第七十話
「ほっほう、それはヘレナ様、決して『忘れていた』わけではないと思いますじゃ」
「……そうでしょうか」
「なかったことにしたい、そういう思いが強かったのでしょうな。諦めるお気持ちが強かったがために、怒りも悲しみも、無駄だと……そうお思いになって己を慰めておいでだったのだとこの老骨は考えます」
私はシュタニフ先生と植物学……といってもこの領地でどのような作物が適していて、それに加えてどのような改良をしていくべきかの話をしていた。
その中でアデラ様の話をして、彼女が植物関係で商売をしていることから頼める幅も広がるのではないかという話に広がって、昼間の話に繋がったのだ。
そこで言われた言葉に、私は曖昧に微笑むしかなかった。
「……自分では、もうそういった感情がなくなってしまったとばかり、思っていたのです」
「そうですな、わしらに会ったばかりの頃の姫様は、おっと……奥様は、そのような様子でありました。何も語らず、言われるままに動き、笑いも怒りもせず、何も欲さず……こちらとしては何故周囲がそれを疑問に思わないか、不思議でなりませんでしたがの」
「そう、でしたか? よく覚えていないのです。周囲の人間も、私には関心がありませんでしたから」
「それでも、ですじゃ」
シュタニフ先生のその言葉に、私は何も答えられない。
誰も関心を寄せなかった。それは正しくて、でも正しくないことを本当はわかっている。
「私のことを、王と王妃に望まれていない子であると周囲は見ていました。あの二人が関心を持たない存在に、どうして心を砕く必要があったのでしょう」
「……」
「だからこそ、私も自分をそのように感じていました。モゴネル先生と、シュタニフ先生が私に幾たびも声をかけ、笑みを向けてくれたことを……逆に、不思議に思ったくらいです」
「ヘレナ様……」
私は、きっとおかしかったのだ。
それが当たり前だと、麻痺していたのだ。
成長するにつれ、それがいかにおかしなことなのか、理性では理解できていた。
それでもあの場では、それこそが最善だと……私はそう思うしかなかった。
「全部、アレンデール様のおかげね」
「……お二人が幸せそうに笑ってくださると、わしももっと長生きがしたくなりますなあ」
「そうね、シュタニフ先生には是非に私が子を生んだ時には抱いていただきたいわ。そして、私の子にもこうして植物の話を聞かせてほしいと思っています」
「ほほ、光栄なことです。これは本当に長生きせねば」
ふと、図鑑に載っているダチュラの花に目が止まる。
美しく描かれた花は、毒があるなんて思えない。
それを指でなぞって、私はシュタニフ先生を見た。
「……フルゴーレ様はいつ来られるのでしょうね。アレンデール様がお戻りになる前なのでしょうが……あの男も、来るのかしら」
「来るかもしれませんな」
「……怖いと思うのは、当たり前ですか?」
「当たり前の感情にございますよ」
シュタニフ先生は不思議だ。
私の言葉を、引き出す眼差しを持っている。
王族として私は、感情を外に出すのはよくないことだと学んだ。書物で。
それ以外にも私の感情についてなんて、誰も興味なんてなくて、そして誰かに訴えればそれは疎まれて、要らないものだと思ったのに。
先生は、ずっと私に聞いてくれていた。
モゴネル先生は私にたくさんの書物を通して、豊かな気持ちを、その表現方法を教えてくださった。
シュタニフ先生はそれを、外に出すきっかけをいつだってくれるのだ。
「……アレン様がいてくれたらと、思ってしまうのは、私が弱いからでしょうか」
「いいや。あの御方ほど、奥様が頼るべき相手はおりませんからのう。ただどうしてもおそばにいていただけない時は、大変申し訳ありませんがこの老骨で我慢していただけたらと思いますのう」
シュタニフ先生が、私の頭を撫でる。
しわしわで、アレン様とは全く違う、細い手なのにその優しい撫で方に。
震える手の代わりに、私の目から涙が零れた。
「奥様の心は、正しく育っておられた。ただそれを表に出すことに、これまできっかけがなかっただけなのです」
「……はい」
「この地に来て、最愛のご夫君と巡り会ったことで今、全てが表に出てこようとしているのでしょうなあ。よいことですが、奥様の心と体のバランスが取れぬで苦労しておいでなのでしょう。そうじゃ、わし特製の薬草茶でも飲みますかな? 気持ちが楽になりますぞ」
「モゴネル先生が苦いと言っていたお茶ですか?」
「いやいや、あれはあやつが本の虫になりすぎて目が悪くなりそうで、それに効くのを調合したまでですじゃ。ヘレナ様にはちゃぁんと蜂蜜入りでご用意いたしますぞ?」
「……あの頃も、そうやって蜂蜜を入れてくださいましたね」
「ほっほ、可愛い可愛い孫のような愛弟子ですからなあ。特別ですぞ」
「先生」
思わず、だった。
ぎゅっと抱きついたら、ひげがくすぐったくて。
珍しく目を丸くして驚く先生が、それでも優しく笑ってくれて。
(ああ、私は甘えたかったんだわ)
先生が言ったように、私の感情はあふれ出しているのだろう。
それこそ自分の理解が追いつかないままに。
先生のヒゲがくすぐったかったけれど、頭を撫でてくれるその感触が優しくて、幸せだと……そう思った。
私はきっと、もう過去の亡霊に負けることなんてない。
そう、思えた。




