【無哭の訓練】
「……一組目、前へ!」
教官が声を張る。
遠巻きにしていた訓練生たちの中から、明らかに気配の薄かった三人が、ぎくしゃくと一歩前に出た。
「あああの、その、よろしくお願いいたします……!」
先鋒らしき青年が叫ぶように頭を下げた。両隣の仲間もつられるように、慌てて剣を構える。
震えと冷や汗が、陽の下でも隠しきれない。
三つの切っ先を受け、だが——無哭は一切、構えを取らない。
武器など持っていない。ただ、立っている。
視線ひとつで、敵の鼓動を止めるように。空気が、重く沈んでいく。
「始めッ!」
号令の瞬間、三人が同時に走り出した。息はあっていない。けれど勢いはある。
剣が交錯する音は、しかし、響かなかった。
——ひゅっ。
一瞬。
誰の動きかも判別できぬまま、先頭の青年の剣が、空を斬る。
そして——彼の肩が、後ろへ跳ね飛ぶ。
「ぐぅっ……!」
土煙が上がる。
視界の中に、もう無哭の姿はなかった。
斜め後方、回り込むように立つその姿は、既に次の位置にいた。
「残り二人、止まるな!」
教官の怒号。
気合と共に、斬り込んだ仲間の一人が、わずかに踏み込む。
「——遅ぇ」
無哭の口が動いた。ぼやかれた声は、何故かすぐ耳元から聞こえたかのようで。
次の瞬間、砂が爆ぜ、胴を横から弾かれた訓練生が地面を転がる。
最後の一人が、剣を構え直す。
——足が、震えていた。
「回復がいてよかったな。——全力で来い、死んでも平気だ」
何も平気ではないことを呟く声が、低く、地を這うように、しかし降る。
もう一度だけ、視線を上げた訓練生の前で、無哭はゆっくりと、一歩踏み込んでいた。
「ふむ、容赦がないね」
かすかに微笑んだ柔和な声は、誰にも届かなかった。
訓練場の中央、無哭が重く一歩、足を進める。
ぐ、と空気が沈む。拳が訓練生の胸部を強く突く。木剣は吹っ飛んでいった。
「チッ、腹に力入れろ。飛ばされんな」
「っ——二組目!構え!」
教官の声に、次の組が駆けてきた。武器は構えているが、腰が引けている。
帯剣対素手。多対一。なのに、その歩みだけで、場の重心がずれたような錯覚が生まれる。
圧倒的、力量差。けれど無哭が自分たちを見る目は、弱者を見る目ではなかった。
「——顎引け。よそ見すんな」
瞬時に間を詰められ、肘を受けた訓練生の一人が、がくりと膝をついた。
防御の構えが崩れ、呼吸が乱れ、目が泳ぐ。
だが次の瞬間、その身体を包むように淡い光がふわりと差した。
──場外からの回復。容赦のない、即時の癒し。
息を吸う間もなく、体の痛みが引いていく。
けれど回復の温もりを感じる間もなく、次の一言が飛ぶ。
「次。絶えず来い」
「魔獣は待たねぇ。様子見すんな」
「立て。もう一回だ」
——ああ、そうか、これは——
周囲にいた訓練生も、反射的に立ち上がった。
強くなるために戦うのではない。生き残るために戦うのだ。
最後まで立ち続けるために。なにものにも屈しないために。
それがきっと、いつか何かを守るのだ。
立つ。構える。見据える。
それは恐怖ではなく、“逃げられないと悟った”者たちの動きだった。
「それでいい。……一歩でも前に出るなら、——俺が教える」
無哭の声は、低く、しかしどこか静かだった。
威圧ではない。威嚇でもない。戦場に生きる者の現実を突きつける声音。
それを聞いて、訓練生たちの背筋がかすかに伸びる。
「次、三組目ッ!構え!」
教官の号令に、再び別の組が駆け出していく。
土煙の中に踏み込む足音と、走りながら鋭くなる気配。
——もう、先ほどの怯えはなかった。
その輪の外で、ルシアンは椅子に腰掛けながら、静かに書板へとペンを走らせていた。
銀の瞳は魔力の流れを、気配の揺れを、正確に捉え続けている。
対象:組B/魔力脈動反応:脇腹→肩→剣先へ移動/顕著な集中点なし
防御破綻箇所:側面→回避不全/修正:踏み込み時の軸移動
回復:適用2.5秒内/呼吸再生有
さらさら、と静かな筆記が続く。
時おり地面を擦る音がして、訓練生が倒れ込んでいく。そのたびに指先で魔力を飛ばす。
穏やかで無慈悲な回復の波。まるで片手間だった。
それを受けた訓練生も、一瞬だけハッとルシアンを見やり、けれどすぐさま、また無哭へと駆けていく。
遠目に伺える目には涙すら滲んでいたが、背筋だけはやたらと真っ直ぐだった。
「くっ……ありがとうございます!」
回復を受けた者が、感情のままに礼を告げるたびに——ルシアンは静かに頷き、また書板に視線を落とす。
今この地獄の中心にいるのは、“恐怖の無哭”と“微笑の魔術師”。
片や叩き伏せ、片や叩き起こ……否、癒し起こす。逃げ場のない実戦訓練が、今もまさに進行していた。
地面には、すでに何人もの訓練生が転がっていた。——が、これもすぐに回復の餌食になる。
靴の跡と汗が残され、うめき声が混ざる中、……無哭はただ一人、微動だにせず立っていた。
指示は正確で、無駄がない。
叱咤ではなく、淡々とした指導。
なのに、何故だろう。訓練生たちは、その視線ひとつで息を詰まらせる。
「背後が開きすぎだ。構えたまま下がってんじゃねぇ」
一人、また一人と訓練生を沈めながらも、赤い瞳は的確に指示を飛ばしていた。
声を荒げるわけではない。けれど、言葉が刃のように吐き捨てられていく。
ギルドの通用口から様子を見に来ていた、数人の冒険者や職員が——、羨望や哀れみの眼差しで訓練生を見る。
無哭がこうして訓練をつけていることが、もはや異例だった。
誰とも関わらず、孤高を貫いてきた獣のような男が、後進を育てている。
それを、愉しそうに眺める、淡紫の髪の魔術師。
——なんなんだこの光景は、と。
ルシアンが、通用口をちらりと振り返った。視線だけで「楽しいでしょう?」と言いたげに微笑む。
無哭は目の前の訓練生たちを鋭く見つめ、赤い瞳をぎらりとさせている。
「ひぃっ!!」
「……だから、なんでそこで止まるんだよ……!」
「ぅぐっ!」
「避けんな踏み込め」
「がっ……!」
「おい、こいつに回復」
時おり飛ばされる合図に合わせて、ルシアンの容赦ない回復魔法が返される。
癒されているはずなのに、訓練生からは悲鳴が上がる。
叩きのめされても、いつの間にか治される。そしてまた訓練を付けられる。
本日の訓練生——涙ながらの”大当たり”であった。
ぜひ翌日以降も、という教官とギルド職員の懇願のもと、訓練観察記録の依頼は——なんと、五日間にわたって行われた。
ルシアンが面白がって受領したことが大きかったが——初めのうちは至極嫌そうな顔をしていたガルドが、何度のされても食い下がってくる訓練生に、向上の意思を感じたことも大きかった。
「教官殿、足場を崩してみるのはどうでしょう」
それは、訓練三日目に、ルシアンが訓練場の教官に放った言葉だった。
訓練場の中央では、例によってガルドと訓練生が打ち合っている。
なにを、と一瞬目を見開いた教官だったが、愉しそうにするルシアンを見て、黙って一つ頷いた。
「任せよう」
「……ふふ」
小さく笑ったルシアンが、前方に手を伸ばして、手のひらを下へ向けた。
途端、ごきごきと音がして、中央の地面が大きくひび割れ、大きく段差のついた地割れとなる。
「な、なんだぁ!!」
「ひいぃっ!!」
「っ、てめぇ!ルシアン!」
悲鳴を上げる訓練生。振り返り怒鳴るガルド。——だが、口角がほんの少し上がっていた。
それに返事をするように、ルシアンもひらひらと手を振る。”楽しんで”——口の動きだけで、そう伝える。
それが、三日目だった。
四日目は、湿地状にひどくぬかるんだ地面。
「うご、うごけねぇ!」
「ガルドさんなんで立ってられんだ!!」
「そりゃ気合いだろうが」
当然だ、という顔でぼやくガルドの前で、訓練生が何度も足を取られ、そのたびに重い格闘が飛んでくる。回復魔法の世話になる。
教官が、哀れみの視線を向け、ルシアンが不思議そうに首を傾げた。
「足が沈む前に、次の一歩を踏み出せればいいのですが」
「……まぁ、言うは易しだな」
五日目は、黒く透ける氷の地面。
「練度の高い氷にしてみました」
「……ああ、そのようだな」
涼しげに言うルシアンに、教官は、——もうなにひとつ驚いていなかった。
訓練生たちは全員、表情を硬くして整列している。
本日の地面——薄く黒光りする氷。足元に視線を落とすたび、誰もが眉をしかめた。
「……おい、また地面変わってるぞ……」
「今度は滑るってレベルじゃ……」
「昨日のぬかるみで足首いったやつ、今日はどうすんだよ……」
ざわめきの中、石塀脇にいつものように立つ、巨躯の男。
「文句言う前に立て。滑るなら滑らねぇように動け。……以上だ」
冷たい声が響いた瞬間、訓練生たちの背筋が伸びた。
すでに、抵抗するという発想はない。
誰よりも的確で、誰よりも厳しく、だが確実に「強くなれる」訓練だった。
氷上に第一陣が出る。剣を構え、深く息を吸う。
だが一歩目——滑る。
二歩目——膝が折れる。
三歩目——転んだところに、真上から拳が落ちた。
「足運びだけじゃねぇ。重心の置き方が悪い」
背後では、ふふ、と肩を揺らして記録を取る淡紫の魔術師。
凍てつく空気の中、筆先だけがひたすらに軽やかだった。
五日前までびくびくとしていた訓練生たちはみな、氷上で汗を流し、膝をつき、拳を受け、癒され、立ち上がる。
教官が、遠くから目を細めて呟いた。
「……まさか、ここまで付き合ってくれるとはな」
連日のように通用口から覗いていたギルド職員も、また、頷く。
誰もが思っていた。
“無哭”がここまで真剣に訓練をつけるなど、あり得ないと。
視線の先では、ガルドが滑りかけた訓練生の襟首を無言で掴み上げ、「死ぬな」と一言だけ言い捨てていた。
——【無哭の訓練】




