第八十二話
「ヘレナ!?」
私の指示に、アレン様が驚いた声を上げる。
先ほどアレン様があの男の持つ紋章を見て何かを仰っていたので、きっとユルヨは自身を守るための何かを所持していたのだろう。
ただ、私にはそれが何かはわからない。
でも……そう、私は『悪辣姫』だから気にしない。
(……ユルヨは堂々と私たちの前に出てきた、ということは……)
彼は私たちの前にいても捕まらないし、咎められないと思っている、ということで間違いないのだと思う。
それほどに自信があるからなのだろうけれど、少しも痛い目を見ないなんて、許せなかった。
(アレンデール様を傷つけて、私たちを傷つけて)
それでにやついた顔でさも自分が盤上の主人であるかのような振る舞いをするなんて。
確かにそうだ、これまでユルヨの思うがままだった。
私のことも、私の過去もこの男によって簡単に操作されて、多くの人が誤った行動をした。
それは勿論、私や彼らにも責任のある話だ。
だとしても。
だとしても、許せる話ではない。
「アレン様。あの男が持っていたものは……私たちが手出しできなくなる、ものなのですね?」
「……そうだ。あれは王家の密命を受けた者が持つ証。どうしてあいつがそんなものを持っているかは知らないが、もしここで捕らえてもあいつがそれを望めば解放しなければならない」
「そうですか」
理由はわからないけれど思い当たるのは王太子殿下なのだろう。
私たちを早く国外に出そうとしたことを考えると、あの方も何かしら……ユルヨに、大切な人を握られているのだろうか?
(ただ、フルゴーレ様ほど全てを渡すような方には見えなかったけれど)
為政者たちの考えは、私になんてわからないのかもしれない。
ただとても迷惑だなと、そう思った。
「ユルヨ、お前は私を愛していると言ったわね」
「ヘレナ様、ええそうですよ」
組み敷かれてなお、ユルヨは笑みを崩さない。
周囲の目もあるし私が過去に触れられることを恐れていることはすぐに理解した。
私は、アレンデール様の手を握る。
ごつごつとした、剣だこのあるその手は私を守る手だと、今は心から信じている。
「私は姫としてお前に虐げられた過去を恥と思うべきでしょう、けれど残念ながら私は悪名高き『悪辣姫』だから一国の姫が家庭教師に虐げられた過去があろうと、これ以上気にするものはないわ」
「……ッ」
「私が純潔であったと夫が認めて受け入れてくれたなら、過去などもはやどうでもいい。私の愛する男性は、今も、これからもアレンデール・モレルただ一人」
ユルヨが目を見開く。
周囲は私の高らかな宣言にざわついた。
おそらく内容よりも騒ぎに動揺しているだけだと思うけれど。
「だが身ごもったことも、わたしを惑わすための嘘でしょう? ええ、ええ、知っています。ダチュラの花に囲まれて、貴女はわたしに愛でられるべきだ」
「……護衛兵、そいつを解放してやれ」
紋章を振りかざすその男に、アレン様は吐き捨てるようにそう言った。
これ以上は、兵たちが罪に問われてしまうかもしれないからだろう。
王家の紋はそれだけの効力を持っている。
「去れ、ユルヨ。ヘレナがお前を見逃した」
「……」
「お前は愛を得られない。お前の自由はもうじき終わりを告げるだろう」
王家の姫に手を出し、王家の紋を手に入れて、皇国に睨まれている。
それだけのことができたこともすごいと思うのだ。
ただその分、リスクも大きい。
王太子がどのような意図を持って紋を授けたかはわからないけれど、友好的とは考えにくい。
バッドゥーラやパトレイアにとって害悪だった男を手懐けて、かき回したいだけなら……私でさえそれは下策とわかるのだからそうではないはずだ。
ユルヨは面白くなさそうに鼻を鳴らして私を見つめた。
ようやく笑みを消したその顔に、私は満足感すら覚える。
「愛しいわたしのダチュラの姫君。今回は引きますが……わたしは、貴女を愛しています。だからいつだって絶望させたい」
「……残念ねユルヨ、それは叶わないことと知りなさい」
そう、ディノスの民は彼を解放するしかない。
パトレイアの兵はここにいない。
いつかは王太子だって彼を裏切るかもしれないが、それでも彼はこの場だけ凌ぎ、私を恐れさせられればそれで満足だったのだと思う。
「アレン様」
「ああ」
そっと、手を離す。
アレン様は私の声に、応じてくださった。
そしてアレンデール様はただ一歩前に出て――ユルヨを斬った。




