第35話 あの子が一番逃げられないの
「……行ったみたいだ」
足音が去ってしばらくしてから、スティアさんはおれの口から手を離した。
「あ、あの、あ、ありがとうございます……」
「なにか、怖そうなのに追いかけられてたね」
「は、はい……」
「僕は人ごみが苦手だから、いつもこの辺りで適当に寝てるんだ。見たら君が追いかけられててこっちに来るから」
「………………」
「とりあえず助けてよかったかな?」
「はい……助かりました」
「いったい何があったんだい?」
「……えーっと」
一言では説明が難しい。
どう説明したものかと眉間にしわを寄せて考える。
正直、自分でもなぜあんな状況になったのか理解しきってはいない。
「あーあのー、あの人……、昔の……知り合い、みたいなんですけど……、おれ、思い出せなくて……、それで、怒らせちゃった……ような」
とりあえずこの説明で嘘ではないはずだ。
「あぁ、忘れちゃったのか。まぁよくあることさ、この人誰だったっけってこと。ははは、そんなことで怒ったのか」
「……あー」
そんなこと、と言われると、なんだか相手に申し訳ない気もする。
「…………もしかしたら、……仲、良かったのかも」
おれの場合、関係が薄かったから忘れたとかいうよくある話ではない。
悪いのはおれという図式は大いに成り立つ。
「え、仲良かったのなら覚えてるだろう? 忘れられるような付き合いしかしてなかったのに忘れられて怒るなんて、勝手な奴だよ」
「………………」
とっさには答えられずに、おれは視線を彷徨わせた。
「……に、逃げたのが……怒った、のかも……」
「ん?」
「…………どんな知り合いだったのか、……ちゃんと、話聞けば、良かったんですけど……、逃げちゃって……。だから」
「それで追いかけっこに?」
「はい」
「逃げたのはなんで?」
「えっと……」
「怒ってたから? だから怖くなって逃げた?」
「いやっ、その、逃げるまでは、怒ってはなかった感じで……、でも、なんか……怖かったんです……」
「んー、そう」
スティアさんは急にそれ以上の興味をなくしたように答えた。
「まぁいいさ。このあと書庫に行こうと思ってたんだ。また付き合ってくれる?」
***
「何やってるのよ!!」
館長の執務室で、少女の怒気を含んだ鋭い声が響く。
「追い掛け回したって何なの!?」
サラは事務机を叩いて怒りを露わにする。
「あいつが逃げるからだ」
むすっとした声で壁にもたれながらイリヤは答えた。
部屋のソファに座っているジュリは、二人のやりとりを黙って聞いている。
「アスカが逃げたくなるようなことをしたってわけ!? 何をしようとしたの!?」
「………………」
イリヤはサラからは視線を逸らしたまま黙り込む。
事務机に身を乗り出しているサラの指先は力が入ってかすかに震えていた。
「……だって、悔しいだろ」
ポツリとイリヤは呟く。
「見せ付けるみたいに忘れやがって」
「アスカはそんなつもりで忘れたんじゃないわ」
「つもりでもなんでも、事実、あいつの中で俺たちのことは忘れたい過去なんだよ」
「…………」
返事をしないサラに、イリヤは視線を向けた。
「思い出したくないってなんだよ、しかも無意識でとか……なんなんだよ」
「……今さら、何言ってるの」
サラはイリヤを正面から見据えて静かに言う。
その青い色の視線を受け、イリヤは目を逸らした。
サラは自身を落ち着けようと、慎重に息を吐く。
「…………サラには……今さらかもな」
小さな声でそう言ったイリヤの言葉の続きを、サラは待つ。
「俺は考えないようにしてたよ。俺らとあいつの違いなんて……、そんなものないって思ってた。俺たちは仲間で、同じものを共有してて、してる覚悟も背負ってるものも同じだって……」
何かを振り払うように頭を振ったイリヤは壁から背を外してジュリの隣へ座り込み、天井を仰いだ。
「ここに来て三年ってさ……。そんな経ってんのに、あいつ、まだ一番年下なんだぜ。じゃあ、あの時いくつだったんだよって、俺初めて考えた……。……同じなわけが、なかったんだ」
「でも逃げられないわ」
「………………」
「あの子が一番逃げられないの」
イリヤは深く、ゆっくり息を吸った。
「サラはすげぇよ。俺が今さら考えたこと、最初から全部分かって背負ってたんだろ」
「…………」
「俺にも背負えるかどうか、試してみようと思ったんだ。……結局逃げられて、試せずじまいだ。……でもまぁ、試すって思ってる時点で背負う覚悟はできてねえよな」
「……思い出させようとしたの?」
「あぁ」
「それは私がやるって言ってるでしょ」
淡々とサラは言う。
イリヤは眉間にしわを寄せ、瞬きをする。
「なんでそこまで嫌われようとすんだ?」
「別に。必要だからやるだけよ」




