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賊徒襲来! その名は刀伊  作者: 江戸紫蘭
最終章 夫婦剣は永遠に
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最終章 夫婦剣は永遠に

最終章 夫婦剣は永遠に


 諸近は、崔忠臣と共に船に乗っていた。

 諸近の希望で、諸近を助けた漁師の家に礼を言うためだった。本来は将軍の崔忠臣が付き添う必要もないのだが、崔が自ら案内役を買って出た。

 初夏の陽差しが暖かかった。先日の嵐が嘘のように穏やかな午後だった。だが、天候とは裏腹に、諸近の心はどんよりとしていた。母と妻の死を未だに受け入れられずにいた。気がついたら黙って海を見つめていた。ふと、傍らを見ると崔忠臣が気を遣ったのか、離れた場所に座っていた。

 諸近は崔忠臣に声をかけた。

「将軍! 先程のそれがしの言葉、軍使様は気を悪くなされたでしょうか?」

 崔忠臣は諸近を見て、フフンと鼻で笑って見せた。

「気にするな。あの方は、少し異常なのだ」

 諸近には異常の意味がわからなかった。崔忠臣が気付いて補足した。

「今から十年ほど前、遼が開京に攻め入った折り、あの方の一族が契丹人に皆殺しにされたのだ。それ以来、契丹人や女真人を見ると、復讐せずにおられぬのだ」

「それでは、やはり怒らせたかも知れませぬな」

「いや、あの方もお主の言葉に何やら感じ入るものがあったと思うておる。だから、あのような不機嫌な態度を取ったのだ」

「そのようなものでしょうか?」

 崔忠臣は頷いた後、諸近の抱えている『干将』を見た。

「それより、お主の剣は素晴らしいのう。それがしも武将、良い剣は、一目(ひとめ)でわかる」

 諸近は懐にある『干将』に目を落とした。

「祖父の代から我が家に伝わる宝剣でござります」

「見たところ中原の剣のようだが」

「宋國の剣客から祖父が譲り受けたと聞いておりまする」

「今一度、見せてはくれぬか?」

 諸近は、頷くと、鞘ごと崔忠臣に手渡した。崔忠臣は左手に鞘を持つと、右手で抜き放った。

『干将』の剣身が露わになった。崔忠臣は、剣身を舐めるように見渡した。

「素晴らしい。この僅かに青みがかった剣身は、見る者の心を虜にするようだ……」

「しかし、今となっては、その剣の価値も半分なのです」

 崔忠臣は怪訝な顔で諸近を見た。

「どういう意味だ?」

「その剣は、もう一対の短剣と揃ったときに、本当の美しさを見せるのです」

「その短剣とは?」

 諸近は、答えようとして詰まった。込み上げて来るものを抑えきれなかった。涙が零れそうなのを、海に視線を移してやっと落ち着いた。

「……妻が……」

 それだけ言うのが精一杯だった。

「そうであったか……」

 崔忠臣は、済まなそうな表情を浮かべた。

「余計なことを思い出させてしまったようだな」

「いえ、いいのです。いずれは母や妻の死を受け入れなければならないのですから……」

 その言葉は、自分に言い聞かせるためのものだった。

「無理をせずとも良いのだぞ」

 諸近は崔忠臣の心遣いに感謝した。崔忠臣には『夫婦剣』がどんな剣であるかを聞いて欲しいと思った。

「その剣と、妻が持っていた短剣は、お互いに見えない糸で引かれ合っておったのです」

 崔忠臣は無言で剣身を見詰めた。

「それ故、二振りで『夫婦剣』と申しておりました。二振りの剣が揃うと、剣身が僅かに光るのです。長剣は青白く、短剣は仄赤く」

「ほう、これが光るのか……。見たかったのう」

 崔忠臣は、『干将』の剣身に目を落とした。

 諸近も、もう一度見たかった。だが、『莫耶』は海の底に沈んでしまっており、二度と見ることもできなかった。諸近は悲しげに崔忠臣の手にある『干将』の剣身を見詰めていた。コツンと音がして、軽く衝撃があった。

「おお、着いたようだな」

 崔忠臣は、『干将』を鞘に納めて諸近に返した。

「せめて、この剣だけでも大切にしなければならぬな」

 崔忠臣の言葉に、諸近は確りと頷いた。

 漁村は、蔚州(うつしゅう)東莱(とうらい)県の富山(ふざん)()(現在の釜山)にあった。そこから一町ほど歩いたところに、漁師の家はあった。崔忠臣は、到着すると扉を開けて中を覗いた。

「誰かおるか?」

 崔忠臣の言葉に返事はなかった。

「留守のようだな。どうする?」

「では、帰って来られるまで待っております」

 背後から「将軍……」という女性の声が聞こえた。諸近が振り返ると、中年の女性が手に籠を持って立っていた。

「山に山菜を取りに出かけていたんです」

 女性は、諸近の顔を見てハッと顔色を変えた。

「あなたは……」

 崔忠臣が微笑みながら応えた。

「そうだ。先日、お前の旦那が助けた男だ」

 女性は諸近の顔を見上げて笑顔になった。

「お元気になったのですね。良かった」

 諸近は頭を下げた。

「旦那は?」

 崔忠臣は夫人に聞いた。

「今、漁に出ております。もうじき帰ると思いますが……」

「この男がな、お前たち夫婦に礼が言いたいと申すのでな」

「お礼だなんて……死にそうな人を見つければ、誰でも同じことをしますわ。ま、ここで立ち話もなんだから、中にお入ンなさい」

 女性は、扉を開けて中に入っていく。諸近と崔忠臣も、後に続いた。

 夫人に勧められるままに床に座ると、諸近はこれまでの経緯を話した。女性は諸近の話を聞きながら涙した。

「奥さんは、きっと、いつまでもあなたと一緒よ」

 女性は涙を拭きつつ、諸近に言葉をかけた。月並みな言葉ではあったが、諸近はなぜか救われた気がした。

 諸近の背後にいた崔忠臣が驚きの声を上げた。諸近は振り返った。

「どうしました?」

「剣が……剣が光っておる」

 崔忠臣は、抜き身の『干将』を諸近の前に突き出した。崔忠臣は、諸近が女性と話している間、『干将』を鞘から抜いて、その剣身を見詰めていた。すると突然、青白く光ったのだという。

 剣身は確かに光っていた。これまでに『干将』が単独で光ったことはなかった。それなのに、どうして光ったのだろうか? いったい何が起こったというのだろうか?

 そのとき、表から声が聞こえた。

「おう、帰ったぞ」

 扉が開いて、髭面の潮焼けした顔の中年男が顔を覗かせた。

「あんた」

 男は、客が来ていたことに驚いた。それが、先日に訪ねてきた将軍だと気付くのに時間はかからなかった。

「これは将軍様、どうされたのですか?」

「この者が、お前に礼が言いたいと申すのでな。連れて参ったのだ」

 崔忠臣は、諸近を目顔で示して伝えた。諸近は、頭を下げた。

「先日は、ありがとうござりました。あなたのお蔭で、こうやって生きておりまする」

 男は、心から喜んでいるようだった。

「いやぁ、元気になって良かった。本当に良かった。そうだ、今日はびっくりするぐらいの大物を仕留めたので、お祝いに、将軍たちにも振る舞ってやりましょう」

「それは楽しみだな。ちと腹も空いてきた」

 崔忠臣は腹部を押さえて見せた。

「将軍。見て下さい。大物なんで表に置いてあります」

 男は外に出て行った。崔忠臣も、諸近も後に続いた。表には、十尺はあろうかという大きな魚が横たわっていた。

 海に囲まれた対馬で生まれ育った諸近でもこれほど見事な魚は見たことがなかった。

「どうです。大物でしょう。さっそく、カミさんに捌かせますから」

 男は笑顔で崔忠臣に言った。

「おう、楽しみだのう」崔忠臣は舌舐めずりした。

 諸近は、その魚を見て〈おや?〉と思った。腹部が薄赤く光ったような気がしたのだ。急いで家に戻った。崔忠臣は怪訝な表情で諸近に声をかけた。

「どうしたのだ?」

 諸近は、抜き身の『干将』を持って来た。『干将』は先程よりハッキリと光を発していた。何かに共鳴するかのように、かすかな音まで発していた。

 諸近は、『干将』を魚の腹に近付けてみる。すると、更に輝きは増し、音もハッキリと聞こえる迄になった。更に魚の腹部迄が薄赤く光っていた。諸近は、魚の腹部の光を暫く見詰めた後、崔忠臣を振り返った。中に何が入っているのか確信はあった。それを崔忠臣に確認したかった。

 崔忠臣も確信したようで、大きく頷いた。

「早く腹を裂いてみよ」

 諸近は、力強く頷くと、『干将』で魚の腹を裂いた。血と共に臓物がはみ出してきた。諸近は、魚の腹部に両手を突っ込むと探った。暫く腹部の中を探っていると、何か固いものが手に当たった。掴むと、ゆっくりと外に出した。

 諸近の両手の上には、短剣が載っていた。その短剣は共鳴音と共に薄赤く光っていた。

 まさしく『莫耶』だった。『莫耶』が諸近の許に戻ってきたのだ。

 どのような経路で『莫耶』が魚の腹に入ったかはわからなかった。いや、そんなことはどうでもよかった。諸近にとっては、綾女の魂が諸近を慕って会いに来たとしか考えられなかった。『莫耶』は綾女そのものだったからだ。

 諸近は『莫耶』を抱きしめた。綾女の温もりはなかったが、確かな綾女の愛情が感じられた。涙が止めどなく溢れてきた。もう堪えることなど、できなかった。

 ——綾女はここにおる。俺の許に帰って来たのだ。

 諸近は人目も憚らず大声で泣いた。泣いて、泣いて、泣き続けた。

          ※          ※         ※          

 七月七日、長峯(ながみねの)諸近(もろちか)高麗(こうらい)軍によって救出された同胞十人だけを連れて帰國した。

 対馬の伊奈(いな)の泊に着いた諸近は、伊奈(いな)院司(いんのつかさ)に自首した。伊奈院司はさっそく諸近を捕縛し、十人の虜人と共に大宰府に護送した。

 大宰府ではさっそく諸近から詳細な事情を聞き、これに同行の内蔵(うちくらの)石女(いわめ)多治比阿(たじひのあ)古見(こみ)の二人の女性の報告を添えて、太政官(だいじょうかん)()(ぶみ)を出して報告した。このとき、初めて朝廷は賊が女真(じょしん)人である事実を知ったという。

 同年九月、高麗虜人送使として(きょう)駅令(えきれい)(てい)()(りょう)が、残りの日本人二百七十余人(男六十、女二百余人)を送り届けてきた。

 高麗使は翌年二月、大宰府から高麗政府の下部機関である安東(あんどう)()護府(ごふ)に宛てた返書を持って帰國した。藤原隆家はこの使者の労を(ねぎら)い、黄金三百両を贈ったという。

 藤原(ふじわらの)実資(さねすけ)の『小右記(しょうゆうき)』では、「刀伊の攻撃は、高麗の所為ではないと判ったとしても、新羅(しらぎ)は元敵國であり、國号を改めたと雖もなお野心の疑いは残る。たとえ捕虜を送って来てくれたとしても、悦びと為すべきではない。勝戦の勢いを、便を通ずる好機と偽り、渡航禁止の制が崩れるかも知れない」と警戒したが、この事件をきっかけにして、久しく途絶えていた近隣の諸國との國交を再び回復していったという。

 結果として、一人の下級官吏の無謀とも思える行動が、永らく閉ざされていた国の扉を開く切っかけとなった。

 捕縛された長峯諸近は、國禁を破った(とが)で投獄されたとあるが、その後の記録はない。

 それから約二百五十年後の文永(ぶんえい)十一(一二七四)年、対馬と壱岐は再び賊徒に襲われた。

 賊徒の名は『元寇』といった。


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