4話
どれくらい眠ったのだろうか。
俺の意識がゆっくりと浮上した時、最初に感じたのは、誰かに蹴り起こされる衝撃でも、罵声でもなく、ただ穏やかな静寂だった。
薄目を開けると、天井の光ゴケが放つ優しい青白い光が視界に入る。ひんやりと、しかし清浄な空気が肺を満たし、体の底から生命力が湧き上がってくるような感覚があった。
「……朝、か」
誰に聞かせるでもなく呟く。
もちろん、ここはダンジョンの中だ。本当の朝日は昇らない。だが、俺にとっては、これが紛れもない新しい人生の「朝」だった。
体を起こすと、グレンに殴られた脇腹の痛みが、昨日よりもずっと和らいでいることに気づく。深い眠りと、ストレスから解放された精神が、これほどまでに体を癒してくれるとは知らなかった。
喉の渇きを覚え、昨日創り出した泉に近づく。壁の岩盤からこんこんと湧き出る清水を両手ですくい、口に含んだ。不純物の一切ない、澄み切った命の水。パーティーにいた頃、重い水樽を運ばされ、一番最後に泥の混じった水を飲んでいたのが、まるで遠い昔の悪夢のようだ。
「さて……」
生きている。安全だ。
その事実を噛み締めると、次にやってきたのは、生物としての根源的な欲求だった。
(腹が、減った……)
パーティーを追放されてから、まともな食事は口にしていない。水だけでは、いずれ力尽きてしまう。
食料の確保。それが、この新しい世界で生きるための最初の課題だった。
俺は目を閉じ、意識を集中させる。覚醒した《ダンジョン・マスター》の権能は、俺の五感をこのダンジョンそのものと一体化させていた。
神経を研ぎ澄ますと、周囲の構造が、まるで自分の体の一部のように感じ取れる。岩盤の硬度、鉱脈の分布、水脈の流れ、そして――生命の気配。
この部屋の周囲には、ゴブリンやジャイアント・センチピードといった魔物の気配が点在している。だが、今の俺は戦いたくない。もっと安全で、確実な食料が欲しい。
意識をさらに広げ、深く、ダンジョンの隅々へと感覚を伸ばしていく。
すると、あった。
この部屋から壁を隔てて50メートルほど離れた場所に、微弱ながらも、清浄な魔力を放つ生命反応の群生地を見つけた。それは、天井から壁にかけてびっしりと生えている、苔の一種だった。
「これなら……!」
俺は、その群生地の真下の空間に意識を向けた。
(――繋がれ)
俺の意思に応じ、足元の床がごぽりと音を立てて陥没し、緩やかな下り階段へと姿を変える。俺が創り出した階段は、まるで俺を導くかのように、一直線にその群生地へと繋がっていた。
階段を下りきると、そこは広大な空洞だった。そして、その天井一面に、俺が探し求めていたものが、星空のように輝いていた。
「月光ゴケ……」
それは、自ら淡い光を放つだけでなく、清浄な魔力を含み、食用にもなる非常に珍しい苔だった。栄養価も高く、これだけで数週間は生き延びられると言われている。パーティーにいた頃、賢者ドルストが「希少な錬金術の材料になる」と話しているのを、聞きかじったことがあった。
俺は壁を伝って天井に近づき、恐る恐るその一部を採取して口に運ぶ。
シャキリ、とした心地よい歯ごたえと共に、瑞々しく、ほんのり甘い味が口の中に広がった。
「美味い……!」
残飯や泥水とは比べ物にならない、本物の「食事」。
涙が出そうになるのを堪えながら、俺は夢中で月光ゴケを食べた。満腹になるという感覚を、一体いつぶりに味わっただろうか。
食料を確保し、俺は自分の部屋へと戻った。
これで、当面の生活基盤は整った。水も、光も、食料もある。安全な寝床もある。
だが、俺は満足しなかった。
ここは、ただの隠れ家じゃない。俺の「楽園」になる場所だ。もっと快適で、もっと機能的な空間にしたい。
溢れ出る創造意欲に突き動かされ、俺は「楽園創造計画」の第一歩を踏み出した。
まずは、この殺風景な石の部屋の内装からだ。
「ベッドは、もっと柔らかく」
俺がそう念じると、今までただの石の台座だった寝床が、まるで高級なマットレスのように、体圧を吸収する絶妙な弾力を持つ岩へと変質した。表面は、人肌のように滑らかになっている。
「テーブルと、椅子も欲しいな」
床の一部が盛り上がり、あっという間に、一人がけのテーブルと椅子が形成される。寸分の狂いもない、完璧なデザインだ。
「道具を置くための、棚も」
壁の一部が、階段状にくり抜かれ、機能的な収納棚が出来上がる。
まるで粘土をこねるように、世界が俺の意のままに姿を変えていく。
この感覚は、麻薬的なほどに楽しい。
今まで何も生み出せず、ただ奪われ、虐げられてきた俺が、今、この手で世界を創造しているのだ。
内装を整え、次なる目標は、この拠点の拡張だ。
いつまでも、この六畳一間の部屋にいるわけにはいかない。
「まずは、作業場……鍛冶場が欲しい。いずれは、ここで武具や道具を作りたい」
俺は、自分の部屋の隣に、新たな空間を創り出すことにした。
壁に手を当て、強くイメージを固める。
ゴゴゴゴゴ……!
ダンジョンが再び、歓喜の産声を上げる。壁の向こう側で、巨大な空洞が形成されていく。頑丈な岩盤でできた作業台、炉となる窪み、そして、換気のための巧妙な通気口まで。全てが俺の思考通りに、完璧に配置されていく。
さらに、俺はダンジョンと繋がった感覚を使い、資源の探査を始めた。
鉄鉱石の鉱脈は、すでに見つけてある。それだけじゃない。もっと深く、もっと貴重なものを……。
あった。
この拠点のさらに地下深く、強固な岩盤層に守られるようにして眠る、清らかな魔力の奔流。
「ミスリル……! それも、かなりの高純度の鉱脈だ!」
伝説級の金属。これさえあれば、そこらの聖剣にも匹敵するような武具が作れるかもしれない。
俺は歓喜に震えた。
ガイオンが持っていた聖剣。レオノーラが羽織っていた祝福のローブ。ドルストが読んでいた古代の魔導書。
彼らが持っていたどんな宝物よりも、俺が今手に入れたこの「鉱脈」の方が、よほど価値がある。
水、食料、安全な拠点、そして無限の資源。
すべてが、この手の中にあった。
俺は、新しく創り出した広大な作業場で、大の字に寝転がった。
ひんやりとした岩の感触が心地よい。
(これから、どうしようか)
計画は無限に広がっていた。
月光ゴケを栽培する農場を創ろう。ミスリルを精錬するための、超高温の炉も必要だ。生活空間も、もっと広く、快適にしたい。いっそのこと、温泉でも掘り当ててみるか?
考えているだけで、笑みがこぼれる。
ここは、誰にも邪魔されない、俺だけの王国。
俺がルールであり、俺が創造主だ。
その時、だった。
ダンジョンの隅々まで広げていた俺の感覚が、今まで感じたことのない、異質な反応を捉えた。
それは、魔物の気配とは明らかに違う。かといって、岩や鉱石のような無機物でもない。
か細く、弱々しいが、確かにそこにある「生命」の気配。
そして、それはゴブリンやセンチピードのような、汚れた魔力とは全く異質の、清浄で、どこか神聖さすら感じさせる魔力を帯びていた。
場所は、ダンジョンの中層、俺が追放された場所からさらに奥に進んだ、忘れられた古い祭壇のような場所。
その生命反応は、まるで風前の灯火のように、今にも消えかけている。
(なんだ……? 魔物じゃない……まさか、人間か?)
いや、人間にしては、魔力の質が違いすぎる。
好奇心と、そして、ほんの少しの使命感が、俺の心を突き動かした。
この楽園の主として、自分の領地で起こっている異常を、見過ごすわけにはいかない。
俺はゆっくりと立ち上がると、その気配がする方角の壁に向かって、手をかざした。
新しい道が、俺の目の前に創り出されていく。
その道の先に何が待っているのか、まだ俺は知らない。
ただ、それが、この孤独な楽園に、最初の「住人」を招き入れることになる出会いであることを、まだ知る由もなかった。




