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賊徒襲来! その名は刀伊  作者: 江戸紫蘭
序章 悲劇の予兆
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序章 悲劇の予兆

寛仁(かんにん)三(一〇一九)年

その年、

西海道(さいかいどう)では、都をも震撼させる

わが国最大の危機が訪れようとしていた。


序章 悲劇の予兆


          一

 いつのまにか、風が止んでいた。

 チヌが気付いたのは、父のアラと共に早暁の海に漕ぎ出した後、暫く経ってからだった。潮の香が混じったベトついた汗が全身に纏わり付いているようだ。喉の奥が干からび、なんとなく息苦しくもあった。

 こんな感覚は、父について漁に出るようになって初めての経験だった。三月下旬といえば、春も終わりを告げ、そろそろ初夏を迎えようかという候である。暑さを感じてもなんの不思議もなかった。だが、今日の暑さは何かが違う気がした。

「今日は……変やな……」

 ()を漕ぐ父が呟いた。振り返ると、父は顎の先に汗を溜めながら、不安そうな表情を浮かべていた。海に漕ぎ出して二十数年の父にして、初めて出会う感覚のようであった。

 この時期の対馬の海は、荒れて当たり前だった。ところが今日はどうだ? 海面は全くのベタ(なぎ)だ。

 空を見上げた。まだ明けやらぬ空には、竜の鱗のような不気味な形をした雲が、一面に覆っていた。

 雲の隙間から、星が一つ流れた。

 静かだった。音といえば、父が漕ぐ艪の軋む音と、舟の舳先に当たる波の音ぐらいだ。

 いつもであれば聞こえ始める海鳥の鳴き声も今日は聞こえなかった。チヌは父が器用に操る艪の動きを見つめながら、不安になりそうな心を落ち着かせようとしていた。

 右手に見えていた嶋影が、次第に大きくなってくる。やがて、小舟はゆっくりと大きく右に旋回しながら、複雑に入り組んだ入江へと入っていった。

 遠く前方に、海上から突き出た鳥居が見えてきた。

 ()多都(だつ)()神社の一の鳥居だ。この神社は海を司る神である。祭神は山幸彦こと彦火々(ひこほほ)()(みの)(みこと)と海神の娘の豊玉毘売(とよたまひめの)(みこと)であった。

 小舟は湾内をゆっくり進み、一の鳥居を潜っていくと、二の鳥居が続いた。それをも潜ると、やっと石組みの上に立つ三の鳥居があった。その奥に鬱蒼とした森を背にした和多都美神社の本殿はあった。

 父は、漕いできた小舟を三の鳥居の下の簡単な桟橋に(もや)うと、舟から降りて三の鳥居を潜って境内に入って行った。暫く歩くと四の鳥居があった。その手前左手に三本柱の小振りな鳥居に囲まれた盤座(ばんざ)があった。

 盤座は、蛇の(うろこ)状の(こぶ)のような亀裂が全体を覆っていて、一見して不気味な形状をしていた。この地では「(いそ)()恵比寿(えびす)」と呼ばれていた。磯良とは、海神の娘・豊玉毘売命の子の安曇(あずみの)(いそ)()のことで、この地の者たちの間ではその墓と伝えられて、地元の民の信仰を集めていた。特に漁師は、漁の安全と豊漁を祈念するために、必ず訪れていた。

 チヌは父に続いて盤座に向かって手を合わせて、漁の安全を祈念した。

—— おや?

 一瞬、我が目を疑った。盤座がゆっくりと動いているような錯覚を覚えたのだ。

 いくら蛇の鱗に似た盤座とはいえ、動くはずはない。もう一度、ジッと目を凝らして盤座を見た。やはり、動いているように見える。いや、実際に動いているのだ。ゆっくりとぬたくりながら、盤座は確実に動いていた。

 チヌは思わず息を呑んだ。盤座ではなかった。盤座の上に蜷局(とぐろ)を巻く大きな白蛇だった。白蛇は、ゆっくりと内へ内へと、巻きを絞るように動いていた。

 突然、白蛇は鎌首を擡げて、チヌを見た。チヌは目が合った瞬間、まるで金縛りに遭ったように、身動きができなくなった。白蛇の目は、冷血動物の特有のドロンとしたもので、裂けた口からは、チロチロと細く赤い舌を覗かせていた。

 目を逸らそうにも、逸らせなかった。チヌの額からは脂汗が滲み出てきた。

 どのくらい睨み合いの状態が続いただろうか?

 白蛇は、突然、海の方角を向くと、丸く巻かれた胴体を、引き絞ったバネを伸ばすかのように素早く飛び、大きな胴体をくねらせながら、海の中に消えていった。

 一瞬のできごとであった。

 磯良恵比寿は、白蛇の化身だと聞いた覚えがあった。今、目の前で起った光景は、まさに言い伝えが現実のものだと見せつけるものだった。

 チヌは、心配になって父を見た。父の顔は、凍りついていた。

「悪かこつが起こる……何か悪かこつが……」

 父の上擦った声に、チヌは不安な気持ちになった。

「悪かこつって? どがんこつね? なんが起こるとね」

「昔から言い伝えがあったとたい。磯良恵比寿様が白蛇のお姿に変わったとき、新羅が嶋に攻め込んできて、皆殺しにあったげな」

「皆……って……嶋の全員な?」

「知らん。わしが生れる前の話やけん。ただ、昔からそういう言い伝えがあるだけたい」

 チヌは、朝の霞にけぶるようにうっすらと見える海の向こうの半嶋を、不安な面持ちで見詰めた。


          二

 船は東海(とうかい)の洋上にあった。

 旗艦(きかん)の舳先に立つ(さい)忠臣(ちゅうしん)は、水平線上の一点を見つめていた。

 あと半刻(一時間)も航行すると()(りょう)(とう)(うつ)(りょう)(とう))が見えてくるはずだ。嶋の先は倭國(わこく)の領海となる。倭國とは國交がないので、そこまで行けば引き返すしかなかった。

 ——海賊を追ってもう幾月が経つだろうか?

 ここ数カ月の間、高麗(こうらい)の東部沿岸は謎の海賊船に荒らされ、強奪や殺戮が繰り返されてきた。

 崔忠臣は、直属の上官である軍使の張渭男(ちょういなん)と共に、連日のように鎮溟(ちんめい)船兵(せんへい)()部署(ぶしょ)から五隻の軍船を従えて出航していた。高麗の東沿岸を巡航し、時には沖合にも出た。だが、高麗は広い。いまだに賊の船影すら捉えられなかった。

 軍使の張渭男は、賊の正体を契丹人(きったんじん)ではないかと主張していた。

 張渭男は、契丹人を敵視していた。端から見ると異常なほどだった。

 元々科挙(かきょ)に合格した文官で尚書省(しょうしょしょう)兵部侍郎(ひょうぶじろう)の官職を得て、王都の(かい)(きょう)に一族と共に住んでいた。十年ほど前に、今の第八代高麗王の王詢(おうじゅん)(安世 廟号(びょうごう):顕宗(けんそう))が王位に就いた直後、契丹人の國『(りょう)』が大軍をもって高麗に攻めてきた。遼軍の勢いは凄まじく、ついに開京までも攻め落としてしまった。その際に、張渭男の一族は皆殺しにされたのだ。以来、契丹人に対する敵対心は凄まじくなったという。

 今年の初頭、遼が(おう)(りょく)(こう)を越えて侵攻してきたとき、宰相だった姜邯(きょうかん)(さん)が上元帥となって亀州にて迎え撃ち、壊滅的打撃を与えた。所謂、亀州(きしゅう)大捷(だいしょう)である。勿論、張渭男も出陣を願い出た。だが、願いは認められなかった。尚も執拗に願い出たが、思いは届かず、東方の海賊退治の最高責任者として鎮溟の船兵都部署に送られたのであった。

—— 張渭男の気持ちはわからないではない。だが、その執念はあまりにも異常過ぎる。

 崔忠臣は眉をびそめて張渭男を見つめながら思った。

 見張りの兵が走り寄って来た。

「将軍、武陵嶋の付近で煙が上がっています」

 崔忠臣は、舳先に走り寄ると、前方を見た。水平線の向こうに幾筋もの黒い煙が立ち昇っていた。確かに武陵嶋の方向だった。賊の仕業に違いない。賊は荒し回ると、必ず火をつけて、すべてを焼き尽くしていた。

 崔忠臣は、張渭男に報告した。張渭男の顔色が変わった。

「速度を上げよ!」

 張渭男の号令のもと、櫂を漕ぐ兵の動きが機敏になり、軍船は速度を上げていった。

 徐々に水平線の向こうに武陵嶋が姿を現してきた。煙は嶋のそこかしこから上っていた。崔忠臣は櫂を漕ぐ水夫を励ました。一刻も早く着きたかった。嶋は今、賊に襲われているはずだ。だが、気ばかり焦って嶋影は、なかなか見えてこなかった。やがて、嶋影が見えてきた。近付いていくにつれ、嶋の周りに停泊している船影も見えてきた。更に近付いていくと、賊船の全貌が明らかになった。

 ——多い、あまりにも多すぎる。

 崔忠臣は驚きのあまり絶句してしまった。

 全部で五十隻もあるだろうか、大船団が嶋の前面の海を覆い尽くすように停泊していた。船の全長は八尋(ひろ)から十二尋(ひろ)ぐらいで、(かた)(げん)に櫂がおよそ二十あった。一隻の乗員が五、六十人とすると、総勢三千人はいる計算となる。

 とてもではないが、現在の戦力では太刀打ちできない。

 突然、賊船が動き出した。嶋から離れ始めたのだ。

「追え!」と張渭男の声が轟いた。船足がグンと速くなった。

「射手、火矢を用意しろ!」

 張渭男の命令で、兵士たちは、側舷に並ぶと弓を構え、一斉に矢を(つが)えた。

 崔忠臣は、思わず張渭男の前に進み出た。

「軍使様、一戦を交えるおつもりですか?」

「敵が目の前におるのだ! 戦わずに、なんとする!」

 張渭男は、ギロリと睨む。

「あまりに多すぎます。我らの戦力ではとても太刀打ちできませぬ」

 張渭男の奥歯を噛み締める音がした。

「それに、この先は、倭國の領海となります。わが國とは國交がありませぬ」

 崔忠臣は必死に説得した。

「臆したか? 何人いようとも、場所がどこであろうとも、目の前に敵がおる以上、戦わねば武人とは言えぬ!」

 張渭男は、兵の弓を奪い取ると、火矢を番えて引き絞る。目つきは明らかに復讐心に凝り固まっているようだ。

「軍使様、お止め下さい!」

 崔忠臣は、張渭男の前に立ち塞がった。

「邪魔だ、どけ!」

「いいえ、どきません!」

「邪魔だてすると、おぬしを先に射ることになる」

 張渭男は、弦を更にキリキリと引き絞る。

 崔忠臣は、怯まなかった。張渭男を正面から睨み付けて、微動だにしなかった。

 ——今は戦うときではない。戦っては、必ず無駄死になる。

 崔忠臣の思いが伝わったのか、いまいましそうな表情で、張渭男は弓をおろした。

「軍使様、賊は必ず戻って参ります。その時を待つのです。戦力を整えて」

 張渭男は、去っていく賊船を、歯噛みしながら見つめていた。

「わかった! お前の言葉に従おう」

 張渭男は、部下に弓を下ろすように指示した。

 賊船団は、何事もなかったように、船影を小さくしていった。東夷の船団の方向を考えると、行く先には倭國があった。倭國を荒らした後、戻ってくるとして一月後か、二月後だろう。帰って来る頃までに、対抗でき得る戦力を整えねばならなかった。



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