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【取扱説明書】


「調査団の方々の報告を待って、正式に報酬をお渡しいたします!ご足労をかけますが、また明日ギルドにお越しいただいてもよろしいですか?」


にこやかな書記官に言われ、ルシアンが柔和に微笑んだ。


「ええ、承知しました。では、失礼しますね」

「本当に、ありがとございました!!」


「いやぁ、あの二人に頼んでよかった!」

「ガルド氏が街にいたのが何よりの奇跡だ……!」


やんややんやと盛り上がるギルドを背に、二人は一度だけ視線を合わせて、ギルドの大扉を出る。




夕暮れの石畳には、二人分の影が長く伸びていた。

赤く染まる空の下、街のざわめきが、日常としてそこにある。

帰路を急ぐ人々や、依頼帰りの冒険者。自分たちも、その中の一人だった。


少し疲れたように、ルシアンが小さく息を吐く。


「どこかで夕食にしようか、ガルド。屋台でもお店でも、どこでもいいね」


”当然、君が決めてくれるでしょう?”という笑顔。

拒否権は、なさそうだった。


「……」


その笑顔に、問答無用で夕食の決定権を託されたガルドは、しばし宙を見たあと、小さくすん、と鼻を鳴らした。


「ったく……」


一歩、足を踏み出す。

通りの角を曲がって、屋台の灯がちらほらと灯り始める通りへ。

ルシアンがふと笑う気配があり、そのまま何も言わず、ガルドの背についていった。




通りの灯が、ぽつ、ぽつと点り始める。

染まった空に、早くも宵の気配が混じる時刻。


ガルドは、言葉少なに歩を進めながら、

嗅覚を頼りに、路地の先にある小さな食事処を目指していた。


——できれば静かな場所がいい。

席が広めで、外気が抜けて、騒がしくなくて、座って落ち着けて、”ゆっくり話ができる”店。


「……ここでいい」


そう言って、立ち止まった店の引き戸をくぐる。

店主と目が合い、軽く顎をしゃくると、奥の静かな席に通された。



腰を下ろせば、対面にルシアンがふわりと座る。

隣席とは細い板で仕切られており、外の空気が緩やかに通る。

香ばしい焼き物の匂いと、温かい湯気が漂った。


「……聞いていいか」

「ん?うん」


問うように視線をやると、ルシアンは軽やかに頷いた。

まるで、なにひとつ、なんとも思っていないかのような笑顔。

ガルドが一度だけ眉間を揉み、ゆらりと眼差しを向ける。


「……境界線の話、するぞ」


静かな口調で、だが逃さないように。

銀の瞳が、こちらを見た。


「腰の……いや」


——どう言えばいいのか。

ガルドが身体の前で腕を組み、小さく唸る。


「…………今、決めとけ」

「うん?」


低い声。だが、責める調子ではない。

どこか、落ち着いた圧。


「お前の“ここから先は触んな”ってとこだ。……はっきりしとけ」


もう、真正面から、言い切った。

まるで最初に線を引くことで、これ以上の無礼を絶対に避けようとするかのように。


「……あと、手ぇ出す前に聞く。次から」


どこまでが、地雷か、禁止区域か、境界線か。

今後の旅路のために。また事故を起こさぬように、ちゃんと、聞く。守る。

ガルドの視線には、それだけがあった。



「……ふふ、ストレートにものを言うね?」


テーブルの向かいの席、ルシアンが首を傾けて微笑んだ。

淡紫の前髪が、目にかかる。その隙間から、銀の瞳がのぞく。


直後、注文を取りに来た店員とは、ごくなんでもない顔をして会話をした。


今日のおすすめを二つ。鳥のグリルと、ポタージュも。


パタパタと店員の足音が遠ざかっていく。

手元の水のグラスをもって、ルシアンが一口含む。


銀の瞳がガルドを捉える。


——言う必要性が?


そんな表情にも見える。

がしかし、ガルドはその視線にも、ひるまなかった。


「……必要だ。俺は護衛だろ。お前の命を預かってる。だから、知らずに踏み抜くのが、一番まずい」


腕を組んだまま、言葉を足す。

静かで、どこまでも実直な声音だった。


「……さっきみてぇに触れて、お前が魔力乱したり、動けなくなったり。それで死なれてみろ。……目もあてられねぇ」


そうなりたくねぇんだ、と。

その言葉だけが、真っ直ぐにテーブルを越えていく。


「だから聞いてんだ。……どこがダメで、どこがギリギリで——どう触れたらまずいのか、怒るのか、拒否か、大丈夫か」


ガルドの赤い瞳は、ルシアンの銀を正面から捉えたまま逸らさなかった。


「……教えろ」


静かに、低く。——それは脅しでも命令でもなかったが。

けれど、守ると決めた男の言葉として、何よりも重かった。



「君は、身体の敏感なところを教えろと言われて、素直に教えるのかい?」

「……っ……ぐ……いや……」


直後返ってきた言葉に、ガルドはぐうの音も出なかった。

むしろ、やはりそういう解釈で取ってしまっていいのか、と、どこかで思ってしまった。


「……差し支えるだろうが!なんかの時、そこしか接触できなかったらどうするんだ」

「ふむ……」


くるり、とその手の中で、水のグラスが傾いた。

表情は依然、微笑みを湛えたまま。

やがて視線を少しだけ窓の外に流して、またテーブルに戻した。


「そうだね、身体の構造的には理解してもらえたかと思う。正直これ以上の情報が必要かどうかはわからないけど、護衛を続けるにあたって必要ならば仕方ないね?」


こくりと頷いて、ルシアンが、革鞄から手帳を取り出した。

開いた空白のページに、細いペンを走らせる。


「まず、ただ触れる。これは大丈夫。ただ拒否はするよ。昨日の酔客はそれ」

「……その後宿屋で、俺がさすったのは……」

「そう、ここだね」


触れる:拒否


——と。

さらりと、接触レベルと備考が書かれていく。


「次、強くしっかり触れる。これは……ちょっと困る。魔力の乱れが起こって、余裕がなくなる」


強く触れる:魔力乱れ・表情の崩れ


——これは、これは言わせていいのだろうか。

ガルドの視線が、次第に手帳から離せなくなる。


「次に、掴む。片手で固定とかね、されたらダメかもしれない」


腰を掴む:呼吸乱れ・硬直


——振り払えない、力が入らない、と、さらに備考が記入される。


「最後に強い衝撃や、抱えられる。これはもう体勢の維持が難しい。魔力核が揺らされて、反射で動けなくなる」


衝撃・抱え込み:核揺れ・行動不能


接触レベル、最高の位置づけに、今日の”抱えあげ”が記入された。

ピリとページが破られ、微笑みとともに、ガルドの前に明け渡される。さながら、取扱説明書のような。ただし、ごく危うい。


「これでいいかい、護衛殿?」


ガルドは、受け取った紙から目が離せなかった。


——“触れる”

——“表情の崩れ”

——“掴む”

——“核揺れ”


整った字で、あまりにも冷静に書かれた言葉たち。

内容は冷静どころではない。


「……っお前な……」


紙を掴んだ手が、わずかに震える。

顔が熱い。指先が熱い。思考が、まとまらない。


「……こんなん……お前……」


これを受け取って、今後どうすればいい。

歩くたびに腰を見るのか。接触するたびにこの紙を思い出せと?

それとも、最終的にどこまで触れてもいいか、許可を求めるための資料か?

まるで、許可証のようで……いや違う、これは、境界線だ。


「……どうすればいいか分かんねぇだろうが……っ」


ぼそりと呟く声は、明らかに狼狽していた。だが破ったり、放り出したりはしない。

どこか慎重に、紙を半分に折りたたみ、懐に仕舞った。


「……くそ、守る。……踏み込まねぇ。……それでも、必要なら……触るぞ、いいな」


その言葉にルシアンが何かを答える前に、静かなテーブルに料理が運ばれてきた。

上がる湯気にほっとしたのか、ガルドはどこか力の抜けた声で、呟いた。


「……食う。今それしかできねぇ……」

「……ふふ」


真正面、結ばれた口から、小さく笑みがこぼれた。

ガルドが見上げれば、おかしそうに笑っている。——微笑ではない。


「あのね、君ね、少し勘違いをしてるね」

「……なに?」


テーブルの上では、料理が待っている。

じゅうじゅうと音を立てるグリルチキン。みずみずしいサラダ。


それらをルシアンは、丁寧に受け取る。

いつもの通りに切り分け、自分の適量を取り、残りをガルドへ——と、皿を渡しながら、銀の瞳が、赤を見据えた。


「いくら私が誰彼構わずにこにこしようがね、触らせる人間くらい選ぶよ」


ひく、とガルドが固まった。

目の前の魔術師は、ごくいつも通りの微笑みを浮かべている。


「昨夜、さすってくれと頼んだのは私だろう?君を信頼しているから頼めるんだ。さっきのメモはね、あくまで君以外の話」

「……な……にを」

「言っただろう、情報の開示が必要かどうかわからないって。君ならなんでもいいからだよ。だって——わざと触れたりはしないでしょう?」


ざわり、とガルドの背筋に震えが走った。

それは、ある種、何よりの信頼の形なのでは——と、柄にもなく思ってしまう。


「まぁ、掴まれたら崩れてはしまうだろうけど、それで拒絶したりはしないよ。緊急ならね」


ガルドの手は、止まったまま動かなかった。

肉を切るはずだったナイフが、皿の縁に触れて、カチンと小さな音を立てる。


「…………」


赤い瞳が、皿の上のグリルを見つめたまま、動かない。

ルシアンの言葉の意味が、脳に追いつかない。

いや、理解はしている。ただ、処理ができない。


君なら、なんでもいい。信頼してるから頼む。触らせる人間は、選ぶ。


そんな言葉を、真っ向から、笑って言われて。

護衛なんて、本来掃いて捨てられてもおかしくないようなものを。——信頼してる、と。


「……お前な……」


口から出た言葉は、それだけだった。それ以上を出すには、感情が邪魔をして、喉が通らなかった。

けれど、ナイフを再び持ち直すと、いつもの調子で無言で肉を切り始める。


「……余計なことばっか言いやがって……」


ぶつぶつと、文句をこぼす。それでも、どこか安心していた。

この魔術師を、これからも守っていけると。たとえ、境界線の紙なんかなくても。

——触れるかどうかじゃない。守るかどうかだけだ、と。


口数の少ない護衛は、無言でまた肉を噛み切った。それを見てルシアンも、また小さく頷く。


「じゃあ折角だから、余計な事ついでに、その理由に関しても説明しておくけれど」


食事を一口、口元に運びながら、ルシアンはガルドに安心の滲む笑みを向けた。


「君が私の護衛だからだよ」


少しも揺らがない声の、それ。

ガルドの赤が、ルシアンを見据える。

眼光鋭い眼差しを真正面から受けて、それでも微笑みは崩れない。


「私を見ても、好奇の目を向けず、対等に会話をして」


「なんの得にもならない旅に、黙って同行してくれて、文句も言わずに剣となり、盾となり」


「不審者極まりない私を深く詮索せずに、ただの”ルシアン”としてくれる君だから、信頼しているんだ」


言い終えて、一口、また食事を口へ運ぶ。


「……お前ってやつはよ……」


そう言いながらも、ガルドの口元が、かすかに緩んでいた。

小さく漏れた舌打ちの音も、怒りよりも照れが勝ったときのもの。


赤い目が横に流れる。——正面から見ていられなかった。


静かに、けれど揺るがぬ声音で語られた言葉のすべてが、一つひとつ、胸の奥に静かに沈んでいく。

——得もなく、過去も探らず、それでも“彼を彼として”扱う自分を、信じて、託して、任せてくれている。


「……好奇の目は、とっくに諦めたわ……」


低く、ぼそりと呟いた。それは、照れをごまかすような、軽口。

素性もわからず、常に優雅で、おかしなことに首を突っ込み。

整えられた場がどこまでも似合いそうなのに、街の小さな料理屋で食事をする、奇妙な男。


その姿には、どこか格があった。


——かと思えば、「あ」と小さく呟いて、いたずらな笑顔を向けてくる。


「で?君の性感帯はどこなんだい?私ばかり不公平だね?」


それは彼なりの、この場の収め方だったのかもしれない。

ガルドも小さく舌打ちをしたが、苛立ってはいなかった。


「……誰が答えるか、バカ野郎」


皿の上のポタージュを、無言ですくって口に運ぶ。

それを見て、ルシアンの銀の瞳が、明らかに愉しそうに揺れていた。


ふ、と一つ息をつき、スプーンを置いたガルドが、ゆっくりとルシアンのほうを見る。

その赤が、ほんの少しだけ、揺れていた。


「名前、呼ばれんのは……弱ぇ」



——ぽつりと、落とされたその一言に、ルシアンの笑みが、ふわりと柔らかく変わった。


照れを隠すように、ガルドは水をぐいと煽る。

火照ったままの耳を、夕暮れの風がそっと撫でていった。






——【取扱説明書】

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