3話
世界が、止まっていた。
俺のすぐ眼前で、エンシェント・ゴーレムの巨大な拳が静止している。その拳から放たれる圧倒的な圧力が、死そのものの匂いをさせて肌を粟立たせる。
だが、俺はもう恐怖に震えてはいなかった。
腹の底から湧き上がった、生への渇望と、理不尽への怒り。その激情が引き金となり、俺の中で眠っていた何かが、ついにその牙を剥いたのだ。
(――動け)
それは命令だった。
誰にともなく、しかし、絶対的な確信を持って、俺は心の中で命じた。
(俺の意のままに、動け!)
その瞬間、俺が手をついていたダンジョンの床が、明確な意思を持って応えた。
ゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!
地響きが、洞窟全体を揺るがす。それは、単なる地震ではなかった。このダンジョンそのものが、巨大な生命体のように脈打ち、俺の命令を実行しているのだ。
スローモーションだった世界が、再び動き出す。
だが、ゴーレムの拳が俺に届くよりも速く、俺とゴーレムの間にあったはずの強固な岩盤が、まるで水面のように波打ち、そして――裂けた。
「なっ……!?」
裂け目は一瞬で巨大な亀裂となり、深淵のような黒い口を開ける。エンシェント・ゴーレムは、その強大な質量を支えるべき足場を失い、バランスを崩した。
ギギギギギギッ!?
無機質な魔物から、明らかに狼狽の色を含んだ軋み音が響く。
だが、もう遅い。
俺の意思は、さらに深く、さらに強く、ダンジョンに命令を下す。
(――呑み込め)
亀裂は底なしの落とし穴へと姿を変え、エンシェント・ゴーレムの巨体を、まるで蟻地獄が獲物を引きずり込むかのように、容赦なく飲み込んでいく。ゴーレムは断末魔の叫びを上げながら、その手を必死に地上へと伸ばすが、ダンジョンの顎はそれを許さない。
そして、俺が最後の命令を下す。
(――閉じろ)
ゴウッ、と地獄の釜の蓋が閉じるような重々しい音を立てて、開いた落とし穴は完全に塞がった。まるで、最初から何もなかったかのように。
後には、完璧に平坦な石の床と、呆然と立ち尽くす俺だけが残されていた。
あの絶対的な絶望の象徴だったエンシェント・ゴーレムは、ダンジョンの奥深くへと、永遠に葬り去られたのだ。
「…………は……ぁ……」
極度の緊張から解放され、俺はその場にへたり込んだ。荒い呼吸を繰り返しながら、自分の掌を見つめる。この手に、こんな力があったというのか。
その時、脳内に直接、声ではない「情報」が洪水のように流れ込んできた。
『スキル【土いじり】は偽名。真名【地形操作】』
『主の強い意志に応え、固有スキル《ダンジョン・マスター》として覚醒』
『《ダンジョン・マスター》:ダンジョン内の地形、資源、魔素を支配し、創造・変質・破壊を可能とする唯一無二の権能』
『称号【絶望の迷宮の主】を獲得。当ダンジョン内において、絶対的な支配権を有する』
「……ダンジョン・マスター……」
呟いた言葉が、現実感を伴って体に染み込んでいく。
俺は無能なんかじゃなかった。ドルストの鑑定眼が節穴だっただけだ。俺のスキルはあまりに規格外すぎて、彼のちっぽけな知識では【土いじり】という最低ランクのスキルにしか見えなかったに過ぎない。
俺を虐げ、捨てた連中への怒りが再び込み上げてくる。だが、それ以上に、生き延びたという安堵と、手に入れたこのとんでもない力への高揚感が勝っていた。
ガサガサ……。
不意に、ガイオンたちが逃げていった脇道の方から、魔物の気配がした。おそらく、先ほどの地響きを聞きつけて、何かが様子を窺いに来たのだろう。
今の俺は負傷し、疲弊しきっている。これ以上、戦う体力はない。
(安全な場所が、必要だ……)
そう思った瞬間、スキルの使い方が、まるで呼吸をするかのように自然に理解できた。
俺は、目の前の壁に手を当てる。
(塞げ)
壁が意思を持って蠢き、脇道への入り口を完全に塞いでしまった。これで、追ってくる者はいない。
(そして、創れ。俺だけの聖域を)
俺が手をついている壁が、再び粘土のように柔らかくなる。俺は自らの手で、その壁を押し広げ、人が一人入れるだけの空間を抉り出した。中に入ると、入り口は独りでに閉じて、外の世界から完全に隔絶される。
真っ暗で、狭い空間。
だが、そこはガイオンたちに虐げられていたパーティーの野営地よりも、何万倍も安全で、心安らぐ場所だった。
「……まずは、光を」
天井に向かって手をかざす。ダンジョン内に満ちる魔素に干渉し、光を放つ性質を持つ苔を生成するイメージを描く。すると、天井の岩盤が淡い光を帯び始め、やがて柔らかな月光のような光が、俺だけの空間を優しく照らし出した。
「す……ごい……」
次に、癒しが必要だ。グレンに殴られた脇腹がまだ痛む。そして、喉が焼けつくように乾いている。
「水……きれいな、水が欲しい」
壁の一点に意識を集中させると、岩の隙間から、ぽたり、ぽたりと清らかな水が染み出し始めた。俺は両手でそれを受け、夢中で喉を潤す。体に染み渡る命の水は、聖女レオノーラが使う下級回復魔法よりも、ずっと俺の心と体を癒してくれた。
この力があれば、もう飢えることも、危険に怯えることもない。
このダンジョンそのものが、俺の体の一部であり、俺だけの王国なのだ。
俺は、新しく作った自分だけの部屋で、ゆっくりと横になった。硬い石の床のはずなのに、不思議と体は痛まない。俺の意思に応じて、床が体圧を分散する最適な硬さに調整されているからだ。
疲労困憊の体は、すぐに深い眠りを求めてきた。
意識が遠のく中、俺は決意する。
もう、誰にも虐げられない。誰の顔色も窺わない。
この力を使い、この『絶望の迷宮』を、世界で一番安全で、快適な、俺だけの楽園に変えてみせる。
美しく、豊かで、優しい仲間たちだけがいる、理想郷をこの手で創り上げるのだ。
そして、いつか――。
俺を捨てたあの勇者パーティーが、ボロボロになってこの場所に助けを求めに来た時。
その時に、最高の笑顔で言ってやるんだ。
「――もう遅い」と。
ユキナ・アークライトという、惨めで無力な雑用係は、今日、あのゴーレムと共に死んだ。
このダンジョンで産声を上げたのは、新たな主。
その名は、まだ、俺だけが知っている。




