アスファルトに祈りを
気取った高校生の馬鹿げたお話です。
私の暮らす地域はやや田舎寄りなところがありますから、コンビニへ向かう途中に、空き地の草むらを所々に見かけます。都会の人々がどのように季節を感じているかは知りませんが、私は、ここにススキがしゃらしゃらと、煌びやかに揺れることで秋の訪れを意識する次第です。コンビニでよく分からんフェアが開催されている頃合いではありますが、まず早くに、自然から季節を感じることが人として健全であり幸福だと思い込むことが、季節の楽しみ方になっているように思えます。
高校生という身分で、なに生意気な分かった口をとお叱りを受けるかもしれませんが、自分なりの価値観、それに浸ることの何が悪いのでしょうか。オマエはファッションで秋を感じろだの、そのような若者らしさを押し付けられる筋合いはありませんので。私はただただ、私なりの秋に浸っているだけです。
住宅街を抜けますと、県道の大きく開けた場所に出ます。そこを沿って歩きますと十字路に辿り着き、斜め右方向の角にありますコンビニエンスストア。私の行き先はそこです。ちょっと普段よりも緊張しつつ、横断歩道を渡り終え、近代的な店への入店を果たします。
現代人のくせに、若者のくせに、どこか上の空で店内を散策し、お目当てのサイダーとだんごを購入して退店。少し夏の暑さも落ち着いてきた今日この頃ですが、今年の夏はそれにしても長かった。ですから、この涼しさを少しでも味わえるように生きていきたいものです。
青空は天高くあるようで、山並みは遠く薄くあるようで。私は整備の行き届いていないアスファルトの大地、それから細々と発展途上の街を歩きます。なにも不思議ではないこの世界を、大して神秘を感じられない町を、私は帰路として歩むのでした。
「自然の魔力ってやっぱりすごいと思うんです」
家に帰って、窓の近くにあるタンスの上にだんごとサイダー、それから小さな花瓶を置くと呟きます。夕飯を喰らい終え、外も真っ暗で満月が輝きだした頃、私はこれまでのことを振り返ることにしました。
***
あれから私はどうにも気分がおかしいようです。あれから───親戚のカボチャ収穫を手伝った夏のこと。男手が欲しかったらしく、月のお小遣いも増やして貰えるという甘美な父の誘いに乗ることになりました。今にしてみれば、第一次産業に携わる若者が年々減少している事実をまるで理解していないがゆえの軽率な了解だった思います。
カボチャの花言葉は広大。冷房の効いていない軽トラに乗せられ、私たちは広大な畑へと向かったのです。周囲には他の農業従事者の管理する所もあり林檎林が涼しそうに葉を揺らしておりました。電子機器に触れることの多い私でさえどこか季節の趣を感じられる光景で、思えば、ここから私は気分がおかしくなったように思えます。多感な時期に自然豊かな空気を吸えば、どこか詩人になったような気分に浸れることから、なんだか澄ました態度を多くとるようになったのです。
もっともそれだけ精神的に余裕を持っていても、南瓜の収穫を始めてしまえば元の私に戻ってしまうのですけれど。なにせ南瓜畑とは名ばかりで、そこには背の高い雑草で埋め尽くされた草原だったのですから。これを知っていれば二つ返事で手伝わなかったでしょう。来年は同行いたしません。
率直な感想は絶句。草をかき分けながら隠れた南瓜を探し回る。拾った南瓜はコンテナに詰める。真夏の陽射しが精神と肉体を蝕み、体の底から疲労感がじわりじわりと生じてくるのを自覚しながらも気合で体を動かす。これを一時間続けて少し休憩をはさむ。コンテナを裏返して椅子にして腰をつけ、10分ちょっとで再開。長距離マラソンの際に途中で歩いてしまえば走り直すのが大変なように、休憩を挟めば挟むほど体の動きが鈍くなりました。
それでも一度やると決めたなら貫き通さねば格好悪いため、ほぼ根性だけでやり切るのでした。お手伝いを終えてその日の夜はやり切ったという気持ちしかなく、シャワーで体を流し、すぐさま寝るのでした。
***
異変が起きたのは翌日の朝でした。夏期休暇は平生の私でしたら午前十時起きなのですが、この日は変に目が覚めました。スマホの電源を入れると朝の六時半過ぎ。妙にすっきりとした面持ちで窓を開けてみると、とても冷涼な風が吹いてきたのです。
夏の籠った気温には飽き飽きしてしまうものですが、ここで流れて来る夏風は、なんだか穏やか。
これに思うことが何かあったようで……。
「洗剤の 窓から香る 夏の朝」
とか俳句を詠んでしまうくらいでした。この些細な変化に内心動揺するのでしたが、いかんせん悪い気はしません。むしろこれまでの品のない言動・思考が全て空虚に感じてしまい、人として本来あるべき姿なのではないかと悟りを開くのでした。
私はおもむろにパソコンの電源をつけ、著作権の切れてしまった小説を無料で読むことのできるサイトへアクセスしました。それから一時間ほど有名な文豪の短編小説を少し読んでいると、お腹から物欲しそうな音が鳴り出しました。
なんて文化的な暮らしなのだろう。余分の無い余暇の暮らし、と言うのでしょうか。娯楽が飽和してしまった今の時代には非日常のように思われ、私は思わず微笑んでしまいます。
夏休の間はこのような生活をずっと送っておりました。本を読んで、映画を観て、クラシックを聴いて、大正時代か昭和の暮らしの真似事をするのでした。こうした旧い娯楽をなぞってみると自分には教養が足りていないことを自覚させられます。
知らない歴史、知らない漢字、知らない慣用句。物事を楽しむには知識が必要不可欠なのです。
それから私は漢検のテキストを購入したり、中学生の頃の教科書を引っ張りだしたりして勉強に黙々と励むことにしました。そうすると現代の歪みに気付くところがあります。
娯楽は飽和し、沢山の楽しみが増えたのに、一つ一つを果たして私たちは充分に楽しみ切れているのでしょうか。本に綴られた文字の羅列を果たして充分に楽しめているのでしょうか。
小説は昔よりもバリエーション豊かになったというのに、読めない漢字が沢山ある。言葉も概念も増えて厚みも増しているというのに、私たちはこれを巧く使う努力さえなかなかしない。
なんて空虚な暮らしなのだろう。
一つ一つ流れていく時間を想えば、今までの私は酷くつまらない存在だったと感じます。
夏の風を全身で浴びてみれば、香りと温度に何か思うところがありました。
***
けれど世界は無駄を愛するようです。黒板に綴られたチョークの文字も、同級生は安眠の音として消費する者も少なくはありませんでした。モノがありふれて、疲れ切っているのかしら。
『ファ〇トクラブ』が頭に過ります。けれど黒板を割ったり、直接的な行動はしません。ただただため息をつくだけなのです。
空虚で意味もなく風情もない、こんな毎日。意味だけ追い求める暮らしは窮屈すぎるのかもしれませんが、かといって周囲は堕落が過ぎているように思われました。放課後のチャイムを聞くと私はすぐさま下校し、真っ直ぐに自室に帰りました。
「……」
インターネットポ〇ノが発達した結果、中毒になった人たちは脳の働きが鈍化すると聞きます。モノが充足するのは良いこととは限りません。貧困に憂うことがあっても、農作物が大量にあれば消費に困るだけ。
そのように考えると現代での暮らしは傲慢が過ぎるのだと思います。科学の蔓延った現代は気持ち悪いです。アスファルトの下には何が眠っているのでしょうか。
神々の怒りではなければ良いのですが。
***
十五夜のお昼。休日、窓の外を眺めていると、小さな子供たちがサッカーをしておりました。住宅街の道でそのような遊戯はちょっと危険ですが、昔、私にもこのような時代がありました。思わず彼らを二階の窓から眺めてしまいます。
それは数分後の出来事でした。隣の家から何か人が出て来るではありませんか。中年男性の男は子供をなにやら叱りつけているようで、子供たちはしょぼくれて、どこか別の場所へと向かいました。
今の中年男性には見覚えがあります。確か高校へ行くときに乗る電車でよく見かける人でした。寡黙でスマホをいじっていて、ちょっとはげかけている人。
子供たちがいなくなったのに満足したかと思えば、彼は再び家へ戻りました。
そういえば私も似たような経験がありました。確か住宅街で鬼ごっこをしておりましたら、近隣住民の方に「具合の悪い母が眠っているので静かにしてくれないか」と注意されたのです。きっと彼も似たようなことを言ったに違いありません。
窓を閉め、一息つくことに……しようとした刹那、私は醜悪を目撃しました。先ほどまで見ていました窓とは違う窓から、先ほどの男性が、名状し難い異常行動を行っているではありませんか。
昼間っから、カーテンも閉めず、醜悪な裸体で一人……。
私はこの時ほど、娯楽の充実を恨んだことはありません。
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「自然の魔力ってやっぱりすごいと思うんです」
私はタンスの上に設置した花瓶に、さっき草むらからとってきたススキを一つ差し込みました。
しゃらしゃらとしたススキの色は決して黄金ではありませんでした。
月見でなぜススキを飾るのか。これは魔除けであったり翌年の豊作に対する祈りであると言われております。月見だんごが月を、ススキは稲穂としての配役とのこと。
ただ稲穂と違い、やっぱりススキの穂は渋すぎる。ましてやだんごは月ほど美しくはない。南瓜収穫の手伝いをする前ならそう思っていたかもしれません。しかし今は違います。
───だんごを月に、ススキを稲穂に見立てることが大事なのです。
満月が窓の外から面妖に輝いております。この季節の月の光はほんとうに綺麗であり、夜空の色もなんだか品があるように思われます。しゃらしゃらとしたススキの穂が、まるで空から、現代の薄汚れた黒を払い、純粋な夜空に変えてしまったかのよう。魔法の杖みたい。
私はこの光景にうっとりすると、そっと瞼を閉じます。
やはり高校生がこんな風流なことをするのはうすら寒いでしょうか。キザでしょうか。
ですが、そんな周りのことなどどうでも良いです。私の思惑は私だけが知るもの。決して今感じている幸せは、誰かのためのものではありません。
───自分の気持ちを解消させるための月見なのですから。
そういえば家の前のアスファルト、亀裂が入っていたっけ。そんなことをふと思いながら、私はニタニタ笑って目を開けるのでした。
『アスファルトに祈りを』───<了>