13話 本音
特に若手の頃、小さいライブの企画だったりど深夜のバラエティだったりに呼ばれると、キスまがいのことをやらされたり、正真正銘のキスもやら無いといけない時があった。
俺たちはそれがどうも苦手で、変に躊躇してもたついてしょっちゅう流れを壊していた。
だから慣れておこうっていうのもおかしな話だけど、本気でそう提案して練習したことがあった。かなりお互いキスに慣れてきた頃、喧嘩が長引いてめんどくさくなった俺が、文句をぐちぐち垂れる桑野に対抗するために無理にキスをした日があった。唇を離すと桑野がビックリして何に怒っていたかを忘れていて、喧嘩があやふやになって終わった。
この成功体験以降、俺たちの中でキスは喧嘩を有耶無耶にして終わらせる手段の一つになってしまって、ピリついてどうしようも無くなった時は唇を合わせて、なんとなく無かったことにするようになった。
今思うと本当におかしな話で、誰にも言えないくらいの酷いことをしていたと思う。
でもあの時、どうしようもない焦燥や漠然とした不安を見ないようにするには、相手にぶつけないでやり過ごすには、もうそうやって強引にスキンシップを取って、相手に甘えるしか無かった。
そっと桑野が唇を離した。
ふわっと知らない香水の匂いがする。
あの時はもっと若かった。稼ぎも無くて、先が見えなくて、いつもいつも不安で。
苛立ちを遠慮なくぶつけられるのも、支えてあげられるのも、全部お互いだけだった。お互いが一番の理解者で味方だった。
もう今は違う。
お互い、別の場所にちょうどいいところを見つけてしまった。なんとなくもう、お互い1人でもやっていけるんだろうなって、分かっていた。
桑野の肩を掴んでまたキスをする。
そのまま肩を押してゆっくり押し倒した。
下唇を柔らかく噛んで、緩んだ唇の間から舌を挿し込む。唇を離した時に足りないなって思わないで済むくらい、じっくり口の中を舐った。桑野はされるがままだった。
唇を離してじっと見つめた。もうこんな風にキスしたって、何も良くはならなかった。
明るい色の髪が、キャラメル色にふわふわ光っていた。眉の印象も違う。ちょっと整えたくらいかもしれないけど、一気に垢抜けた感じがあって、桑野じゃないみたいだった。
「…許斐が出てる番組とか、ラジオとか、ほんとに全部観てるんだよ俺」
ぽつぽつと桑野が喋り出した。
「ライブも配信があれば買ってた。相方が何してるのか知りたかったし、友達が活躍してるところはちゃんと観たかったし、…あと単純に、面白いから」
「……うん」
「いつも天才だなって思ってた。今1人で色々やってるの観てても、許斐はやっぱ天才なんだなって思う。ラジオだって、1人でもすげー良かった、俺普通に楽しみにしてたもん」
数年前、深夜番組にオファーが来た時、桑野が『許斐が見つかって良かった』と言ったことを思い出した。
「そもそもずっとお前のことはすごいと思ってて、人生預けていいやって思ったから、お前に誘われて芸人になった」
「初めて聞いたよ、そんなの」
「普通言うわけないじゃん」
あははとまた桑野が笑う。これくらいよく笑うところも好きで、俺はこいつを誘った。
「…許斐は1人でもやってけると思う。許斐は才能あるから、俺が居なくても平気だと思うよ」
「でも楽しくないんだよ」
これ以上聞くのが怖くなって、遮るように口を開いた。
「楽しくないよ。1人でやってても。芸人目指したのは、桑野と漫才やったのが、楽しかったからなんだよ」
「…俺もそんなの初耳なんだけど」
「当たり前だろ言うわけないじゃんこんなの。…俺はさ、あんまり器用じゃないから。楽しいな、やれそうだって思ったことがこれしか無かったし、それもお前としか考えられないの。正直桑野より面白いやつなんかいっぱいいるけど、一緒にやりたいのは桑野しかいないんだよ」
「…嫌だった?俺が芝居の仕事ばっかになったの」
「…………そんな、簡単に嫌って言える話じゃない。だって、向いてたし。俺だって観てたよお前が出てるやつ。カッコよかったよ、サマになってるし引き込まれるし。せっかくそれで売れたならって思う。応援はしてた。…でも寂しい。1人になったのは嫌だった。それも本心だよ」
ずっと思っていて、ずっと言えなかった言葉が、堰を切ったように溢れた。もう、今日ちゃんと伝えないと桑野が離れてしまう気がした。取り返しがつかなくなりそうで、怖かった。
あともうちょっとだけ若かったら、お笑いだけやってくれって無理にでも桑野を止めたと思う。本気でやりたい方だけやってくれって。俳優なんか本業の綺麗な人には勝てないんだからやめろって。
でも俺も大人になってしまったから、もう反対は出来なかった。それに、向いてないって嘘でも言えないくらい、桑野の演技は良かったのだ。もっと観たいと思ったのも事実だった。
だけど1人ではやりたくない。
楽しくない。
2人で売れたかった。
我儘だけど、俺にとって一番大切なところは、楽しくできるかどうかだったから。