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第68話 ミルクでも温めようか

 東の空に下弦の月が昇り始めているのを、スティアはぼんやり眺めていた。

 どこからか聞こえてくる虫の声もどこか控えめな、静かな夜である。


 弟と決着をつけるために無闇な魔力消費を控えなくてはならず、暇を持て余すかと思っていたのに、静かな時間も意外に悪くないと思ってしまったのがつい半刻ほど前のことだった。


「……月は、全く変わらないんだな」


 運命というのか宿命というのか分からなかったが、その歯車が回り出すまでは兄弟仲は悪くなかったなと、スティアは心の内でふと思う。


 人間でなく、かといって魔族でもない自分には、血が繋がっているという理由以外に他者と関係を持つ術がなかった。

 だから、肉親だけがすべてだった。


 母が生きていた頃は母が、弟が生まれて母が死んだ時からはその弟が、自分にとって唯一、何かしらの意味があるものだった。

 だが、かつてあったはずのその意味が何だったのかは、いまだに分からないままである。


 とりあえず命を狙われずに暮らせる場所があれば、それで良かった。

 大人たちの思惑などには興味も抱かなかったのを覚えている。

 自分たち母子の命を狙っていたはずの教会が、逆に自分たちを庇護するようになったのは、時が教会の態度を軟化させただけだと思っていた。

 教会で暮らすようになって生まれた弟が精霊に愛された子と呼ばれていたのは、単純に弟が人より魔力を多く持って生まれたからだと思っていた。


「随分、寝惚けた話だ」


 どうして深く考えることをしなかったのか、今となっては過去の自分に呆れるばかりである。

 考えてみれば、教会が何のメリットも無しに、自分たち母子を庇護下に置くわけがなかったのだ。


「さっさと殺しておけば良かったものを」


 母は、逃亡生活に疲れ切っていた。

 だが混じり子である自分の子を殺す覚悟も決断もできなかった。

 だから、教会に取引を持ちかけたのだ。

 自分は混じり子が産める人間だから、精霊との間にもう一人子供をもうけ、教会に養育を任せると。

 精霊との混じり子なら、万が一、兄の方が人間に敵対したとしてもそれを討つ者となりうるはず。

 だから、本当に人間に敵対しない限りは息子を見逃して欲しい。


「ていのいい自殺だ」


 混じり子を二度も産めば、体が持たずに命を落とすことは分かっていたはずである。

 それでもその決断をしたのだから、死を受け入れていたということだ。

 混じり子を産み育てる道を自分で選んでおいて、その責任から逃げるように死を選んだのだ。

 後始末を全て二人目の子に押し付けて。


「あいつも可哀想にな……」


 幼い頃は、教会で、よく絵本を読んでやったことを思い出す。

 兄弟の交流は別段禁じられてはいなかった。

 そのことを疑問にも思わなかった自分は、どうにも愚かだったとスティアは自嘲の笑みを浮かべる。


 魔族との混じり子を討てる者として弟は作られたが、それには弟がある程度成長し、戦えるようになるのを待つ必要があった。

 つまり、それまでに自分が人間に敵対するようになると困るという事情があったのだ。


 自分の興味が肉親にしかなかったから、教会は仕方なしに弟の存在で自分を繋ぎとめておこうとしたのだろう。

 兄弟を引き離さなかったせいで二人そろって人間を裏切るかもしれない可能性は、低いと判断されたらしい。

 その判断は間違いなかったと、スティアは思う。

 たまに会う兄一人がいかに人間への不信感を説いたところで、弟がそれを鵜呑みにすることは有りえなかった。

 弟は精霊に愛された子で、人の悪意や殺意からは守られて生きていたからである。


 現に、弟は人間の側にいる。

 あとになって考えれば、何もかもが大人たちの打算だらけだった。


 だが教会の思惑は、あまり成功したとは言えないだろう。

 結局、弟が成長しきる前に自分は人間に敵対するようになってしまった。

 しかも、人間よりに作られた弟の魔力では兄を凌ぐには至っていない。


「これで俺だけが生き延びたら、悲惨だな」


 弟がまだ幼く、長時間の修練がまだなかった頃は、結構頻繁に中庭で遊んだ記憶がある。

 遊んだと言っても、自分の方が十一も年上だったから、本を読んでやったり母親の話をしてやったりするのがほとんどだった。たまに魔法を使った光遊びや、棒切れで騎士ごっこをしたりもした。弟の修練で剣術が始まれば勝てなくなるんだろうかなどと、十一も下の弟に妙な不安を抱いていたことまで覚えている。十五、六歳の頃だ。


 ――そんなの、しんじない!


 その日の泣きそうな顔も、よく覚えている。


「いやだ、こんなところにいたの、あぁもう……」


 ドアの開く音と同時に後ろから声をかけられて、玄関前の段差に座り込んでいたスティアはゆっくり振り向いた。


「部屋にいなかったから、お母さん、あなたがまたどっか行ったんじゃないかって、ちょっと驚いちゃった……」


 ほっと胸を撫で下ろす女の手が少し震えているのにスティアは気が付いた。

 娘と息子の三人で暮らしているという家の前だ。聞けば夫には先立たれたらしい。

 女――タリアの娘であるアイシャの言葉はタリアに人違いを自覚させられなかったが、夫ならそれが可能だろうとスティアは思っていた。だがタリアに夫はおらず、スティアの思惑は外れた。

 そしてそのままずるずると息子の代わりをやらされる羽目になっているのだ。


「……まだ、おかしくなったままか」


 一度眠れば、次に起きた時には息子の顔くらい思い出しているだろうと簡単に考えていた。

 しかしタリアは、まだ自分を息子だと思っている。


「なに? 何のこと?」

「なんでもない」


 子を亡くした悲しみが母親をおかしくさせたのなら、その息子が大事に想われていたであろう事は理解できる。しかし、ならばなぜ、その子供の顔をしっかり覚えていないのか、自分などと簡単に勘違いできるのかがスティアには解らなかった。

 それ以前に、自分がこんなことに煩わされてやっている理由が解らない。


(他にやることもないからか?)


「眠れなかったの?」

「…………」


 スティアは黙って視線を逸らす。タリアはそれを質問への肯定と受け取った。


「何か夢でも見た?」

「…………あぁ」


 図星だった為、思わずぽつりと呟いた。同時に、信じないと叫んだ弟の顔が脳裏をよぎる。


(何を、信じないって話だったか……。あぁ、僕の裏切りか……)


 遅鈍に移ろう思考にスティアは身を任せた。


(裏切り……、なぜ、僕は裏切ろうと……、いや、僕は何を裏切ったんだ?)


 無表情に地面を見つめたまま何かをぼんやり考えているスティアの後姿を見つめ、タリアは肌寒そうに夜着の首元を重ね合わせる。


「何か温かいものでも飲む?」

「……え?」

「ミルクでも温めようか? 子供の頃は好きで良く飲んでたでしょう?」

「………………」


 スティアは無言でタリアを見上げた。


 ――スティア、ミルクはいらないの?


 遠い昔に自分を置いていなくなった母の声と重なった気がした。



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