第六十一話
その花の名前を、私は知らない。
だけれど、その香りを、形を、私は良く知っている。
上向きに花を咲かせるそのロウト状の花は愛らしく美しい。
色は複数あるそうだが、あの男は白を好んで私の元に持って来ていた。
『この花はね、君にぴったりなんだ』
あの男のうっそりとした笑みが、頭から離れない。
ああ、ああ、どうして。
私が幸せを掴むその手を絡め取るような、この気味の悪い感触に体の震えが止まらない。
「……ヘレナ、大丈夫か?」
「アレン様……」
わかっている、私には守ってくれる夫がいる。
頼もしい味方もいる。
そんな彼らの目を盗み、あの男は私にこれを贈ってきたのだという恐怖に屈した私が愚かなのだ。
「申し訳ありません……たかが、花で」
「いや。大丈夫だ。大丈夫……俺がいる」
「はい……」
私はアレンデール様に話した。
この花は、ユルヨが好んで私に持ってきていた花だと。
館の使用人たちに聞き取り調査をしてみたところ、近くの町に買い出しに行った侍女がそこの蚤の市で珍しい花を売る商人に出会って勧められるままに買ってきたそうだ。
ここらで見ない花だからと庭師にも確認を取り、毒性がないことを確かめた上で私たちの寝室に飾ってくれたということだった。
その侍女は何度も謝ってくれたけれど、彼女が悪いとは思わない。
珍しい花で、私たちの目を和ませようとしてくれたのだ。
毒性についても確認してくれていたのだし、どうして咎められようか。
(花言葉は『偽りの魅力』だったわね)
花の名前も知らないのに、花言葉を知っている。
あの男が私にそれを教えたから。
その意味が私に対して何かを揶揄していたのか、ユルヨ自身を示していたのかはわからない。
私にぴったりだと笑っていたあの男の気持ちなんて、わかるはずもない。
わかりたくもない。
「……ユルヨがこの領にいると考えた方がいいのでしょうか」
「どうだろうな、人を使っているという可能性も否めない。侍女に人相を尋ねたが、アールシュやヘレナから聞いた人相とは違っていた。勿論、変装の可能性もあるが……」
「そうですか……」
あの男は、私が人形のようになることを楽しんでいた。
では、今の私が好みではないから再び壊しに来たのだろうか。
それとも、私が怯える様を想像して楽しむためだろうか?
いずれにしても悪趣味だ。
(……幸せを、守りたい)
手にしたこの幸せを、笑い合っていける相手と巡り逢えたこの小さな幸せすら許されないのだろうか。
私は震える自分の手を押さえ込むようにして、ぎゅうっと握りしめた。
「アレンデール様、私、決めました」
「ヘレナ?」
「私、悪辣姫になります。噂にあるようなことはできませんが、あの男にとっての悪辣な女になってみせます……!」
怯えて目を閉じ耳を塞ぐ自分には、決別したのだ。
私はもう一人ではない。
独りでいなくていいと、そう教えてくれた人が傍にいるのだから。
「……わかった。俺は何をすればいい?」
「これから社交に力を入れます。ですから出かける際には隣にいてくださいませ。それから、この館で社交をする場合にも夫人方に時間が合う範囲でよろしいので、ご挨拶をいただけたら」
「その程度でいいのか?」
「ええ」
ユルヨの狙いは私が怯え、引きこもることにあるはずだ。
外に出てきてもあの男の影に怯える私を見て、暗い喜びを得るのかもしれない。
(堂々としよう)
噂にあった悪辣姫は、誰にも媚びず、己の道を進んでいた。たとえ悪名を轟かそうとも。
勿論それはただの噂の一人歩きにすぎず、そんな女性はどこにもいないけれど。
(それでも、もしも私が噂にあるような『悪辣姫』として堂々と振る舞えたなら)
ユルヨは、ユルヨが作り上げた強い『悪辣姫』と同じような私を見て、何を思うだろうか。
苛立ちで去るだろうか、それとももう一度壊そうと思うのだろうか。
これまで尻尾を掴ませない男が、そんな単純なことで私の前に姿を見せるとは思わない。
だけれど、私はアレンデール様の妻として、立ち向かわなければいけないと……そう強く思うのだった。
花のイメージはダチュラ。




