第六十九話
「……怒っているのかしら」
「え?」
ぽつりと、そう零すようなアデラ様の言葉に私は目を瞬かせる。
そんな私を見て、彼女は困ったように微笑んだ。
「まあ当然よね。アレンデールにあれこれ押し付けたわたしや、それでいて自分の立場が危うくなった途端に碌でもない行動をし始める兄、そんな存在はあなたにとってとても腹立たしいことだと思うわ」
「……怒る……」
「ええ。辺境伯夫人であるあなたを軽んじているつもりはないし、嫁いで来てくれてこの家の人間となってくれたあなたに感謝こそすれ、ひどい態度だった。挨拶もせず、遠巻きに……」
「怒る、そう、ですね。確かに、これは……このもやもやとした気持ちは、そうなのかもしれません」
「え?」
「ですが私がそれを感じているのは、アデラ様、貴女に対してではありません。そして、貴女の兄であるフルゴーレ様に対してのものでもありません。私がそれを感じているのはただ、ユルヨに対してのみです」
「……ヘレナ様、あなた……」
そうだ、言われて気がついた。
私のこの胸の中に渦巻いたこの感情は、ずっと忘れていたものだ。
私は、腹を立てているのだ。
アレンデール様の大切な人を使ってアレンデール様を傷つけ、そしてそれをもって私を傷つけようとするユルヨのその卑劣な手段に対して。
(私は、感情を捨てていたわけではなかった)
何もかもを諦めて、どうしようもないからと呑み込んでしまっていただけで……私は確かにこの感情を知っている。
両親の愛を一人で受け取っていた兄にも、兄がその愛に溺れそうで苦しんでいることに気がつかない両親にも、見て見ぬ振りをしていたサマンサ姉様にも、自分たちだけ楽しそうにしている上のお姉様たちにも。
そして何もできない、弱々しい自分にも。
私は、ずっと怒っていたのだ。
「アデラ様、本日はありがとうございました。近日中にフルゴーレ様がお越しになるというならば、私はアレンデール様の妻として歓迎しなければなりませんね」
「……ヘレナ、様」
「私はパトレイアの姫ではなく、モレル辺境伯アレンデールの妻。夫の家族を守るのも、家を任された妻の役目です。……至らぬところの多い未熟者ではありますが、どうぞこれからは親しくしてくださると嬉しいですわ」
「……ありがとう、ございます」
私は、私を取り戻さなければならない。
徐々に徐々に、アレンデール様のおかげで私を縛る鎖は外れ、取り戻しているのだとわかる。
それは怖いことでもあるし、未知の物に触れるようでわくわくもする妙な気持ちだ。
だが、不思議と……心は凪いでいた。
(私は、喜ぶことができる。そして、怒ることができる。……誰かの為にという感情がある)
『貴女は、人形のようにしている時が一番愛らしい。僕は、そんな貴女を――』
(それは違うわ、ユルヨ)
私を縛り付けるようなあの男の声。
恐ろしくて忘れてしまいたくて、心の奥底に追いやったそれが今となって顔をちらつかせ、私を恐怖に陥れる。
だけれど、今はそれに対して哀れみの気持ちすらあった。
(そうよ、何を恐れていたのかしら。私は怒るべきだったのだわ)
何もかもが愚かしい、そう思うものの心は妙に凪いでいるからとにかく不思議だ。
急に落ち着きを取り戻した私に、アデラ様も困惑しているけれど……自分でも笑ってしまいそうなのだから、どうしようもない。
「アデラ様はしばらく逗留なさいますか。アレンデール様はまだしばらくお戻りにならないかもしれませんが……」
「え、ええ、できればお願いしても?」
「はい、勿論です。アンナ、お部屋の準備を」
「かしこまりました」
何かが変わったのかもしれないし、変わっていないのかもしれない。
だけれど、私は『怒ること』ができるのだと自覚したことで、また一歩前に進めた気がしたのだった。




