10話
俺たちの楽園に最初の緑が芽吹いてから、数日が過ぎた。
あの時、シルフィの歌声に応えるように芽を出した双葉は、まるで奇跡そのものだった。そして、その奇跡は今もなお、俺たちの目の前で繰り広げられている。
「ユキナ、見てください! 『太陽豆』の蔓が、もうこんなに伸びています!」
朝の菜園で、シルフィが弾むような声を上げた。
彼女が指さす先では、数日前に芽吹いたばかりのはずの豆の苗が、すでに力強い蔓を伸ばし、俺が支柱代わりに創った岩の棒に絡みつこうとしている。その成長速度は、常識では考えられないほど速かった。
「本当だ、すごいな……。こっちの『月光草』の葉も、もう手のひらくらいの大きさになってる」
俺たちの菜園の作物は、このダンジョンの豊かな魔力と、生命力に満ちた黒土、そして天井から降り注ぐ太陽光に近い光を浴びて、驚異的なスピードで成長していた。まるで、失われた時間を取り戻すかのように、生命が歓喜の声を上げている。
シルフィは、毎日飽きることなく、慈しむように植物たちの世話をしていた。彼女が優しい声で語りかけながら葉についた雫を拭うと、植物たちは応えるように生き生きと輝きを増すように見える。それは、ただの気のせいではないのだろう。エルフ族は、植物と心を通わせる力を持つという。彼女の愛情が、この奇跡的な成長をさらに促しているのかもしれなかった。
「ふふ、この子たちはとても素直です。ユキナが創り出してくれた、この素晴らしい大地と光が、とても心地よいと喜んでいますよ」
そう言って微笑むシルフィの横顔は、まるで花の精霊のように美しかった。
彼女の故郷の種から芽吹いた植物は、俺たちの食生活を豊かにしてくれるだけでなく、この無機質なダンジョンの一角を、温かい生命力に満ちた本当の『家』へと変えてくれていた。
収穫したばかりの瑞々しい葉野菜と香りの良いハーブを使ったスープで昼食を終えた後、俺はふと思った。
畑仕事でかいた汗を、いつもは泉の水で拭うだけ。それはそれでさっぱりするが、やはり心の底からリラックスできるわけではない。パーティーにいた頃は、水浴びすら贅沢だった。泥まみれになっても、川で体を洗うことを許されず、雨の日を待つしかなかったことすらある。
(風呂が……欲しいな)
体を芯から温めて、一日の疲れを洗い流せるような、そんな場所が。
「なあ、シルフィ」
俺は、食後のお茶を淹れてくれている彼女に、思いついた提案を切り出してみた。
「この拠点に、お風呂を創ろうと思うんだ。温かいお湯に、ゆっくり浸かれるような場所を」
「お風呂……ですか?」
シルフィは、きょとんとした顔で俺を見た。エルフの文化に、人間のような入浴の習慣があるのかは分からない。だが、彼女の緑の瞳は、すぐに好奇心の色でキラキラと輝き始めた。
「温かい、お湯……。森にいた頃は、地熱で温められた泉で体を清めることがありましたが、それとは違うのですか?」
「ああ、もっとこう、人が入れるように湯船を創って、好きな時に入れるようにするんだ。きっと、気持ちいいと思うぞ」
「まあ……! 素敵です! ぜひ、見てみたいです!」
俺の提案に、彼女は子供のようにはしゃいだ。その純粋な反応が、俺の創造意欲をさらに掻き立てる。
よし、決まりだ。どうせ創るなら、ただの湯船じゃない。世界最高の、癒しの空間を創り上げてやろう。
俺たちは、菜園のさらに奥、拠点の中でも特に岩盤が安定している区画へと移動した。
ここなら、大規模な空間を創っても、リビングやシルフィの部屋に影響はないだろう。
俺は壁に両手を当て、目を閉じて、完成形のイメージを脳裏に描く。
(広々とした空間。湯船は、大人二人が足を伸ばしても余裕があるくらいの大きさ。床は滑りにくい岩肌に変質させて、壁には湯気抜きのための巧妙な通気口を。そして、お湯は……ただのお湯じゃつまらない)
俺は意識を地下深くへと潜行させた。このダンジョンの地下には、かつて発見した高純度のミスリル鉱脈が眠っている。そのさらに深部では、膨大な魔力が地熱エネルギーへと変換され、マグマのように煮えたぎっていた。
この熱を利用しない手はない。
(地熱で温められた地下水を、癒しと美容に効果のある鉱石の層を通過させて、湯船に引き込む。泉質は、少しとろみがあって、肌がすべすべになるような……そう、『美肌の湯』だ)
具体的なイメージが固まると、俺はダンジョンに命令を下した。
「――創造開始!」
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
今までで一番大きな地響きと共に、俺の目の前の壁が、まるで巨大な門が開くかのように左右に分かれていく。その奥では、俺の設計図通りに、寸分の狂いもなく、新たな空間がリアルタイムで構築されていった。
床の岩盤は、濡れても足が滑らないよう、表面に微細な凹凸を持つザラザラとした質感に変わり、壁は、湿気を吸収し、ほんのりと木の香りがするように、特殊な鉱石を含む岩へと変質する。天井には、湯気を逃がすための換気口が自然な形で穿たれ、そこから差し込む光ゴケの光が、まるで間接照明のように空間を柔らかく照らした。
そして、空間の中央。
磨き上げられた黒曜石のような、滑らかな曲線を描く巨大な湯船が、地面からせり上がるようにして姿を現す。
「わ……!」
シルフィが、感嘆の声を漏らした。
だが、まだ完成ではない。
俺は、湯船の底の一点に意識を集中させ、地下深くの熱水脈へと繋がるパイプラインを、岩盤を貫いて創造する。
「――来たれ、癒しの源泉!」
俺がそう呟くと、湯船の中央から、ごぽっ、と気泡が一つ浮かび上がった。
そして次の瞬間、透き通った、しかし明らかにただの水とは違う、わずかにとろみのある温かいお湯が、音を立てて湯船へと注がれ始めた。湯気と共に、硫黄と、どこか甘い花の蜜のような香りが、浴室全体に満ちていく。
数分後、湯船は極上の温泉で満たされ、その湯面はきらきらと光を反射して、俺たちを誘っていた。
俺が創り上げた、二人だけの温泉。その完成度は、我ながら完璧だと言ってよかった。
「ユキナ……これは、魔法、なのですか……?」
シルフィは、目の前で起こった天地創造を目の当たりにして、信じられないといった表情で俺を見つめていた。
「俺のスキルは、ちょっとだけ特別でね。さあ、せっかくだから、先に君が使ってみてくれ」
俺がそう言うと、シルフィは頬をぽっと赤らめた。
「えっ、で、でも……ユキナが創ってくれたのに……」
「いいんだよ。俺は、この浴室にもう少し手を入れたいから。脱衣所とか、タオルを置く棚とかも必要だろ?」
俺がそう言って浴室の入り口付近の壁を指すと、彼女は納得したように、しかしどこか恥ずかしそうにこくりと頷いた。
シルフィが脱衣所代わりの空間へと姿を消した後、俺は一人、湯気の立つ湯船を眺めた。
(風呂……か)
かつての記憶が、不意に蘇る。
勇者パーティーにいた頃、俺はメンバーが使い終わった後の、汚れた行 águaを浴びることしか許されなかった。冬の凍えるような日ですら、それは変わらない。戦士グレンは、面白がって、俺が水を浴びている最中に泥を投げつけてきたことすらあった。
あの頃の俺は、体の芯まで温まるという感覚を、完全に忘れていた。いや、生まれてから一度も、経験したことがなかったのかもしれない。
だが、今はどうだ。
目の前には、世界で一番贅沢な温泉が広がっている。
俺だけの、そして、俺が守りたいと思った大切な仲間と分かち合うための、癒しの空間が。
込み上げてくる感情は、復讐心のような黒いものではなかった。
ただ、ひたすらに温かい、感謝にも似た気持ち。
シルフィがここに来てくれたから、俺は誰かのために力を使いたいと思えた。彼女の笑顔が見たいから、もっとこの楽園を素晴らしい場所にしたいと願えた。
俺は、シルフィが出てくるのを待ってから、入れ替わりで湯船へと足を踏み入れた。
足先から伝わってくる、極上の熱。全身を沈めると、「はぁ……」と、心の底から安堵のため息が漏れた。
とろりとした湯が、肌を優しく包み込む。体の疲れが、そして、心の奥底にこびりついていた過去の傷跡までもが、ゆっくりと溶けていくようだった。
俺は、天井の柔らかな光を見上げながら、この幸せを噛みしめていた。
もう、あの惨めな日々に戻ることはない。俺には、この楽園と、シルフィという、かけがえのない宝物ができたのだから。
この平穏が、永遠に続けばいい。
そう、願った、その時だった。
ピリッ、と。
まるで空間に静電気が走ったかのような、微弱な違和感。
それは、このダンジョンと一体化している俺の感覚だけが捉えた、極めて些細なノイズだった。
(……なんだ?)
俺は温泉の中で意識を集中させ、感覚をダンジョン全体へと広げる。
拠点周辺は、いつも通り穏やかだ。魔物の動きにも異常はない。
だが、もっと遠く。
ずっとずっと離れた、ダンジョンの入り口付近。
そこに、ほんのわずかだが、確かに覚えのある魔力の残滓を感じ取った。
それは、ひどく不快で、思い出したくもない記憶と結びついた魔力。
(この感じ……聖女レオノーラの、聖属性魔法……? いや、それだけじゃない……勇者ガイオンの、聖剣の気配も混じっている……?)
なぜ、あいつらが、今さらこの『絶望の迷宮』に?
俺を捨てた場所に戻ってきて、一体何の用だというんだ。
残滓はごくわずかで、すでに立ち去った後のようだった。だが、彼らが再びこのダンジョンに足を踏み入れたという事実は、鉛のように重く俺の心にのしかかる。
せっかく手に入れた、穏やかな時間。
それを乱す、遠き日の残響。
俺は、湯船の中で強く拳を握りしめた。
まだ、俺の戦いは終わっていないのかもしれない。
だが、もう俺は一人ではない。そして、無力な雑用係でもない。
もし、あいつらが再び俺たちの楽園を脅かすというのなら――。
このダンジョンの主として、今度こそ、本当の絶望を教えてやる。
俺は、静かに、しかし固く、そう誓った。
癒しの湯の向こう側で、物語は新たな局面へと、静かに舵を切ろうとしていた。




