第八十一話
ユルヨはゆったり笑って、両手を挙げる。
まるで降参すると言わんばかりのポーズだ。
「武器も何も持っておりませんよ。丸腰で、敵意もないただの平民を領主様は厳しく取り締まられるのですか?」
そうだ、ユルヨは……パトレイアで罪を犯したと言ってもその罪は公言されているかまでは私たちにはわからない。
ここはディノス国。
友好国の犯罪者だからと、一方的には捕らえられない。
(ああ、ここにアールシュ様がいてくださったら!)
あの方々がいてくださったら、堂々と取り押さえることができるのに。
罪はわかっているのに私たちには裁く権限がないだなんて!
いいえ、アレンデール様が領主として声を上げればそれで済む話ではあるのだけれど、ユルヨの大きな声に周囲の人々の不安そうな顔をしている。
ここで荒事を起こせば、ユルヨの思う壺であることは確かだった。
アレン様は静かだった。
「……妻に害意ある男を捕らえるのに理由は後でなんとでもなる。それに我らが友好国、バッドゥーラとパトレイアでお前は指名手配されていたはずだな?」
「さすが愛妻家は違いますね。確かにわたしはとある誤解からその二国で追われている身ですが……わたしはこの国では捕らえられない。そう約束されております」
「何? ……その紋章は」
ちらりと見せられたその男の手の中で光るものを見て、アレンデール様がますます表情を険しくする。
私にはそれがなんだったかわからないけれど、ただ、息を吸った。
ああ、呼吸ができる。
そうだ、隣にはアレン様がいてくれる。
私はあの時の私ではない。
「……何用で私たちの前に現れたのですか、ユルヨ」
「おや、冷たいお言葉だ」
にこりと笑うその姿は、どこから見ても優しい男性であるはずなのに。
その中身を知っているだけに、私は怖くてたまらなかった。
でも、自分でも驚くほどに……怖いけれど、以前よりも彼のことが恐ろしくはなかった。
「何用ですか」
「貴女に会いに。お迎えに上がりました、ヘレナ様」
「戯れ言を」
「そうでしょうか? わたしと貴女は共にあるべきだ。あるべきだった。不当なる政略結婚というもので、身分で、阻まれてしまいましたが……」
人の目が、耳が、私たちの関係を今疑うのだろう。
ユルヨの流れるような声に、哀切に満ちた表情に、さも私たちが両国間の政略のせいで引き裂かれてしまった恋人であるかのように思わせるには十分なほどだ。
「愚かなユルヨ」
「ああ、ヘレナ様。わたしはずっと貴女に焦がれてここまでやってきたのです」
「愚かなユルヨ」
私は繰り返した。
きっと私は、あの国にいた頃と同じように、冷めた目をしているに違いない。
それが嬉しいのだろう、ユルヨは僅かに頬を染めてとても愛しいものを見るかのように私を見ていた。
「貴女を愛して――」
「愚かなユルヨ。私が『悪辣姫』と噂されているからといって、お前を弄んだ女に仕立てようとしても無駄よ」
「……ヘレナ、様?」
自分でも驚くほどに、冷たい声が出た。
ああそうだ、私は『悪辣姫』なのだ。
人々の視線なんて気にならない。
それが、お前の望みだったのでしょう?
自分でもわかる。笑みを、浮かべているって。
「確かに私はお前が仕立て上げた『悪辣姫』、傲慢で、浪費家で、人を人とも思わぬ姫。だからこそ命令しましょう。護衛兵」
「は、はいっ」
ユルヨが、驚いたように私を見ていた。
でもそれを見ても、私は何の感慨も浮かばなかった。
「あの男を捕らえ、私の前に跪かせなさい」




