喧騒と香りが混じった風——あの静かな村跡とは、まるで違う世界だ。
隣で、ルシアンが歩幅を合わせて並ぶ。ガルドは無言のまま、ほんの少し目を細めた。
「……お前」
「うん?」
言いながら、足を止める。
ルシアンも立ち止まり、銀の瞳がこちらを見る。
「“俺らの場合”って、……続き、なんだったんだよ」
問いというよりは、確認のような声音。
“パーティ”じゃない何かを、本人がどう捉えているのか——ほんの少し、気になってしまっただけだった。
だが、すぐに返事が返ってこないのを見て、ガルドは鼻を鳴らす。
「……いや、いい。どうせまたはぐらかすんだろ」
そう言って、また歩き出す。後ろをついて来る、軽い足音。——順当に考えれば、どうせ、”雇用主と護衛”とか、そんなところだ。
けれどその耳は、いつでもその声を拾うつもりでいた。
中央市場には、市場と港に向かう道、丘側の富裕層区画への道、一般市民向けの区画への道、そして今通ってきた街門への道——と、街の要所になっている広場があった。
石造りの涼しげな噴水が、広場の中央にある。その噴水の中心にある意匠は、よくある人魚の石像だった。
じ、とそれを見上げていたルシアンが、ガルドを振り返って微笑む。
「ケルピーじゃないんだね」
「……ふん」
確かに、と思ったが、いちいち反応していたら、延々と綺麗な景色談議に付き合わされかねなかった。
市場への道から、炭焼きや海鮮のいい匂いがしてくる。ルシアンが一度そちらに視線をやり、再びガルドを見上げた。
「じゃあ、私は宿を取ってくるから、ガルドは夕食のお店をお願いしていい?ここの噴水で待ち合わせで、どう?」
どう?と言いつつも、こちらに拒否権はあるのか。ガルドも市場のほうへ目をやりながら、一つ頷いた。
ルシアンが満足げに微笑み、くるりと踵を返す。
淡紫の髪がふわりと揺れ、軽やかな足取りで人混みに紛れていった。すれ違う市民たちがちらりと視線を寄せるが、彼はどこ吹く風だ。
「……、好き勝手しやがる」
呟いて、ガルドも市場へ向かって歩き出した。
炭火の香ばしい匂い、焼いた魚の脂が弾ける音。港町らしい食材が軒を連ね、活気に満ちた声が飛び交っている。
だが、どれだけ目を凝らしても、”あいつの好み”など見当もつかない。肉だの魚だの、甘いのも辛いのも、全部「美味しいね」で済ませるような男だ。
悩んで損をした気分にさせられるのが、いつものオチだった。
「……くそ、どれ選んでもどうせ喜びやがる……」
ぶつぶつと文句を零しながら、屋台の一つに目を留めた。香ばしく炙られた海老と、炊き込み風の貝飯。
——まあ、悪くねぇ。
他にも何軒か様子を見ながら、数点を頭の中に記憶していく。
待ち合わせまで、あと四半刻もあれば十分だろう。
(……ま、あいつの“美味い”が聞けりゃ……)
思っただけで口には出さず、ガルドは黙って市場を歩き続けた。
——【セレフィーネ】




