【しずく】
壁画があるという村跡へは、街道を歩いて三日ほどかかった。
ルシアンは、乗合馬車を使わない。
街道を渡る風も、時たま降る雨も、野営でしか見れない星空も、すべてが彼にとっての”美しいもの”だからだ。
やがてぽつぽつと村の跡地が見え始め、ルシアンが歩みを緩める。
「あの村かな、ガルド」
「……みてぇだな」
恐らく家が建っていたであろう場所には、石の基礎だけが残っている。風化して崩れた木柵が、草の生い茂る区画を囲っている。畑だったのであろうその場所は、ただ自然に戻りつつあった。
山の斜面に向かって石垣が段々に登っていく。各段に、家の基礎や納屋の跡がみられる。
人の手を離れて、十年ほどといったところか。
「壁画、どこだろう」
ルシアンが、少し高い石段に上って、周囲を見回した。後ろをついていたガルドも、ぐるりと軽く視線を投げる。
山裾を見渡すように視線を走らせていた赤い瞳が——、ふと顎をしゃくった。
「……あそこ、崖んとこ。なんか描いてねぇか」
「うん?」
視線の先、段々畑の一番上——斜面の岩肌がむき出しになった一角に、確かに何かの痕跡が見える。
朽ちかけた石の階段を上がって近づけば、自然にできた風化の模様ではなく、明らかに意図をもって描かれた線。
白い顔料のようなもので、岩面いっぱいに伸びていた。
「……壁画、だね」
剥がれ落ちかけてはいるが、空を見上げる人のような形と、その空と思しき部分には、いくつもの台形のような文様。
上下には線刻のような細かい模様もあり、一定の意味をもつ図像構成であることが見てとれた。
ガルドが、壁画とルシアンを交互に見やりながら、ぽつりと口を開く。
「……まぁ、よくわかんねぇな」
真意を問うというより、自分では分からんという調子だった。
その声を背に、ルシアンが一歩、さらに壁画へ近づいていく。岩に残された描線が、銀の瞳に映り込んだ。
風が吹き、淡紫の髪を揺らす。
どこか、長い時間の流れを、黙って受け止めるような佇まいだった。
壁画から少し石段を下った場所、かつて家があった基礎に、ガルドは夜のための野営地を張っていた。
——ガルドは、恐らく元来世話焼きだった。
文句ひとつ言わずに、拠点を張る。ルシアンが手伝うと言っても、渋い顔。
この護衛がいなければ、軽率に野垂れ死にそうだなと、常々思う。
「……今度、君にサバイバル術でも教えてもらおうかな」
着々と拠点を張っていくガルドを見ながら、ルシアンがひとりごちる。この拠点張りが終わったら、次は壁画の幕張りだ。
赤い瞳が一度だけちらりとこちらを見て、鼻で笑った。
「そのへんで景色でも見てろ」
低く短い命令のような声音。ルシアンは笑って、小さく首を傾げた。
ガルドはその様子をちらりと確認こそすれど、荷を解く手は止めなかった。
地面を均し、崩れかけた石垣の内側に布を敷き、枯れ枝と小石で簡易の風除けを設ける。
一見無骨にも見える指先が、慣れた手順で細かな作業を進めていく。
焚き火の位置、風向き、視界の開け方。すべてに無駄がない。
その一つひとつが、長年の経験に裏打ちされた“生き残るための手際”だった。
「……もらった報酬分、働いてるだけだ」
ぽつりと落とした独り言のような言葉は、特に誰に向けたでもなく。
だが、その声音には、ルシアンの申し出を頭ごなしに否定したわけではない、という含みがあった。
手早く薪を組み、火種を仕込むと、ガルドは腰を上げた。背に負っていた荷から、風雨除けの幕を取り出す。
「——さて、次は“絵”か……」
そう言いながら、壁画のある段へと足を向ける。
護衛として、旅の案内人として——ルシアンの“美しいもの”を守るために。
壁画を守るための簡易幕を張る支度。
布を風に煽られぬよう、杭を打ち、張りを調整する。
ガルドが、幕を支える支柱を打ち立てる音が、村跡に響いた。
人の気配を失った村の残響に、またひとつ、人の音が重ねられていく。
傍らに立ち、布幕を抱えながら、ルシアンはじっと壁画を見ていた。
風雨で掠れ、ところどころ薄い苔に覆われている。
かろうじて見える、人らしきものと、家らしきもの、それと壁画の上の方には何か、台形のような形。
——なんだろう。
そう思いつつも、耳はガルドのほうへ向いている。
「ルシ、幕」
「あ、うん。……え?」
「ああ?」
はた、と視線が交差する。
ガルドが一瞬固まって、バツの悪そうに幕を受け取った。
「いやちげぇ、間違った。悪い」
それきり、ガルドは何も言わずに幕を張る。
そうか、間違えたのなら仕方ない、と、ルシアンも壁画に向き直った。
——それは家族によく呼ばれる愛称なのだが、まさかまた彼の口から出てくるとは思わなかった。
まぁ、呼びやすいものね。”ルシアン”より二文字も短いし。
そんなことを思いながら、壁画を見る。何故か、先ほどよりも壁画の情報は入ってこなかった。
ガルドは、布の端を支柱にくくりつけながら、わずかに奥歯を噛んだ。
自分で気づいた瞬間にはもう遅く、相手の反応が返ってきていた。
それでも顔は上げない。ただ無言で、幕を張る手に集中する。
「……くそ、油断した」
絞るような声が、風の音にかき消される。ルシアンの方を見ずに、きっちりと張りを整え、固定の確認をしていく。
ほどなくして張られた幕は、風にばたつかないよう、布端はしっかりと石で押さえられ、光の加減で壁画が見えやすいよう角度も調整されていた。
「……よし」
そう低く呟いて、ガルドはようやく手を離した。そのまま背中を向け、拠点のほうへ戻っていく。
背中はまるで何もなかったように見えるが、耳の先だけが、ほんのわずかに赤かった。
幕が張られたことにより、まるでこの空間だけが、特別になったようだった。
ルシアンは改めて、石碑の真正面に立つ。祠か、記念碑か、祭壇か。……判断はつかないが、目を伏せて一礼し、敬意を払う。
一歩引く。構造全体を視界に収めれば、家と人の群像の上に、いくつかの台形の形がみえるようだった。
苔に侵食されているところもあるが、手は触れない。それらを取り払うことが善とは限らない。
ルシアンの指先が、壁画へ向いた。細い魔力の息を吹きかけるように、極めて低出力で。
壁画に当たったそれが、ごく自然にふわりと拡散していくように。
ガルドにルシアンのやっていることはわからなかったが、やがて壁画の模様が浮き上がるのだけは見えた。
絵具かなんなのか、その色素がじわりと滲み、消えていく。目に見えない魔力の波が、壁画の色彩の変化によって視覚化される。
中央から外側に、幾重の波紋を描くように、浮かんでは消え、消えては浮かぶ。
「……ほぉ」
ルシアンにも聞こえない声が、ぽつりと漏れていた。
派手ではない。語りかけるような調査。壁画に眠った記憶を、少しずつ呼び覚ますような、絵との魔力の交感にも思えた。
大きな背が幕の端に預けられたまま、じっとその様子を見つめる。
ガルドに魔力のことはわからない。けれど、ただ綺麗だと感じた。
「……こりゃ妙に……見入っちまうな」
誰にともなく吐いたその感想に、応える者はいない。
だが、銀の瞳がこちらを向いて微笑んだとき、ガルドは視線を逸らすこともせず、そのまま真正面から受け止めた。
やがて壁画の明滅が終わり、最初よりもほんの少し、模様が濃い状態で落ち着いていた。
数分のことだったようにも思えるし、数十分やっていたような気もする。
振り返ったルシアンは、ガルドを見てまた一つ微笑んだ。
「よし、今日はこの辺にして、明日記録やスケッチを取ろう」
その魔術師は、巨大な壁画に魔力を流し続けてなお、汗一つかいていなかった。
「……ああ、わかった」
答える声は、それだけ。腰を上げ、下の段に設えた野営地へと戻る。
焚き火の火種に火を入れ、夕餉の支度に取りかかる。
小鍋を火にかけ、湯を沸かす手つきにも、無言の“了解”が滲んでいた。
石段の上、幕の向こうでは、壁画が再び静けさに沈んでいる。風がふわりと布を揺らす。
野営地に落ちる夕暮れは、静かで、どこか神聖だった。
「夜番、今日は私が先にしようか」
簡単な食事を終え、焚き火を眺めながら、ルシアンがガルドにそう尋ねた。
野営時の見張りは、月が天を回った深夜に交代することになっている。先に夜番をしていた方が、深夜に眠っている方を起こして交代。仮眠をとる。
二人は特に順番は決めておらず、その日の気分で後先を決めていた。
「夜番の間に、ここでのんびり記録しておくよ。本格的な記録は、夜が明けてからにするけど」
革鞄から手帳を取り出しながら、ルシアンがやわらかく微笑んだ。焚き火がぱちりと音を立て、火の粉がひとつ、夜の空へと跳ねた。
茜から群青へと変わりゆく空の色が、周囲の静けさをさらに深くしていく。
ガルドは焚き火の反対側に腰を下ろし、無言でルシアンを見た。燃える火を挟んで、かすかに揺れる淡紫の輪郭を捉える。
淡い瞳は手帳にペンを走らせながら、夕方の壁画を思い出し、時たま村跡へ視線を投げていた。
「……ん、じゃあ、お先」
ぼそりと呟いたガルドは、火に一本薪をくべ、背中をぐいと伸ばした。
そのまま天幕の中へ引っ込んでいき、外套を毛布のように被る。
焚き火の明かりが、天幕にちらちらと影を落とす。目は閉じていたが、呼吸は浅く、すぐに眠る気はなさそうだった。
それでもルシアンの気配を、息遣いを感じれば、彼はそのまま黙り込む。
信頼の形には、いろいろある。言葉ではなく、こうして背を向けて預けることも、その一つ。
夜風が、焚き火の炎を揺らした。村跡の静けさは変わらず、虫の声すら遠い。
その夜は、不思議なほど、時間の流れがゆるやかだった。
虫の音も聞こえないほどの、——深夜。
ちゃぷ——、と、水の音で意識が戻った。
焚き火が爆ぜる音もする。その中で、しゅる、ちゃぽ、という音。
ぼやりとした頭で、ガルドが目線だけを動かした。焚き火のそば、夜番をしているルシアンからだ。
携帯用の小さな木桶に、水をためている。
手のひらから水が滴る。ついで、小瓶から薬草のオイルを数滴。
ちゃぷ——。そこに、布をひたす音だった。
次に、旅装を外していく。
淡い色の外套を脱ぎ、ローブを外し、シャツの前をはだける。
腰の編み上げを、するりと——
(——まずい)
ガルドが咄嗟に、目をつぶった。
……清拭だ。野営時は、宿と違って風呂には入れない。
どこかのタイミングでしているのだろうとは思っていたが、そうか、夜番の時だったか。
薄く目を開けて天の月を見る。位置的に、まだ交代の時間ではない。
——だが、完全に目が冴えてしまった。
相変わらず焚き火のほうから、水の音と布を絞る音がする。
それがしゅるりと肌を撫でるような音も。
薬草の香りが漂ってくる。
そういえば、確かに野営明けのルシアンからは、こんな香りがしていた。
なるほど——と思いながらも、なるほどじゃねぇ……と自分を戒める。
「……くそ……」
小さく吐き出した声は、枕にした腕の中に沈む。
寝返りを打つふりをして、体ごと反対を向いた。背を向けても、意識だけはいやに冴えて、音を拾いすぎる。
——ぴちゃ、しゅる、くしゅ。
湿った布が肌を拭うたびに、かすかに布が擦れる音がする。
それが、妙に柔らかく、しっとりとしていて、想像力を否応なく刺激する。
ただでさえ夜は静かで、すべてがよく響く。
(……なんで声ひとつ立てねぇんだよ、あの野郎)
気配も、息遣いも、極限まで抑えている。
それは明らかに、“見られてもいい”とは、一切思っていない証拠。
だが、それがまた妙に真面目で、……余計に引っかかる。
ガルドは、薄く開いた目で焚き火の灯りを背に受けながら、さらに深く寝床に沈み込んだ。
それでも脳裏には、見えてしまった一瞬の輪郭と、香りと、音の残滓が焼きついて離れない。
(……っざけんな、今度から夜番、全部やる)
ムキになり、そんなバカげた結論にたどり着く。はるか背後で、焚き火がぱちりと爆ぜた。
その音を合図にしたように、薬草の香りがふんわりと鼻腔を撫でる。
理性という名の糸が、夜風にひやりと軋んだ気がした。
——起きたふりをするか、寝たふりをするか。
——寝返りを打つか、唸ってみるか。
様々なことを考えながら、永遠とも思える時間を、ガルドは過ごしていた。
いつの間にか清拭は終わっていたのだが、身動きが取れない。
そのうち、パタン、と手帳が閉じられる音がする。
立ち上がる気配があって、ルシアンが寝床のほうへやってきた。ガルドの横に屈み、腕に触れてくる。
「ガルド、そろそろ交代だよ」
……それは、まるで救いの声のようだった。あたかも今起きたかのように、片目を開ける。
のどがカラカラで、「おう」と出た返事は、とても寝起きのようだった。
ガルドが上体を起こすと、先ほどの薬草水の香りがする。
無意識に、眉根にしわが寄った。
「……あ、ごめん、匂うかい?さっき清拭したから」
ガルドの表情を見て、ルシアンが少し眉を下げた。
清拭の話題に一瞬息が詰まりかけたが、外套を無造作に羽織る。
「いや……水、まだあんのか」
「清拭の?……出せるけど、それでもいいなら」
「……ああ?」
”出せる”とは、と、ガルドが怪訝な顔をする。それを見とめ、ルシアンも小さく首を傾いだ。
ガルドの眼前で、上に向けられたルシアンの手のひらから、滾々と水があふれてくる。
ぎょっとする。川で汲んできた水じゃなかったのか、と。
「……てめぇ、……なんだそりゃ、何の水だ」
「”しずく”っていう生活魔法だよ。……人にあげたことはないけど」
「…………飲めん、のか」
「飲めるけど、魔力で作られた水だから、多飲するのはおすすめしないよ。清拭に使う分には全然問題ない。ガルドも使う?」
ぱた、ぱたた、と足元に、澄んだ水が滴る。地面に落ちた水滴に、ガルドが指先でだけ触れてみれば——ひやりと心地よく湿った。
「……っ、いや、使わねぇ」
その温度を払うように指をこすり合わせ、顔を逸らすようにして立ち上がる。
「……交代だろ。寝とけ」
「うん、ありがとう」
そのやりとりの後にもそり、と寝床に入っていく背を見て、かすかに息をつく。
傍らに置かれていた皮の水袋を拾い、無言のまま腰にぶら下げる。喉の渇きも、清拭の水も、いつも通り調達してくる。それでいい。
それでも……、あの手のひらから滴り落ちていた“水”の光景は、頭の奥にこびりついて離れなかった。
闇の中で静かに溢れる、あまりに自然な、魔力の水。指先に感じた冷たさは、まだぬぐい切れない。
“人にあげたことはない”——そう聞かされて、内心、訳のわからない焦りすら滲んだ。
(……くれてたまるか、あんなもん、誰にも)
焚き火に薪をくべ、夜番の位置につきながら、ガルドは深く息を吐いた。
視線を村跡の方へ向け、もう一度、闇に沈む壁画も見上げる。
「……調査どころじゃねぇ……ったく」
ぼやく声には、諦観の色が見えた。薬草の香りだけが、まだ薄く周囲に残っている。
その香りが、夜の静けさに滲み込んでいくのを感じながら、ガルドは夜番としての静かな時間に身を預けた。
だがやはり耳だけが、ずっと熱を持っていた。
——【しずく】




