第八十三話
それは、あっという間だった。
私の目には、いつアレンデール様が剣を抜いてどう振るったのかまるでわからなかったけれど……ユルヨが肩を押さえ蹲り、そしてそれをアレン様が見下ろしていることでようやく理解できたといったところだろうか。
私はアレン様が何か言うのかと思ったけれどまさか斬るとまでは思っていなかったので、少し驚いてしまった。
だけれど、抱いた感想はそれだけだ。
「貴様……貴様ア! 何をしたのかわかっているのか……ッ!?」
肩から血を流す男の怒鳴り声に、体が意図せず跳ねた。
でも、恐ろしいとは思わなかった。
(私はやはりどこかおかしいのかもしれない)
本来ならばこのように血を見るのなんて、初めてに等しい。
私は大切にされていなかったけれど、こうして人が争う場所にはいたことがなかったからだ。
アレンデール様が剣を抜いたところも見たのは、初めてだった。
(そういえば、パトレイアではアレンデール様は恐れられていたんだったわ)
ふとそんなことを思い出した私は、ただ状況に追いつけず呆然としていただけなのかもしれない。
周囲の護衛兵が動揺しつつユルヨが暴れ出さないよう再び取り押さえようと動いてくれたのを、アレン様が手で止める。
「俺はパトレイア王国では悪魔のようだと言われたこともあってな。お前は知ってるだろう? ユルヨ・ヴァッソン」
「く、ぅ……くそ、がア……わたし、を、傷つけることは……」
「王家の紋を持っているから手出しされないと思っていたんだろう? ああ、そうだろうな」
アレン様の表情は、私には見えない。
だけれど、その声はとても冷たいということはわかった。
「確かにお前の持つ紋は本物だ。だが……偶然だな、俺も同じものを持っている」
ユルヨがハッとしたようにアレン様を見ている。
私は、ただ瞬きをするしかできない。
「殿下よりいただいたこの紋は、一度だけどのような相手でも切り捨てることを許可していただいたものだ」
驚きから、怒りへ、そして屈辱の表情に変化していくユルヨの顔。
先ほどまであんなにも余裕で、美しく微笑んでいたというのに。
「俺の友が貴様を探している。切り捨ててやっても良かったが……地獄だろうと逃がしてやるわけにはいかない。……あちらへ行くのにいい手土産ができたよ」
笑うアレンデール様の顔は見えない。
私に、ずっと背を向けているから。
くつくつと笑うその姿に、私は前に出て、その背に縋った。
「アレンデール様」
「……」
「護衛兵。その男の手当をするために館に連れて帰ります」
「は、はい!」
私の声に返事をしてくれた護衛兵にホッとしつつ、どうやって連れて行くのがいいのだろうと少しだけ考えているとアレン様からため息が聞こえた。
体の向きを変え、私の肩を抱くようにしてアレン様は護衛兵に告げる。
「……俺は馬でいい。そいつを馬車に放り込め。ヘレナは俺と一緒の馬に乗ればいい」
「かしこまりました!」
「幸いにも、気の利く誰かが人を寄越してくれたようだしな」
「あら」
アレンデール様が、ユルヨを見下ろした。
もう、笑ってはいなかった。
「残念だったな、ユルヨ。うちの王太子殿下はお前と同じかそれ以上に性格が悪いらしい」




