第五十七話
「お初にお目にかかります、エークス男爵位を賜っております、ジャックと申します。どうぞ、お気軽にジャックとお呼びください」
「ありがとうございます、それでは親しみを込めてジャック様とお呼びさせていただきたく思います。奥方のエアリス様には、いつも大変お世話になっておりますの」
「いやいや、妻もモレル辺境伯夫人と親しくなれて日々が充実しているようで、こちらこそお礼申し上げたいくらいです!」
にこりと笑った恰幅の良い男性は、今まさに自己紹介してきたエアリス様の夫の、ジャック様だ。
男爵位を賜ったという言い方に、今もまだ貴族としての生活に不慣れなのだという印象を持たせるけれど……それはこの人の話術の一つなのだろうと思う。
(これまで、多くの人間からの視線を感じてきたけれど)
大抵は見世物を見る眼差し、侮蔑や嘲笑、それからたまに探るようなもの。
いずれも何も見えないふりをしてやり過ごしてきた私にとって、ジャック様の視線は……そう、見定めるものに似ていると思った。
それこそ、シュタニフ先生と初めてお会いした時のように。
「ごめんなさいね、せっかくこちらまで足を運んでいただいたのに夫は今出かけているの。ご存じかと思うけれど、バッドゥーラからのお客人を今この家ではお迎えしているものだから、夫も張り切ってしまって……」
「さようでございましたか。お忙しいことは良いことです。おっと、これは商人としての考え方でして……」
「ふふ、ジャック様もお忙しいのならそれはようございました」
私はきちんと貴族家の夫人らしく振る舞えているだろうか?
どうしても自信のなさが顔を出す。
こればかりは場数を踏むしかないのだとエアリス様は仰った。
この場に同席している彼女に縋るような視線を向けたくなるけれど、それは許されないことも知っている。
ジャック様とのこの顔合わせは、私にとって社交に出るための、テストのようなものなのだと思う。
相手が女性ではなく男性、それも見知った相手の身内という段階でかなり緩めに設定されたテストであるはずだ。
エアリス様が手加減してくださっていることは、頭で理解している。
期待には応えたい。
だけれど、怖い。
へりくだりすぎてはいけない、だけれど高圧的でもいけない。
どちらにせよ私にはとても難しい。
ほんの少し前まで敵国の王女、そして今は辺境伯の妻という立場はただの嫌われ者の王女だった頃よりもバランスの取り方が難しいのだと、知った。
嫌われ者であった時は、ただ心の耳と目を塞げばそれで済んだけれど……これからのことを見据えたら、それではいけないのだと知っている。
でも、人は急には変われないのだ。
変わろうと努力することはできる。
今がきっと、その努力するべき中でも勇気を出さなければいけないところなのだろう。
「……ジャック様は異国にも歩まれるのよね? エアリス様からもうすでに聞いているかもしれませんが、私は本を読むのが好きなのだけれど……どのような土地に赴かれているのかしら? 書物は手に入る?」
「本ですか。ええ、ええ、承っておりますよ。どのようなものがよろしいですか? 巷で人気の恋愛小説? それとも心躍るような冒険もの? 学術書などもありますし、また妻も愛用しておりますが辞典などもございます」
「まあ、素晴らしいわ」
それは心からの称賛。
どれもこれも、私にとって気になる宝の山に違いない。
だけれど私が知りたいのは、また別だ。
「神聖王国の、歴史書なども手に入るかしら? あちらの文化にも興味があるの。言語学者の先生の下で学び、そちらの言語で本を読めるようになったら文化の違いがとても面白くて」
「ほほう、なるほど! 辺境伯夫人はすごい才能をお持ちですね」
「いずれは専門書などの翻訳などでお役に立てることがあればとは思うのだけれど……まあそれは当分先の話ね。ああ、そういえば」
私はそっとお茶を飲んで唇を湿らせる。
喉が、カラカラだ。
「かつて私の教師に、神聖王国の出身の方がいたのよ。ユルヨ・ヴァッソンというのだけれど……パトレイア王国にいた際はとても高名な方と伺っていたのだけれど、あまり詳しくお話をさせていただく前にお姿をお見かけしなくなったの。ジャック様はご存じかしら?」




