第五十八話
「ユルヨ・ヴァッソン……ですか。その名前は確かに耳にしたことがございますよ」
「まあ、そうなのね」
「ええ、ええ、ご高名な方ですとも」
言外にある『いろいろな意味で』が伏せられているのは、善意かそれとも?
ああ、こんな駆け引きを世のご令嬢や貴婦人たちは茶会で行っているのかと思うと、気が遠くなりそうだ。
これまで目と耳を塞いでいられたことが、むしろ私にとっては幸せなことだったかもしれない。
その代わり無力で、何もできないけれど。
どちらがいいのかなんて、答えはきっと出ないと思う。
私が臆病なのは変わらないだろうし、それでもアレンデール様のために何かをしたいと願う気持ちも変わらない。
(ああ、困ったわ)
お茶を飲んで誤魔化すにも、私は上手く誤魔化せていない気がする。
ここでどう言葉を繋げばいいのか、皆目見当がつかない。
「……エアリス様はシュタニフ先生繋がりで紹介していただいたのだけれど、ジャック様はシュタニフ先生とは?」
「まだお目にかかっておりません。本日もモレル辺境伯領を散策に出ておられるとか……」
「ええ。バッドゥーラのお客人と話が合うようで」
ユルヨについて聞きたい。
だけれどこういう場合は前のめりに質問をしてはいけない、そう教わった。
だから私は何でもないことのように流して、そして別の話題で、ええと、それから?
なるべく表情に出さない、という点では得意だけれど頭の中は必死だ。
それでも何も思いつかない。
本当に、教育というのは大事だなと心の中で苦笑した。
「……エアリス様、もう無理ですわ」
「そうですわね、でもよく頑張りました」
私が降参の言葉を口にすると、楽しげにエアリス様が笑った。
きっと彼女は、私がいつ降参するのかを見守っていたのだろう。
でも頑張ったという言葉をもらえて、少しだけホッとした。
「わたくしが思っていたよりもずっとお上手でしたわ! 夫が警戒するくらいには」
「えっ、これなんかのテストだったのかい!?」
「ええ。わたくしが言葉を尽くすよりも、商人としてのあなたの目を信じてのことですのよ? それと、ヘレナ様のお茶会の経験になってもらおうと思って」
「……いやはや、これは妻が大変失礼を、いや自分も何も知らされていなかったからとはただの言い訳に過ぎませんね」
苦笑するジャック様は軽くエアリス様の方を睨んだようだけれど、エアリス様はどこ吹く風だ。
咳払いを一つして、ジャック様は改めて私を見る。
「どうやら辺境伯夫人は随分と妻に気に入られたようで……同情いたします」
「えっ」
「ちょっと、あなた?」
「ですが妻が大切に思う相手は自分にとってもそうでありたいと思いますし、お話をさせていただき聡明な方と思いました。少々腹芸は苦手なご様子ですが、必要な際にはお声がけください。学術書から何から、取り寄せてみせましょう。……物品だけではなく、人も、情報も」
やや早口でそう言われたことに驚いて、思わず目を瞬かせてしまった。
腹芸が苦手、それは確かにと思ったところでどうやら手を貸してくれると言われているような気がして、私はエアリス様を見る。
エアリス様はジャック様を睨み付けたまま、大きなため息を吐いた。
「あなたこそ、素直で可愛らしいヘレナ様を気に入ったのではなくて?」
「やあ、ぼくらに子がいたらこのくらいの年齢なのかなあって思ったらつい」
「まあそうねえ。……わたくしたちは子に恵まれませんでしたの。もうこの年齢ですから諦めてはおりますけれど、ヘレナ様には大変失礼な物言いで申し訳ございません。後できっちり叱っておきますからご容赦くださいませね」
「い、いえ」
私は首を左右に振った。
何かを言わなくては。
「……お二人のように温かな方々が両親であれば、幸せですわ」
出た言葉に、思わずハッとして口元を押さえた。
私は今、なんてことを言ってしまったのだろう。
そんなこと、望んでも仕方がないというのに!
(まだ、親に愛されたかったなんて思っていたの?)
愕然とする。
とっくの昔に諦めて、パトレイア王夫妻を前にしても何の感情も揺れなかったというのに。
「あら、まあまあ! どうしましょ、それじゃあ僭越ながら個人的な場では娘のように思って接しても良いってことかしら? そうよね?」
「ちょ、ちょっと落ち着きなさいエアリス。ほら、夫人が困ってらっしゃるだろう!」
「……私は」
嬉しそうに微笑むエアリス様に、私はどうしてか。
無性に泣きたくなってしまってそれを堪えるのにただ必死だった。




