9話 距離
許斐ひかる 朝はパン派 食パンにはバター
桑野綾人 朝はパン派 食パンにはチョコクリーム
「もう、桑野は俳優として売り出すんですか?」
いつかのタクシーでの移動中、マネージャーにそう聞いてしまったことがあった。窓の外を流れ星のように街灯が駆けていく様をぼんやり眺めたまま、ついそんなことを聞いてしまった。
マネージャーは明確には答えずに、許斐さんは同じ仕事したいですよね、と独り言のようにつぶやいた。
俺もなにも言えなくなって、黙ってしまった。なんと無く遠慮してしまって、桑野とはあまり連絡も取っていない。
俺たちの事務所は小さいから、なるべくタレントが売れる道があるならそこで売り出したいはずだった。
桑野は芸人としては地味な印象だった。器用な分モノマネも大喜利もなんとなく並くらいには出来たけど、そんなレベルの芸人なんてわんさかいるから桑野が目立つことはなかった。
そもそも桑野は俺に誘われて芸人になったのだ。本当にお笑いがやりたかったのか、今もなお続けたいと思っているのか、正直俺には分からなかった。
だから余計に俳優として評価されたのなら、そっちに伸ばした方が良いと思ってしまう。
桑野も仕事を断っていないのだからきっと演技の仕事も楽しいのだろう。
ならきっと、そっちの方が良いんだと思う。
帰ってから桑野が出ているドラマをかけた。
もうそこそこ主要の役で出ていて、画面いっぱいに桑野が映った時は驚いてしまった。
少し痩せたらしく、スタイルもフェイスラインもスッキリしていて、なんだか本当にカッコよかった。意外とこう見ると鼻筋も通ってて輪郭も綺麗な形をしていた。長めの前髪をラフに散らした髪型も似合っていた。
金がなくてカーディガン羽織って漫才してた頃の影がもう無かった。
美容室にいくのをサボった桑野のだらしなく伸びた襟足に、俺が文句をつけていたのが嘘みたいだった。