第八十六話
新居として与えられたのは広い邸宅だった。
モレル辺境伯の館よりも大きいのではないかと思うくらいに。
なんでも元は王家の持ち物だとかで、大使館などを新たに作るよりも一旦は完成している建物で過ごしながら文化の違いなどを教え合い、より良いものを作り出す方向で考えていこうという方針にしたのだとか。
皇帝陛下との謁見で、それらの話を聞かされた。
確かに今の段階ではディノス国からの役人はまだ到着していないし、彼らは帝国語を学ぶにも何が必要かを準備する必要もある。
私たちの館と言いつつも大きなその邸宅であれば、役人たちも住まわせて有り余るほどの部屋数だ。
あれこれと今後についてアレン様とイザヤが話し合いながら、使用人たちともカタコトで意思疎通をし、時に通訳として私やドゥルーブさんが参加する。
そんな充実した日々の中で、ユルヨの裁判が行われる日がやってきた。
「……ヘレナ、大丈夫か?」
「ええ。私が参加することであの男がきちんと裁きを受けるなら、断るなんて選択肢はありません」
やはりユルヨが沈黙を貫いてただ罪を償わせるだけでは、心情的に納得できない人も多いだろう。
バッドゥーラでの裁判というものには私たちの知識がまだ追いついていないけれど、多くの方々が傷つけられたのだ。
ただ死刑に処すと決めるだけではなく、その罪の重さを本人に理解させたいと思ってもおかしな話ではないと思う。
でも、ユルヨ・ヴァッソンという男は、決して反省なんてしないと私は考えている。
私を呼び寄せて何がしたいのか、まるでわからないけれど……あの男の考えを理解する必要は、これからもない。
「アレン様、隣にいてください」
「ああ、頼まれなくてもそうする」
驚くほどにあの男に対しての恐怖はない。
ただ、過去の記憶に関しては震えてしまう。
それでも、私はただユルヨの行く先を見届ける必要があるのだと、そう思った。
「罪人を前へ」
裁判所で私たちは一般の傍聴席に座る。
周囲には高貴な立場の姿も見受けられた。
ユルヨが立ち上がり、ぐるりと傍聴席を見回して私に視線を定め、にこりと微笑んだ。
その姿だけならどこまでも清廉で、穏やかな好青年に見えるから不思議だ。
憎しみの籠もった目をいくつも向けられて尚穏やかに微笑む姿には、ぞっとする。
「ユルヨ・ヴァッソン。この法廷に置いて正しく己の罪と向き合うことを誓いなさい」
「誓います」
形式的な誓言から始まった裁判で、ユルヨの罪が滔々と語られ、周囲からは呻き声や怨嗟の声が聞こえて思わず私はアレン様の腕に縋ってしまった。
ああ、どうしてこうも憎まれるほどに恐ろしい所業ができたのだろう。
それらを向けられて尚、裁判官を見つめるあの男は静かに立っていられるのだろう。
「弁解はありますか」
「いいえ。わたしはわたしの心の赴くままに、きちんと彼女たちを愛でていただけです。それが人の道にもとる行為であるとは理解しておりますが、わたしにはその愛し方しかございません」
「……真実にそれが愛だと言い切るのかね」
「ええ。愛は目に見えません。わたしにはわたしの愛がある」
言い切るユルヨのその自信に満ちた声。
確かに愛は見えないものだ。
だからこそ、人は他人からの評価や噂に踊らされて目を曇らせることもあるのだろう。
目に見えないものだからこそ己の感じたもの、信じたいものに惑わされるのだろうと思う。
「わたしはこの裁判で真実を語ると約束しました。わたしの愛する女性がこの傍聴席にお越しくださったから」
ユルヨは、ゆっくりと振り返り私を見て笑った。
その笑みはあまりにも歪んでいて、逆に私を安堵させる。
(ああ、ユルヨは人間だわ。間違いなく人間なのだわ)
あの作り物めいた笑みではない、愉悦に歪んだその笑み。
彼は気づいているだろうか。
私に対して人形であることを望み、己も人形のように振る舞っていた彼は、自身の今の表情に気がついているだろうか。
「貴女はわたしをこの場に引きずり出した。わたしが処される宣言を耳にする。どうです、わたしの死は貴女が引き金だ」
「ユルヨ・ヴァッソン、止めなさい! 静粛に、静粛に!!」
朗々と語られるユルヨの声に、罵声が飛び交う。
裁判官が慌てて大きな声を出すけれど、場は収まらない。
「永劫の傷を! 貴女はわたしを永遠に忘れることができなくなるのだ。ああ、なんて素晴らしいのだろう。なんて」
頬を染め、歪んだ笑みで私だけしか見ていないユルヨ。
その姿に私は知らず知らず口を開いていた。
「なんて馬鹿らしい」
周囲の声にかき消されたはずの私の声は、ユルヨにしっかり届いていたらしい。
彼は驚いたように、ただ私を見つめていた。




