【短編】旦那様、そんなに「ざまぁ」がよろしくて?【後日談追加】
長編を書いている息抜きに、そいやっさと書きました。
2025/5/20 スマホで見たら読みにくかったので、程々に改行を入れ、文章を少し仕分けしました。
2025/5/21 [日間] 異世界〔恋愛〕ランキング - 短編で1位!ありがとうございます!
「君を愛することはない」
昼間に愛を誓ったはずのセルジオが言い放った先、レースがふんだんに使われた真っ白の寝間着に身を包んだ花嫁が、きょとんとした表情で見上げていたかと思えば可笑しそうに軽やかな笑い声を上げた。
「ふふ。旦那様の台詞、小説で何度も読んだ台詞だわ」
そっくりそのまま同じだわと、堪え切れない様子で華奢な肩を震わせるのは、今日結婚したばかりのフィオレッラである。
妻となった相手の言葉の意味が分からず、対応に困って見下ろすままに立ち尽くせば、少ししてフィオレッラが目じりの涙を寝間着の袖口で軽く押さえてから、再びセルジオを見上げてきた。
「お仕事一辺倒を気取られた旦那様は、王都のご令嬢方に人気の恋愛小説をきっとご存知ではないのでしょうね。
夫の不貞シリーズといって、旦那様と同じような立場の夫が主人公に愛することはないと宣言するところから始まる、なかなか刺激的な物語集なのだけど。
お義母様になる子爵夫人も読んでいらして、先日のお茶会を旦那様がキャンセルされた時は、二人で大盛り上がりしたものよ。
今まさに旦那様が言ったような台詞から始まって、自分が行った酷い仕打ちは間違いだったと気づいてからの溺愛か、自立心の高い主人公が本当のヒーロー役からのサポートを受けて地獄を見せる、ざまぁのどちらかになりますの」
そう言ってから花嫁であるフィオレッラはあどけなく笑った。
「せっかく結婚したのですから、一応は溺愛の方がよろしいのだけれども。
私、リナルディ子爵家のことはとても気に入っているのですから」
貴方の意向はどうなのかしらといわんばかりに、こてりと小首が傾げられる。
まるで揶揄うようで、もしくはセルジオの言葉を重く受け止めてもいない様子に、不愉快さから自然と片方の眉が上がるのを止められない。
普段であれば表情を変えること無いのが貴族ではあるが、フィオレッラの知性を感じない発言に表情を取り繕う気も失せた。
「冗談ではない。私には君ではない最愛がいる。
贅沢三昧な温室育ちの君と違って、家の為にと健気に働き続け、銅貨三枚のリボンを買うことすら躊躇う程に慎み深いカローナこそが、私の愛を誓う相手に相応しい!」
どうせ道楽者の浪費家である私の親に目を付けて、金に物を言わせて婚姻を捻じ込んできたか、それともあの人達が嫁入り先の見つからない彼女に目を付けて話を持ち込んだかはどうでもいい。
ただ言えることは、セルジオには既に愛する人がいるということだけだ。
セルジオの強い言葉にフィオレッラの目が伏せられ、けぶるような睫毛が冬の海のような薄青灰の瞳を隠してしまう。
「そう、旦那様の意志が固いのは、とても残念ですわ」
セルジオからはっきり言われたことで、さすがに愛されることはないのだと自覚したのだろう。
軽く肩で息をしながら安堵すると同時に、セルジオの胸に沁みだすように湧き出る感情は仄暗く陰鬱な喜びだ。
元は侯爵令嬢といえ、今は子爵夫人であり、セルジオの寵愛が無ければ生きていけない身でしかないのだ。
セルジオの言葉一つでどうにでもなる存在になり下がった者。
面倒事は避けるためにフィオレッラは閉じ込め、里帰りなどさせるつもりもない。
「愛されるはずなどないことを、理解したのならばよい」
傲慢にも愛されるつもりで意気揚々と嫁いできた彼女には屈辱のはずだ。
必要なことは全部言った。
後は勘違いしていたフィオレッラを寝室から連れ出すよう、部屋の外に控える使用人を呼んで、命じるだけだ。
当初は閉じ込めた後に、息災かどうかを侯爵家に尋ねられたりしないかと心配していたが、結婚式でもあっさりとした別れの言葉を交わす程度だったので、見ている限りでは家族仲が良好でなさそうだった。
これならセルジオの計画に支障はないと踏んでいる。
そもそも子爵位に嫁ぐくらいなのだ。
侯爵家では末の娘を政略の駒としても重要視していないのだろう。
むしろ邪魔者扱いなのかもしれない。
噂話に疎いセルジオにすら、令嬢達とのお茶会よりも室内楽の催しに参加ばかりしている風変わりな令嬢とか、若き音楽家に入れ込むのは手を出しているからだといった話が耳に入ってきている。
随分昔に縁があったぐらいの子爵家を嫁ぎ先に選ぶなんて、きっと彼女自身に問題があるに違いない。
ならばセルジオが彼女を利用するのに、何の問題があるだろうか。
三年もすればセルジオも少し出世して収入も増えるだろうから、侯爵家の援助は断れるようになるだろうし、フィオレッラとは子どもができないことを理由に離縁すればいい。
ただ、フィオレッラを使用人部屋に監禁したことを許さないようなら、野垂れ死ぬように家から身一つで叩き出すか裏路地にでも放り込めばいい。
侯爵家には一人で勝手に出て行ったと言えば終わりだ。
セルジオの手に残るのは、援助という他人に命を握られた不安定な金ではない、自身の手で稼いだ収入と子爵家の当主の座、それから愛するカローナとの甘い生活。
フィオレッラが夢物語のように語る小説のようなことなど、現実には起きたりしないのだ。
けれど、達成感と高揚感に満たされるセルジオの前で、冬の海が再び姿を見せた。
「まさか、旦那様がそこまで『ざまぁ』がよろしかったなんて」
彼女は笑っていた。
淑女らしい笑みはブラシで薄く刷いたように表面的でありながら優美さを損なわず、優位であるはずのセルジオに不安が湧き上がる。
大丈夫だ。ここはセルジオの家であり、自分の主張が守られる場所なのだと強く思わなければならない程に。
それなのにセルジオの傲慢と幸福という薄氷を破って姿を現した不安はみるみる胸中で満ちようとし、喘ぐように息をしたセルジオを見つめる瞳は細められるだけ。
嫌な不安を振り払うように首を横に振る。
「……まだ強がりを言うのか。
君にできることは何もないはずだ」
セルジオが使用人を呼べば、フィオレッラは一階端にある使用人用の部屋に押し込められ、外から鍵がかけられる手筈になっている。
自堕落に暮らす両親の世話に追われる家令は優秀で、事前にセルジオが明かした計画について、眉一つ動かすことなく「それが坊ちゃんの望みでしたか」とだけ返してくれた。
子爵家の使用人は躾が行き届いている。遊びに訪れたことのある友人達が使用人のレベルに驚くほどに。
優秀な彼らならば、侯爵令嬢相手だろうとセルジオの命令を忠実にこなしてくれるはず。
「何度でも言おう。愛の女神ミュゼーラに誓って、私が君を愛することは無い。
これは物語ではないのだから『ざまぁ』というものをする前に、君は二度と子爵家から出られないよう閉じ込められることになる」
息を吐いて、吸う。
「君に何かできるのならば、見せてもらいたいものだ」
あらあらと言いながら、フィオレッラはいつの間にか手にしていた呼び鈴を軽く鳴らす。
途端に軽やかなノックと共に、扉が開いて家令と使用人達が中に入ってきた。
彼らは驚くセルジオの横を通り抜け、フィオレッラの後ろに控える。
どういうことだと言おうとして口を開き、使用人達の表情の無い顔と眼差しに威圧されて口を噤む。
「旦那様がお望みですし、これから私の行う『ざまぁ』について説明させて頂きますわ」
そうしている間にも侍女がティーワゴンを押しながら姿を見せ、フィオレッラの前に音も無くカップやミルクピッチャー、小さな砂糖壺を並べていく。
他の侍女がフィオレッラにガウンを羽織らせ、膝の上に恭しくブランケットをかける。
そうしてから華やかな香りのするお茶を注いだ後に、子爵家の持ち物であるはずの侍女はセルジオを見ることなく壁に控えた。
まるでフィオレッラが家の主かのように。
「先ず、この婚姻は無効となります。
あらいやだわ、そんな驚いた顔をなさらなくても。旦那様はお城でお勤め中に、貴族間で交わされる契約などの事務手続きをなさっているのですよね?
特別な事情がない限り、夫婦の義務を果たさない場合は無効となるのはご存知のはず」
「そんなことぐらい知っている」
セルジオも研修時に実際あった珍しい事例として、手続きに使われた類似の書類を見たことはある。
単に子爵家を存続させるまでの収入を得るまでは、侯爵家からの援助が必要なことから婚姻をすぐに無効にする気は無かった。
夫婦としての責務は果たしたことにして、フィオレッラを屋敷の見えぬ場所にでも押し込めておけばいいと思っていただけだ。
その金蔓が根底を覆すようなことを言い始めたのに苛立たしく思い、睨みつけても澄ました顔は崩れない。
「次に当家に対して、子爵位の返還が行われます」
まるで今日の夕食のメニューを話すかのように事も無げに言われた言葉は、けれどセルジオには初耳なことで、表情豊かになりつつ今夜の中でも一番驚いた顔になってしまったのに気づく余裕はなかっただろう。
「そのご様子だと、旦那様は聞いたことがないのかしら?
かつてリナルディ子爵家は、ヴァルドリーニの娘の嫁ぐ相手に爵位が無かったことから、返却をすることを約束して借りているだけに過ぎないことを」
聞いたことがない。
ヴァルドリーニ侯爵家の娘と縁付いたことから子爵位を譲られたことぐらいは聞いているが、いい加減な両親は歌だの弦楽だのと音楽にばかり夢中で何も聞かされたことも無いし、そもそも婚約に際して契約書を交わしたときにヴァルドリーニ侯爵からもそんな話はされなかった。
婚約時の契約書も職業柄、隅から隅まで目を通していたが該当するような項目は見ていない。
再びヴァルドリーニの娘が嫁ぐのだし、知っていて当たり前だからと一々言わなかったかもしれないが、こういうところが本当に自身の親ながらいい加減で嫌なのだと無意識に顔が歪む。
だが、法の下に考えれば、子爵位の返却は無効だということをセルジオは知っていた。
「残念だが、返還については譲ってから三代以内に行うことと、何かしらの問題があった場合と国法に定められている。
既にヴァルドリーニ侯爵家から子爵位が離れて四代、こうなると爵位の返還を約束した契約書が必要となる。
我が家にそのようなものはないし、口約束では認められないことぐらい調べてから言うことだ」
小賢しいことを言ったとしても所詮は女。
さして物知らぬままに、知ったつもりでしか言えないのだから。
小馬鹿にした素振りも隠さずフィオレッラを見れば、涼しい顔でお茶を飲んでいる。
セルジオには何も用意されないのに。いくら侯爵令嬢である彼女に相応しい態度とはいえ、主となる自分に対しての扱いはいかがなものなのか。
苛々としながらフィオレッラを睨みつけても、動じることなく口を開いた。
「契約書はありますわよ」
カップを手にしながら事も無げに言ったフィオレッラの言葉に、思わず動きを止めた。
「今、なんて、」
驚きで聞き返した言葉に対して、事も無げにフィオレッラが返事をする。
「リナルディ子爵位に関しての契約書はありますわ。
きちんと国で定められた手続きを経て、原本は国で管理されているのを私は確認していますし、侯爵家にはきちんと控えがありましてよ」
言った後、彼女が表情に浮かべたのは苦笑だった。
「子爵家に契約書の控えがないのは、契約を交わした当時の子爵が趣味で飼っていた山羊に齧られたからだとは聞いていますわね。
冗談かと思っていたのだけれど、まさか本当だったなんて」
よしんば齧られなかったとしても紛失していそうですけど、という言葉を否定できないくらいには、子爵家は管理しないままに残された財産を食い潰していく道楽者しかいない。
昔に祖父から子爵家の庭に山羊がいたことがあると聞いたことがあれば猶更だ。
契約書に書いている内容はわからないが、即時の返却を求めることができることを明記されているのだから、フィオレッラも強気な態度でいられたのだと知って怒りや焦りが胸を占めていく。
「旦那様は不思議に思ったことはありませんか?
どうして子爵家の使用人達に高水準の教育がされているのかを」
フィオレッラの声だけが部屋に響く。
「もしかしたら疑問すら浮かばずに、ただ贅沢を享受していただけかもしれませんね」
苦労を知らない温室育ちはこれだから、とセルジオが最初に言った言葉でやり返され、余りの暴言に怒りで頬に熱を帯び、息が荒くなる。
「リナルディ子爵家の使用人達が高位貴族に仕える者達並みに働けるのは当然のこと。
彼らは私の育った家、つまりは侯爵家の使用人として教育を受けていますから」
フィオレッラがガウンで隠された肩をすくめてみせた。
「旦那様が我儘三昧の無知な娘扱いする私の方が、余程家の事情を知っているように見えるのはどういうことでしょうね」
「なぜ、それを言わなかった!?
先に言われたら私だって!」
どう表現していいかわからない感情に突き動かされて叫ぶセルジオを見てなお、フィオレッラの表情が変わることは無い。
代わりに控えていた使用人がフィオレッラを守るように前に出た。
「私だって?その言葉の後に、何と言うつもりなのでしょう?
もしや他所の女への愛を女神に誓ったその口が、今度は私に愛を囁くおつもりなのかしら」
ご冗談でしょうと笑う顔はあどけなさの残るまま。
それなのにどうして甘やかされて育てられただけの箱入り娘に、仕事も子爵となるべく責任も持っていた自分が押されているのだろうか。
このままフィオレッラと話し続ければ、更に悪夢が訪れる気がしてならない。
それも夢で終わらない、現実のセルジオを脅かすようなとびっきりの悪夢だ。
一旦退いた方がいい。
使用人達がどちらに与しているのか判断できない今、これ以上事を荒立てるのは危険だ。
「私が悪かった。非を認めるし、カローナも愛人とする。
正妻としての君を尊重し、周囲からは愛されていると思われるようにだって振る舞おう」
だから、と言葉を続けてフィオレッラを見たセルジオは、思わず言葉を止めて息を呑んだ。
「旦那様はまだご理解できてないのね」
艶然とした笑みへと変わったフィオレッラは、今や可憐な少女といった雰囲気から、この屋敷の主といわんばかりの空気を纏っていた。
「カローナでしたっけ?事前に調べていたから、旦那様が愛する方については当然知っていてよ。
婚姻前に関係を解消していれば問題なかったから、わざわざ手を出すまでもないと思っただけ。
だって子爵家に嫁ぐだけで、別に旦那様でなくてもよかったもの」
あっけらかんと言われただけに、その言葉は真実味を帯びている。
少なくともセルジオはそう感じた。
「せめて物語の登場人物のように破天荒であれば少しは楽しめたのだけど、旦那様は何もかもが中途半端。
少しだけ勉強ができて、お仕事は真面目にすれども融通が利かないから柔軟な対応ができず、終業時間となれば自分に関係無いとばかりに途中の仕事を放り出して帰ってしまうとか」
白い指先がカップの縁を撫でる。
「せめて誠実であればとは思ったけれど、それすらも期待できないなんて。
確かに旦那様のご両親はお仕事をしないで浪費をされるけれど、互いを尊敬して不貞などとんでもないと誠実でいらっしゃるわ」
どちらがよろしいのでしょうね、と零れる言葉は答えを求めてなどいないだろう。
セルジオを見ているようで、彼を通して自分の両親を透かし見ているようだったのだから。
フィオレッラがまるで女優のように大袈裟な身振りで両手を広げる。
「リナルディ子爵家に生まれた唯一の常識人を自称されているようですけど、そんなもの必要ありませんの。
だって私達ヴァルドリーニは、子爵家の道楽者達をこよなく愛しているのですから」
途端、表情に年相応の可愛らしさが戻った。
ただし、それは狂気にも似た熱を帯びていたが。
「ヴァルドリーニは才ある者を見つければ迷わずパトロンを申し出るくらいに、芸術に深い関心があるの。
人によっては執着とも言うけれど。
そして、子爵家は誰もが何かの才に秀でていて、侯爵家は皆、リナルディの人々を深く愛しているわ。
正確には気に入った才能を持つ者をだけど」
囀る小鳥のようにフィオレッラが饒舌になる。
「私のお祖父様は先代子爵の綴られる詩を。お父様は子爵夫人の歌声を。お母様は子爵の妹君が手掛ける絵本の挿絵を。
そして私は旦那様のお父様、子爵の弾かれる弦楽の音をこよなく愛しておりますの」
頬を紅潮させる姿はまるで恋する乙女のよう。
余りにも可憐な姿に、セルジオも一瞬目を奪われた程だ。
「セルジオ様はご存知かしら?
子爵が弦楽器を手にした時の、気後れすることもなく緊張も感じさせない涼やかな眼差しを。
それに弾き始める前の調整で鳴らされる音すら、息の合ったワルツを見ているように滑らかなことを。
夫人の伴奏の為だとお父様が用意した弦楽器は確かに素晴らしいけれど、それもやっぱり弾き手が素晴らしいからよ」
唇に寄せられた思案気な指先が、機嫌良さそうに軽くリズムを取る。
確かに父親からは一度、フィオレッラが自分の奏でる弦楽の音を気に入ってくれているのだと、だから子爵家は安泰だと言っていたのを聞いたことがある。
世辞の一つでいい気になって、愚かなことだと馬鹿にしていたのに。
働かぬまま生きてきたのをいいことに、侯爵家に依存するつもりかと蔑んだ目で見ていたが、まさか真実フィオレッラが気に入っていたことでセルジオも子爵として生きていけるのだとは知らなかった。
「セルジオ様がいつだって無駄だと仰っていた子爵の音楽が、子爵家を存続させていたのを知らなかったのでしょうね。
きっと、いえ絶対、子爵家の事情を知ろうともしなかったセルジオ様より、私の方が旦那様のご両親のことをよく知っているわ」
セルジオとの婚約中にも見せたことのない、恥じらう愛らしさ。それだけではない危うい均衡を保つのは、瞳に浮かんだ劣情にも似た輝きだ。
見るものを惹きつけながらも狂気をも帯びたそれは、セルジオに焦燥と畏怖を与えてくる。
けれど再びセルジオを見たフィオレッラの顔からは、すとんと表情が抜け落ちた。
「唯一気に入らないのが旦那様だったのですが、それとて一代くらいは変わり者がいてもいいと、大らかな気持ちで受け入れようとしていたのにこの仕打ち。
何の芸も披露できず、私達を楽しませられない旦那様はいりませんわ」
既にお茶は終わったのか、セルジオの分は用意されぬままに茶器が片付けられていく。
それを眺めていたフィオレッラが、何かを思いついたように手を合わせた。
「ああでも、旦那様が多少なりとも反省するお姿を見せられたのならば、私も少々の譲歩はするべきかもしれないわね」
フィオレッラの指先が自身の顎をなぞり、離れる。
「決めたわ、選択肢を差し上げましょう。
このまま離婚をして子爵位を返還。平民となった旦那様は想い人と憂いなく結婚して幸せになるのか。
それとも私との白い結婚を継続して、旦那様は使用人部屋に押し込められるのか。
お好きな方を選択なさって」
セルジオの行おうとしていたことを知っている。
慌てて家令を見たが、温度の無い視線が返ってくるだけだった。
ああでも、とフィオレッラの笑みが深まる。
「旦那様は平民として生きていけるのかしら?
先程は私を贅沢三昧の温室育ちと言いましたけど、程度の差はあれども、旦那様とて仕事のできる使用人達に囲まれて暮らしていたのに」
そんなの無理だ。
今更平民としてなんて生きていけるはずがない。
カローナは愛しているが、自分の立場が変わらない前提での愛だ。
彼女と一緒に経済的な苦労なんてしたくもない。
「ああ、どうぞ安心なさってね。
旦那様の失態の責任を、ご両親である子爵夫妻に取って頂くつもりはないですから。
あの方達が子爵で無くなっても私達は手放すつもりはありませんので、お二人は侯爵家の離れで不便無くお過ごし頂くことになるでしょう」
全く何も考えていなかった両親のことを出され、今更ながら自分は薄情な人間なのだと笑いたくもなる。
いや、笑うしかないのだ。間抜けな自分の有様に。
そんなセルジオを案じる様子も無く、フィオレッラが立ち上がった。
「お返事は明日頂くことにして、今夜は別室で寝かせてもらいますわ。
今日だけ寝室を譲って差し上げますので、この広いベッドを気兼ねなく楽しんでくださいませ。
そして一晩ゆっくり考えて、お好きな方をお選びになってくださいね」
呆然と立ち尽くすセルジオを置いてフィオレッラも使用人達も出て行き、ゆっくりと扉が閉められる。
いつもなら気にならない木の触れ合う微かな音が嫌に部屋の中で響き、いつまでも誰も戻ることのない扉を見つめ続けた。
** 後日談 **
「お義父様、お義母様、おはようございます」
いつもより遅めに目覚めた翌朝、身支度をしていたフィオレッラに朝食のお誘いをしてくれたのはリナルディ子爵夫妻だった。
食堂ではさほど待っていなかったらしく、まだ二人の前にはカトラリーが揃えられていない。
「お二人と朝食をご一緒にできるのは嬉しいのですが、お待たせなどしておりませんか?」
「いや、私達は遅くまで夜を過ごすのが好きだからね。
これでも早い時間に頂くことになりそうだ」
そう返すリナルディ子爵はにこやかに笑みを浮かべ、それから少しだけ眉を下げて空いている席へと目を向けた。
セルジオの姿がない。
昨晩のことでショックを受けて寝込んだか。
もしくはフィオレッラが提示した選択肢を選ぶことができず、部屋から出てこられないのか。
既に夫妻は彼との顛末を聞いているはずだ。
セルジオの愛人のことも知っていたので、フィオレッラの自由にしていいと言ってくれていたのだが。
給仕に引かれた椅子へと座る。
「旦那様は?」
近くに控えている家令を一瞥すれば、表情の変わらないままに「家出をされました」とだけ返された。
「まあ、家出」
どうやら夫となった人物は目の前の問題を放り投げて、現実逃避を選んだようだった。
子爵夫妻がフィオレッラと朝食をしようと午前中に起きたのはこのせいだろう。
家令に叩き起こされたに違いない。
「今は愛人の為に借りた家に転がり込んでいるようだ」
困った様子を見せる子爵の前にカトラリーが並べられていく。
「本当に困った息子だわ」
子爵夫人も溜息をついた。
「先に言ってくれれば、朝食の用意をさせずに済んだというのに」
その言葉に使用人への配慮は感じられても、息子を慮る気配は欠片も無かった。
「お義母様が気にされることではありませんわ。
今朝の使用人達の朝食が少しばかり豪華になるのですから」
そしてフィオレッラの言葉にも、夫となった男を心配する要素は少しもない。
フィオレッラにとって大事なのは、セルジオの行動が子爵夫妻に影響を及ぼさないかどうかだけだ。
本人にも言ってあるが、セルジオは子爵家に嫁ぐための存在でしかない。
だから結婚しても特に虐げる予定も無かったのだが、相手が仕掛けてくるので倍にして返しただけである。
子爵位の返還という強硬手段は、フィオレッラに害を為そうとしたときの最終手段でしかなかったのに。
正直なところ、セルジオは邪魔でしかないので帰ってきてもらう必要もないが、何もかも放り投げて出て行った分際で子爵家の金を使われても困る。
これから子爵家の資産を管理するのはフィオレッラである。
美しいものを生み出せない夫にかける金はない。
「子爵家とセルジオ様がよく利用している商会には、セルジオ様のツケ払いもしくは子爵家への請求は認めないと通達しておいて」
「セルジオ様の個人資産はどうなさいますか?」
「転がり込んだ先の家賃には困らない程度にして、余分なお金は使えないようにしておいて」
「承知いたしました」
相手は苦労を知らないお坊ちゃんだ。
お金が使えないとあれば、早々に音を上げて帰ってくるだろう。
これは最近読んだ小説のワンシーンが再現できるのではないかと、唇の端が上がりそうになるのを淑女の嗜みが止めてくれる。
「まあ、これは夫の不貞シリーズ、三作目の『旦那様、貴方の逃げ場はありませんわ』ね!確か第四章のはずよ!
ここまで忠実に再現できるなんて、本当にお見事だわ、フィオレッラ」
フィオレッラと裏腹に、子爵夫人が無邪気に喜んで手を叩いた。
「お義母様に喜んで頂けたならなによりですわ」
この方は物語にのめり込んで生きてきたせいで、事の善悪や常識に少し疎い。
それに感情表現も豊かで貴族らしくない。
ご令嬢の頃には本を読むことと歌うことが好きだったことから、舞台俳優になりたいと親に内緒で劇場に通い、こっそり偽名で歌っていたという過去まである。
話す内容も自身が覚えた歌や本のことばかりで周囲には辟易され、ヴァルドリーニの紹介で子爵と出会うまでは、いくつもの縁談が破談になったそうだ。
本音を隠したりや体裁を整えることしないことから、多くの貴族夫人からは距離を置かれているが、なるべく社交には出さずにヴァルドリーニが愛でる分には可愛らしい小鳥だ。
それに世間とズレていたとしても、読んだ本の内容を全て記憶に留めるといった、類稀なる記憶力を持ち合わせていた。
彼女に望めば、多くの本の内容を確認する必要なく語ってくれる。
のめり込む先が本でなければ、きっと有能な文官や法務官、司書などにもなれたのが惜しいと子爵夫人の両親は嘆いたようだったが、そんな面白味の無い人間だったらヴァルドリーニは子爵を紹介しなかっただろう。
既に朝食はスープ皿が下げられて、新しい皿には小さなオムレツや大きなハム、サラダやベイクドポテトが整然と並んでいる。
添えられたバゲットは焼きたてなのか温かい。
賑やかに勧められる朝食の風景は、初夜後のはずの夫が抜けた異様なものであるにも関わらず、仲が良い家族の光景のようだった。
昨晩ぐっすり眠れたフィオレッラは執務室ですることがあるので、普段は昼まで寝ている子爵夫妻には少し休んでもらったほうがいい。
上手くいけば夕食は一緒の席に着けるだろう。
それから、
「お義父様、今夜は演奏されるのでしょうか?」
と、フィオレッラが聞けば、子爵が満面の笑みで頷く。
「可愛い娘のために、何を弾こうか考えておくよ。
どうかその時には、妻と新しい本の話をしてやっておくれ」
隣できらきらした瞳の子爵夫人が、食堂にまで持ち込んだ本を愛おしそうに撫でながらフィオレッラを見る。
「ええ、喜んで」
これは良い結婚生活になりそうだと、フィオレッラは幸せそうに眼を細めた。
私の書く物語は、大勢の誤字報告職人の妖精さんとか小人さんとかが頑張ってくれる上に成り立っています(他力本願と圧倒的感謝)