【護衛契約】
冒険者ギルドの大扉が、重たげに軋んで開かれた。
夏の昼下がりの喧噪と、鉄、革、酒と汗の匂いに満ちたその場に、一筋の異物が差し込む。
ざわり、と空気が波打った。
「……オイ見ろよ」
「男、だよな?……いや、でも……」
「……貴族……いや商人か?」
さざめきの中心にいたのは、一人の男、ルシアン。
淡い薄紫の髪に、銀の瞳。上品な旅装。
柔和な微笑みを湛えながら、堂々とした足取りでホールを進む姿は、この場所にまるでなじまない。
そして本人は、そのざわめきなど意に介さぬ様子だった。
ただ静かに、視線をめぐらせている。
自らに集中する視線のどれとも目を合わせず、歩を進めていく。
淡紫の彼は心中でひとつ、この場を見定めていた。
(……こちらに好奇の目を向けるものは数あれど……こちらへ注ぐこの視線に耐えられる者でなくては——ダメだね)
ギルドの右奥、併設された酒場兼食堂。賑やかしいその奥、壁際、片隅。
そこに、静かに飲む一人の男がいた。
肌は日に焼け、古傷だらけ。黒髪は無造作に伸ばしっぱなし。背には幅広の大剣。
乱暴に脚を組み、片肘をつきながら、無言で酒杯を口に運ぶ。
誰も近づかない。誰も話しかけない。
その雰囲気に引き寄せられるように、ルシアンの歩みが止まる。
ただその佇まいだけを見て——足を向けた。
「こんにちは。旅の護衛をしてくれる方を、探しているんですが」
──その一言で、酒場の空気が凍った。
しかし、当の大男は、ひとつも眉を動かさない。
赤い眼が、初めてゆっくりとこちらを向いた。
重く、よどみのない、獣のような視線。
「……何だてめぇ」
低い声で言い放たれるが、ルシアンは微笑を崩さず、まっすぐにその赤を見つめ返す。
銀の瞳は、品定めをするような眼差しではなかった。
ただ、”対話するに値する”と判断した瞳。
——そのやりとりを見た冒険者たちが、一斉に息を呑んだ。
「おいおい……あいつ無哭に……」
「ていうか、話しかけた奴、今まで全滅じゃなかったか……?」
ざわめきの中、誰かが椅子を引く音すら止んだような静寂が落ちる。
重苦しい気配が、ギルドの一角を支配していた。
だが。
「……護衛、」
無哭と呼ばれた男は、酒杯をごとりとテーブルへ戻した。
赤い瞳が、真正面から銀を捉えたまま逸れない。
「……高ぇぞ、俺ァ」
一拍置いて、そう呟いた声は、明らかに“追い返す”それではなかった。
再び息を呑む気配。誰かの指が震えて音を立てた。
——無哭が、乗った。
「へ……マジかよ……」
「断らねぇのか、あいつが……」
ざわつく声が、さっきまでとは違う意味で広がっていく。
ルシアンの向かいで、男がゆっくりと脚を組み直す。
無言のまま、片肘をついた姿勢で顎を引き、言葉を待った。
「話くらいは、聞いてやる」
低く、威圧感をまとった声。
だがその一言は、確かに“受ける気がある”という意思表示だった。
そして何より、男の視線が、ルシアンのどこにも怯まない。
その存在を“異物”と断じることなく、真正面から対峙していた。
ルシアンがひとつ、ゆっくりと瞬いた。
その微細な反応を見て、男は鼻を鳴らす。
どこかから、誰かが喉をごくりと鳴らした音がした。
「ふふ、では、お話だけでも。——静かな場所で」
そう微笑み、ルシアンが小首をかしげると、目にかかる前髪がふわりと揺れた。
たったそれだけの動き一つとっても、知性と教養がにじみ出る。
周囲からの視線——、とりわけ”興味”が、より強くなる。
だが、ルシアン本人は、己に降りかかる視線をまるで気にも留めていない。
静かに、淡く笑うだけ。目の前の赤い瞳にしか興味がない。
まるで、“この場で唯一会話が通じるのは君だろう?”とでも言いたげに。
「条件、待遇、日数についても、そちらで」
その柔和な微笑を見て、赤眼の男は小さく舌打ちをした。
椅子を大きく軋ませてせて立ち上がった姿は、ルシアンから頭一つ飛びぬけてデカい。
赤い瞳が見下ろすように一瞥したのち——
静まり返る群衆の中を、ギルドの受付横にある個室に向かって歩く。
道ができるのは、人垣が勝手に割れていくからだ。
先ほどまで飛び交っていた声も、今は黙って目を逸らしている。
目が合えば噛みつく猛獣を前にしているかのようだった。
ギルドの奥、応接用の個室へと続く廊下。
足音だけが、石床に低く響いていく。
「……無哭が、応接室だってよ……」
「なんなんだあいつ……何者だ……」
声に出すには命知らずすぎる問いが、喉奥で燻る。
しかし誰一人として、その背を追う者はいなかった。
男が無言のまま扉を開け、先に中へ入る。
その直後、静かに続いたルシアンの足音。
「……座れよ」
短くそう言って、男は部屋の奥、窓際の椅子にどかりと腰を下ろした。
その動きだけで、古びた木椅子がぎしりと音を立てる。
部屋の中へ入ったルシアンは、机をはさんで、男の向かいに座った。
それだけで、部屋の空気が穏やかになるような錯覚。
——にこり。
柔和な微笑みは、やはりこの場にはそぐわなかった。
それを見た男が、あからさまに眉根を寄せる。
腕を組み、赤い瞳で真正面を見据えながら、数秒の沈黙。
「依頼の内容。道のり。報酬。それと……」
顎を軽くしゃくって、ルシアンの全身を示すように視線を落とす。
「お前が、どこまで歩けるか。どこまでの戦場を想定してるか」
それを聞かずに受ける護衛なんざ、ただの酔狂だ。
赤い瞳がそう語っていた。
けれども、滲む警戒や拒絶はなかった。
代わりにそこにあったのは、ごくわずかな——興味。
ルシアンという存在に、真剣に向き合おうとする色。
初めて目の前に現れた、“話が通じる人間”への探り。
「……話してみろ。内容次第じゃ、付き合ってやる」
その声は低く、だが静かに——確かな意志を持っていた。
「旅をするのに、案内人が必要でして。ついで護衛もできる人物ならなおよしと」
ルシアンが、懐から金貨を一枚、指先でつまみ出す。
さらりとそれが光をはじき、テーブルの上に静かに置かれる。カツリ。
「我々は初対面です。当然私のことも信用できないでしょうから、まずは試し金としてこちらを。一月務めていただければ、残りの四枚をお渡しします。翌月からは、金貨五枚でいかがでしょう」
——金貨。
この世界においてなかなかに価値のある貨幣で、庶民はあまり見ることのないものだった。
それを月に五枚、およそ五十万Gが契約金。目の前の男を雇うとするならば、適正な価格だった。
自分の実力も何も知らず、それを当然のように提示する、得体のしれない男。
ただでさえ鋭い赤い瞳が、わずかに細められた。
「条件は、私の護衛をしていただくこと。日数はあなたが私から離れるまで。待遇は今申しあげたとおりです」
微笑む銀の瞳は、一度も逸らされることがなかった。
テーブルの上、金貨が澄んだ光を放つ。
「……それがてめぇの命の値段ってことか」
低く、重い呟き。
だがその声音には皮肉はなかった。ただ、慎重に相手の意図を見極める獣の眼差し。
指先で、テーブルの金貨をひとつまみ。
重みを確かめるように手の中で転がし、また元の位置に戻す。
「雇い主が死んだら意味がねぇ。……無茶はしねぇんだな?」
頷きが、ひとつ。
問いではない。確認のような、それでいて試すような声だった。
ルシアンの微笑が変わらないのを見て、男はひとつ鼻を鳴らす。
「……っつうか、俺の顔見て、それ言えんのがまずおかしいんだよ」
椅子の背にもたれながら、がちりと腕を組む。
赤い瞳が、淡紫の髪の奥をじっと見ていた。
「普通は、初見で引く。街のガキだって泣く」
たしかに、彼の風貌とその目に、怯えなかった者など滅多にいない。
だが今、目の前の男は微笑を崩さず、わずかな身じろぎすらない。
それが逆に、その警戒心をかすかに刺激する。
「……面倒な荷物は持たねぇ主義なんだがな」
そう言って、男は指で一度、テーブルの金貨を軽く弾いた。
カツン。
その音を合図に、赤い瞳がまっすぐにルシアンを射抜く。
「……一月。付き合ってやるよ」
金貨がその武骨な手に収まったのを見て、ルシアンはやっと目を伏せた。
が、それはほんの一瞬で、すぐにまた視線を絡める。
「ありがとうございます。あなたのことは何も存じ上げませんが、人を見る目は自信があります。ですので、あなたに見限られればそれまで。契約金は全て支払い、追いません」
涼しげな、距離。——あと腐れのない提示だった。
その涼しげな態度のまま、胸元に手を添え、またも首を傾げ、微笑む。
「ルシアンと申します。どうぞよろしくお願いしますね」
たったそれだけの動作で、耐性のない者を数人転がすような魅力。
これは、——単に魔獣から護衛すればいい、というわけでもなさそうだった。
「……チッ、めんどくせぇ」
盛大な舌打ちが一つ。
だがそれは、苛立ちというより、呆れに近い音だった。
このルシアンとやらの提示は、潔い。だがあまりに隙がない。
突き放しているようで、きちんと懐へ誘っている。
試すでもなく、媚びるでもなく、ただ“己の価値”だけで立つ男。
目の前の銀の瞳を見て、思う。
——こいつ、自分がどれだけ“目を引くか”分かってやがる。
あの笑みは、武器だ。
中性的な柔和さを装ってはいるが、真正面から“値踏みされる側”に立った者が、まともでいられる保証はない。
「……ガルドだ。好きに呼べ」
名乗ったのは、興味を抱いた証。
そうでもしなけりゃ、この銀の瞳はいつまでも自分を値踏みしてくるだろうと思ったからだ。
「契約は一月。……それ以上は、そんとき次第だ」
そして、席を立つ。
応接室の扉へと向かいながら、一度だけ背中越しに振り返る。
「……出発は、いつだ」
返答を待つわけでもなく、扉を開けて出ていく。
この空間に、ようやく契約が結ばれた空気が満ちていた。
部屋を出てきた二人に、ギルド内部が静寂に満たされた。
その異質な二人は、目線も合わせず、言葉も交わす様子はない。
けれど間違いなく、連れ立っていた。
ギルドの大扉を出れば、夏。昼過ぎの街の陽気。
明るい日差しのもと、大きく影を落とす男が、肩越しにルシアンを振り返る。
——出発は。
その問いに、ルシアンは少し視線を横にずらしていた。
今考えています、といった表情。
恐らく、最終的な目的地があるわけではないのだろう。
「そうですね、そちらに予定がなければ、明日の朝には街を発ちましょう。道中、美しい場所や不思議な場所があれば、ぜひ立ち寄りたい」
「……ああ?」
聞き間違えたか、というその表情に、ルシアンは柔和な笑みを浮かべた。
一歩ガルドに近寄る。斜め後ろ、手を伸ばせば届く距離。ガルドは目の端で、その姿を捕らえ続けていた。
「私の旅の目的です。美しい景色や不思議な場所をたくさん見たい」
「……酔狂な……」
「ええ。もしそこに魔獣がいれば、あなたの出番です。私は魔術師ですが、攻撃魔法は使いません。……その代わり」
ガルドの肩へ伸ばされた手。その指先が、静かに肩に触れた。
ぞわりと薄い膜が身体を包む感覚。覆われ、研ぎ澄まされる身体。
「このような防御魔法が使えます。あなたに怪我をされては旅に差し支えますので」
「っ……」
硬い肩が、わずかに揺れた。
魔力に対する知識は持たずとも、肌に感じたその感触は明らかに“異質”だった。
瞬時に張り巡らされる薄膜。鋼鉄とは異なる、しなやかでありながら確かな防壁。
目に見えぬはずの力が、感覚だけで全身を覆っていく。
「……魔術師、か」
肩に残る温もりを振り払うように、ガルドは片眉を上げる。
だが、その赤い瞳に宿るのは不快ではなく、純粋な疑念と、そしてわずかな感嘆だった。
「……たかが護衛に、随分と好待遇だな」
「ふふ」
皮肉のように吐き捨てつつも、その声にとげはない。
ルシアンが自然体である限り、こちらも無理に踏み込む理由はなかった。
「攻撃魔法は”使わねぇ”。……了解」
歩き出す足が、街路を踏みしめる。続くように、すぐ後ろを歩む細い足音。
その一言は、詰問ではなく——静かな観察。ルシアンは、何も答えない。
この魔術師が、どんな背景を持っているのかなど、ガルドも今はどうでもよかった。
「だがまぁ……悪くねぇ」
赤い瞳が、前を向いたまま細く笑う。
昼下がりの陽射しのなか、路地を歩む異質な二人の影が、濃く重なっていった。
——【護衛契約】




