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第48話 あいされてなんか、ない

 複雑な模様を刻まれた、重い木の扉。

 生きる為に修道師教会の門を叩いたのは、もう二年も前のことだった。

 血が繋がっているのかさえ疑わしい母親の暴力に耐えかねて、スラムの他の多くの子供がそうであるように路上で生活をしはじめたのは、それよりももっとずっと昔だ。もう何年前だったかなんて覚えていない。


 何回か冬を越したのち、それまで晒されることのなかった危険が忍び寄るようになった。

 男か女かも分からない子供だったのが、誰から見ても少女だと分かるようになり、路上生活は飢えや寒さだけ凌ぐ事ができればいいという問題ではなくなったからだ。


 修道師教会の門を叩けば、厳しい戒律と修道師となる為の修行が待っており、それまでの自由は一切なくなる。それを嫌って、食事も暖かい寝床も用意されるというのに危険な路上生活を続ける子供は多かった。


(でも、あの頃の方が自由なんて言えなかった)


 今は、厳しい修練や戒律の中に身を置くことに充実感さえ抱いている。


(みんな、今頃どうしているだろう)


 共に危険を分かち合った路上生活の仲間たちとは、教会の門を叩いて以来、顔を合わせていなかった。


「……あぁ」


 中庭から空を見上げると、高く澄み渡った青色が見えた。


「きれい」


 薄く引き延ばされたような白い雲が芸術的な軌跡を描いて漂っている。

 撫でるような風が吹き、金色の髪がゆるやかに流れた。


「…………?」


 ふと、誰かの声が聞こえたような気がして、サラは空から視線を戻す。

 中庭は広く、立ち並ぶ木々の間にはたくさんの下生えが茂っている。誰かがいたとしても、ぱっと見では分からない。


「……だれかいるの」


 届くとも思わなかった言葉に、反応があった。

 がさごそと下生えの木々が音をたてる。


「誰!」


 聖なる精霊の加護を受けた神聖な修道師教会に不審者が入り込んだとあれば、見過ごすわけにはいかない。

 サラは音のした方へまっすぐに近付いた。


「…………きみ、は」


 小さな木陰の奥にいたのは、黒髪の子供だった。

 自分も子供である自覚はあったが、さらに年下であるという意味合いで、サラは子供がいるという認識をする。


(確かこの子は……)


「……そうだ、精霊に愛された子」


 教会の大人たちがそう呼んでいるのを覚えていた。


「名前は……、えっと、アスカルティア……だっけ」


 修道師となる為の修練で一緒になったことはなかった。いつも一人で、誰か大人と一対一で修練を積んでおり、子供たちの間では特別扱いを囁かれている。それゆえ言葉を交わしたことはなくとも、名前はいつの間にかしっかり覚えていた。


「………………」


 子供は何も答えない。いきなり現れた自分を見上げて、ただ見上げて、それから何か反応することを綺麗さっぱり忘れてしまったようだった。


「えっと、こんなところで何をしているの?」


 やっと、まばたきが一つ返ってきた。


「どうかした?」

「……………………ぼ、くは」


 僅かに開いた口から声がほんの少し零れ落ちる。


「え?」

「あいされてなんか、ない」

「え?」


 小さな声が紡いだ言葉を必死で頭の中で繰り返し、記憶を辿り寄せてサラはようやく意味を理解する。


「精霊に愛された子って呼び名が嫌なの?」

「…………」


 子供は黙って頷いた。


「そうなの?」

「……だって……なにも……ない」

「ない……?」

「………………」


 再び反応しなくなる相手を見て、サラは途方に暮れそうになった。

 子供の相手は苦手なのだ。

 子供だと知っていたら近づいたりしなかったのにと思う。


「えーっと、アスカ、でいい?」

「…………」


 微妙に変わった表情を見て、いいという返事なのだとサラは判断する。それから、膝をついてアスカと視線の高さを同じにした。


「……辛い事があったの?」

「……………………」

「え、ちょっと!」


 さすがに、何の前触れもなくいきなり両の目からぼろっと溢れ出てきた涙には冷静な態度を崩される。


「どうしたのっ? 何かあったの!?」

「…………」


 こぼれる涙を溢れさせまいと必死に大きく目を見開きながらアスカは小さく肩を震わせた。


「大丈夫……?」

「……知らないっ」


 しかしすぐに堪えきれなくなったのか、アスカは膝を抱える腕に顔を埋めてしまう。


「なんでもない……っ、ごめんなさい、行って……。大丈夫……」

「大丈夫には見えないわ……」

「み、みえなくても……、い、言わないで……、知られたらこまる……っ」


 嗚咽の合間に絞り出された声はサラの胸に重く沈んでゆく。

 こまる、という表現は、泣いたことを誰かに知られたら恥ずかしいという感情には当てはまらない気がした。


「なんにもない、ないよ、忘れて、いわないで……」


 特別扱いゆえに、その環境は特殊なのだろうとサラは思った。

 けれど、教会が判断した特別ならば、本人が嫌がろうが周りが不満を囁こうが、精霊の教えに繋がる道なのだと、そう思った。




 その時にはそんな風にしか考えなかった自分に、今でも腹が立つ。

 精霊に愛された子を探しに来た修道師に連れられていく小さな背中が、いつまでたっても脳裏から離れない。

 それは繰り返される悪夢に近い記憶だった。


「……だいじょうぶ」


 夜明け前の薄暗い空気の中、図書館の館長室の片隅で眠りから身を起こしたサラは、今さっきまで見ていた夢を思い返しながら、誰にともなく呟いた。


「何もなくなんかないわ」


 自身に言い聞かせるように呟いて、胸元に下げた石にそっと手を伸ばす。


「私のをぜんぶあげるから」


 それは暗闇の中で青色の光を帯びていた。



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