第七十三話
「……あなた、もしかして……シンナ・バァルなの?」
私の言葉に、場がしぃんと静まり返った。
だけれど、問わずにはいられなかったのだ。
一瞬のことだった。
アンナが武器を抜きテーブルを蹴飛ばしたかと思うとイザヤが私を抱えるようにして下がらせる。
派手な音に、部屋の外に待機していた兵が入ってきた。
シンナ・バァル。
かつて私の教師の一人であり、地質学を専攻していた男。
そして、私に毒の恐ろしさを知るべきだと、鉱物毒を体感させて笑った男。
その情報は共有していたからこそ、アンナもイザヤも私の言葉にこうして反応をしてくれたのだとわかるが、私は今それを喜ぶことよりも驚きでいっぱいだった。
勿論、普段お淑やかなアンナのあのメイド服のどこに武器が隠されていたのかとか、いつも穏やかなイザヤが武器を構えているのを初めて見たとか、テーブルが宙に舞って窓の外に出て行ったことも驚きなのだけれど……。
「パトレイアで一度捕縛され、その後護送中に行方がわからなくなっていたと耳にしていましたが、何故ここに……フルゴーレ様?」
「そっれは……その、彼はシンナ・バァルでは……ッ」
「……お久しゅうございます、ヘレナ王女殿下」
慌てふためくフルゴーレ様をよそに、シンナ・バァルは落ち着いた様子でマフラーを外し、髪をかき上げるようにして私たちに顔を晒す。
その面差しは随分と痩せこけ様変わりしているようにも見えたけれど、記憶の中にあるシンナ・バァルで間違いなかった。
「どうして、おわかりに?」
「指先に」
「指先?」
「あなたは鉱石毒に冒されたことがあって、指先にその痕跡があった。それを私に自慢し、私の指先が同じように染まった時、いつも楽しそうだった」
「ああ……」
彼は自分の手の平に視線を落として、クッと笑みを浮かべた。
シンナ・バァルの笑みの意味はわからない。
だけど彼はグッと手を握り込むと、私に向かってがばりと頭を下げたのだ。
「謝罪をしても受け入れてもらえるとは思わない。だがどうか、話を聞いてほしい。そして我々を救ってくれないか……!!」
「……なんで、すって?」
動揺で声が上擦っていないだろうか。
私はどうしていいかわからない。だけど、体が震えた。
あの日、鉱物毒に冒されて苦しむ私を『それが毒の苦しみだ』と笑って教え、それによって人が死ぬこともあると……確かに学びにはなった。
決してそれを人にやっていい話ではないことも学べたので、反面教師としては優れていたのかもしれないが、確かに謝罪なんてされたくないと思う。
「いかがいたしますか奥様、捕らえて拷問にかけますか」
「……もう兵たちも取り囲んでいるのだから、逃げようとは思わないでしょう。フルゴーレ様はどこまでご存じなのかしら」
「この男も同類だ。……今更、知らぬ存ぜぬは通用せんとわかっているだろう? あんたもお貴族様だったのだから」
シンナ・バァルの言葉に、フルゴーレ様が項垂れる。
この二人の接点なんて、思い当たらない。
「……過去は、消えない。このおれが貴女にしたことも、あの男の言葉に耳を傾けたことも。そして貴女があの男に愛された事実も」
シンナ・バァルが私を真っ直ぐに見てそう言った。
その言葉に、私は一気に息が苦しくなる。
(愛された? 愛されたって何?)
「奥方様!」
「わ、私はこの男をヘレナ様の前に連れて行くだけの約束だった! そうしなければ、妻が、妻が……」
騒ぐフルゴーレ様の声が遠くに聞こえたけれど、私はただ、シンナ・バァルから目を離すことができずにいたのだった。




