第10話 幸せの中死ねたのかもしれない ★
悲鳴が聞こえたのは通りの南側からだった。
人が走ってくる。一人や二人ではなく、何人もだ。
「な、なにっ?」
「やだ、ちょっと……」
「に、逃げようっ、普通じゃない……っ」
診療所の周りに集まっていた人たちは、危険の正体が分からないままだったが、何人かが恐怖に駆られて通りの北側へと走り出す。
だがおれたちには、足の骨折を治療したばかりのエリックさんがいて、走って逃げる選択肢はそもそもない。
「何……? 何なの……?」
「お、俺はいいから。とりあえず逃げた方がいい」
「いやっ、あたしここにいる!」
「いいから!」
「待て、集団パニックかもしれん。見極めずに動くのは危険だ」
リズとエリックさんが押し問答をするのを、じいちゃんが止める。
「だが……!」
じいちゃんの判断は冷静だ。
それでも、不安をぬぐい切れないエリックさんが反論をしようとした時である。
ガン、と。
殴られたような衝撃が頭に響いた気がした。
「……い、ぅあ……」
何もなかったようには振舞えず、思わず呻き声が出て、膝から崩れ落ちてしまう。
「何!? どうしたの!?」
「おま、またさっきのか!?」
「ルイ!?」
話しかけられるも、何を言われているのかがいまいち理解しきれない。
「……い、たい……っ」
「痛い!? って頭か!? 頭痛!?」
尋常ではない痛みだった。
地面に倒れこみそうになるのを、誰かが支えてくれる。
おれは頭を押さえながら必死でこくこくと頷いた。
頭の中で何かが暴れている気がする。
直接頭の中をかき混ぜられているような。
「う……ぐ……っ、いや、だ……っ」
「しっかり! しっかりしろルイ!」
「あ……ぁ……」
視界がぼやける。
おれが今見ているものが、現実なのか幻なのかが分からない。
ふと、赤く光る眼が見えた気がした。
「まも、の……」
そう、赤く光る眼は、魔物だ。
人間とは存在の仕方が異なる、別の理の生き物……。
「まもの!? 魔物って言ったか!?」
一際大きな、断末魔のような悲鳴がすぐ近くであがった。
「……はぁっ」
苦しい呼吸の合間、悲鳴のした方向にかろうじで視線を移す。
そこにいたものの姿は、乱れる視界の中でもハッキリ見えた。
黒い、大きな獣。凶暴な光を宿す赤い目に赤黒い液体の付いたぎらついた牙。
鋭そうなカギ爪に、犬か狼を思わせる、しかし、それらよりはるかにがっしりした体躯。
「嘘……だろ」
ノエルの声がぽつりと耳に聞こえてきた。
都市の外――人の生活圏から大きく外れた地域にのみ存在する、魔力で実体化させた生身を持つ生き物。それを魔物と言うらしい。
だけど都市の住民のほとんどは、図鑑で描かれる絵を目にするだけで、本物を見る機会なんてないという。
都市の周囲には、魔物よけの設備が設けられているからだ。
でも、目の前にいるのは、明らかに本物だと、分かる。
「きゃ、きゃああぁ!!」
「逃げろ!! 逃げろぉ!!」
恐怖に駆られて逃げ出す人たちから真っ先に、魔物は爪や牙を立てていく。
まるで大量の絵の具でも撒かれたかのように、あちこちの地面が一気に赤く染まった。
「い……やだ……」
怖い。
本当に恐ろしい光景だ。
「もう……」
こんなの、怖くて当たり前だと思うのに、何かが違うと言っている気がする。
「……っく」
本当に、おれは、これが怖いのだろうか?
「や……」
怖い。
嫌だ。
もう、許してほしい。
「うぅ……」
誰かにぎゅっと抱きしめられる。
そのぬくもりに縋りたかった。
そうして、すべてを終わりにできたなら。
幸せの中死ねたのかもしれない。
***
「嘘……だろ」
まさしく地獄絵図。
そうとしか言いようがない光景に、ノエルはポツリと呟いた。
魔物は動くものから狙うのか、逃げ出した者から命を奪われている。
じっとしているしか術はないが、動かなければ順番はいずれ来る。
「…………」
絶望するしかない状況だった。
魔物が一匹、ノエルたちの方に視線を向ける。
リズがびくりと体を震わせたのがノエルにも伝わってきた。
ルイは魔物に虚ろな目を向けながら、痛みにうなされている。
ノエルはリズとルイを庇うように抱きしめて、魔物に背中を向けた。
三人の中で一番体格のいい自分が盾になれば、ほか二人は僅かでも生存率があがるのではないか。
無駄と分かっていてもそれくらいしか望みは残されていなかった。
「いや……」
リズの小さな絶望の声がノエルの耳に届く。
「いやあぁああ!!」
リズの悲鳴で魔物が向かってきているのを悟ったノエルは身を硬くした。
痛みと死を想像して、リズとノエルを強く抱きしめてノエルは目を閉じる。
「…………」
だが、死はおろか、痛みすら、いつまでたってもノエルには訪れなかった。
「……?」
目を開ける。
すぐ目の前に、呆然と前を見つめるリズの姿。
「…………ルイ?」
ルイの姿がない。
ノエルは後ろを振り返った。
「…………」
そこには、黒髪を風になびかせながら、魔物と戦う少年が一人。
「…………ル、イ……なの、か?」
姿かたちは先ほどまで腕の中にいたルイそのものである。
だが纏っている雰囲気があまりに違いすぎて、ノエルはほとんど独り言に近い声でそう呟いた。
既に地面には何匹か魔物が横たわっている。
それらは灰が崩れるように綺麗に端から風に溶けて消えていった。
ルイは、正面から牙を剥いて襲い来る魔物を半身になってかるくかわし、すれ違いざまに手に宿した光を魔物の横腹に叩き込む。
余裕すら感じさせる動きである。
魔物はその一撃で地面にどうっと音を立てて転がり、それっきりだ。
数いた魔物たちは、流れるようなそのルイの攻撃にあっという間に散り果てていく。
そこにいた誰もが、言葉もなくその光景を呆然と見つめていた。
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