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ミゼン17

 翌日、学生達は表の歓楽街を恩師と共にこのきわめて健全な享楽を楽しむ事となった。

 芸術の都ミゼンは、美食の都でもある。ここまでの都市と比較して長い滞在期間を有するミゼンにおいて、多様な味覚を楽しめるこの町は旅行客を十分に満足させるであろう。

 昨晩はやや沈んだ様子だったクロ―ヴィスをたびたびに気にしつつも、バニラはしきりに唾を飲み込んでいた。

 町を包み込む、玉葱の香り。カチャカチャと鳴く陶磁や銀の食器たち。きわめて騒々しい厨房から漏れ聞こえる罵声や怒号の様な掛け声。これら全てが道行く人の食欲をそそる。


 新市街で食べ歩きを楽しむ彼らもまた、そうした通行人たちと同様の快楽に身を委ねていた。


「卵うめぇ」


 クロ―ヴィスは堅ゆで卵をソースで煮込んだものを両手に持って咀嚼する。通りすがる人がこれを見て、ゆで卵屋に行列を作った。


「食べこぼしますよ……」


「ふぁ、いしょーふって。あんいんしょーよ」


「零れてます零れてます」


 行儀悪く食べこぼすクロ―ヴィスだったが、ここではそれほど珍しい姿ではなかった。通行人が「また旅行客か」と冷めた目線を送っているだけである。


「この卵は新節祝いの卵祭りの時に、色鮮やかな卵を配る風習から、食べる時も色付けをするようになったのが起源だとされているそうだよ」


 クロ―ヴィスが次の屋台に三人を引っ張っている間に、ルクスとバニラは一口頬張った卵の中身を観察する。良く染みた白身は余すところなく茶や、クリーム色、淡い黄色に染められており、黄身の黄色だけが変わらず残っている。


「そう言う逸話なら、ミゼン以外の町でも作れそうですけど、庶民に浸透するだけの技術が無かったのかもしれませんね」


 ルクスは黄身を透かして見るように持ち上げる。


「金のなせる技、だねぇ」


 バニラは両手で持った卵を口に運ぶ。白身はつるりとした触感で、噛むと黄身がぼろぼろと崩れる。良く色の染みた白身がソースの味のクッションとなり、優しい風味に抑えられている。


(高級な味……)


 バニラにとって、卵などの動物性タンパク質は概して貴族の食事なのだが、この色付き卵はその思いを益々強くさせた。様々な調理を施した貴族の食卓の一部を、彼は大層有難そうに頬張る。


「おい、ミゼンに来たら玉葱料理を食わねぇとな!」


 バニラが食事に熱中していると、先ほど雑踏の中に飲まれていったクロ―ヴィスが、大きな声をあげる。


「珍しく同意しよう!今そっちに行くよ!」


 ルクスは卵を片手にゆっくりと歩き出す。バニラは慌てて食べ切ると、少し噎せながら彼に続いた。


 バニラとルクスは追いつくと、壁に箒を掲げ、そこにオニオンの看板を吊るした古い建物の前にいる三人を捉える。ピンギウは屋台を廻れずやや不服そうなじっとりとした目つきで、二人を睨んでいた。


「ごめんよ、遅れたね」


 ルクスはハンカチを胸から取り出し、これで首元を軽く仰いだ。


「集まったな。先生、先入りますね」


 クロ―ヴィスが扉を開いた途端、強烈な濃いにおいが一気にあふれだした。目に染みるような幻覚に思わず目を半分閉ざしながら、バニラはご機嫌な様子のクロ―ヴィスに従う。クロ―ヴィスは混雑した食堂の角の席二つを寄せ、五人席を作る。隅に寄せられた椅子一つを動かすと、右前の席に腰かけた。


「ふむ、ここは、僕がここだね」


 ルクスは迷いなく右の壁際に腰かける。ピンギウとバニラは顔を見合わせた。


「俺、手前がいいや」


「僕は手前でもいいですよ」


 両者は同時に言って再び黙り、先にバニラが手前の席についた。

 クロ―ヴィスが肘をつき、バニラに笑みを浮かべる。


「いい選択だ。気障者の前だとくどくて食事もできねぇ」


「随分と行儀が悪いね、君は。もう少し常識というものを学んだほうがいい」


「じゃあ聞くがな、常識ってのはなんだ?無学で済まないが教えてもらおうか?」


 両者は微笑を湛えて臨戦態勢を整える。バニラは普段通りの様子に安堵感を抱き、深く腰掛けなおした。


「二人とも議論は後にしなさい。食事を頼もうじゃないか」


「とりあえずエール」


 ピンギウは手を挙げて店員を呼ぶ。不意を突かれた店員は慌ててピンギウの傍に寄るが、席ではまだ、メニューが開かれたままであった。


「あ、俺も取り敢えずエール」


「私は水を頂こう」


「僕は一先ず赤ワインと、それからブルーチーズを」


「あ、ブルーチーズはキャンセルでいいぞ」


 店員が苦笑する。彼はそのまま、「畏まりました。またお呼びください」と言うと、厨房に注文を伝えに向かった。


「さて、料理はオニオン尽くしと行こうか」


 ルクスはメニューをめくる。簡素な文字で、様々な料理名が並んだメニューは、飾り気はないが、気分を害する派手な装飾も無い。ルクスは適当にメニューを決め、改めて店員に料理を注文した。


 バニラはリラックスした様子で内装を見回す。壁に掛けられた特許料理師免許状には、店主らしい人物の名前と、認可担当者であるミゼン市参事会長のサインが記されている。いずれも達筆で手早く書かれており、店の実力を証明していた。すぐ下にはビールの認可状が掛けられている。ビールは製造には認可が必要だが、この認可状は、この店が確かに「ビール」を製造している、という証明でもある。


「試しにビールを椅子に零して座ってみるかい?」


 ルクスはバニラに尋ねる。鼻に馴染み始めた玉葱の匂いが、炒める音とともに期待感を齎す。


「いやぁ、信頼しましょうよ」


「あそこにあるビール樽から混ぜ物が出てくるかどうか、賭けるってのも面白そうだな」


「やめておきなさい……。トラブルのもとだからね」


 モーリスは手を濯ぎながら咎める。クロ―ヴィスは「分かってますよ」と答え、示し合わせたように店員が料理を運ぶ。


「お、待ってました」


 ピンギウは無言で酒を持ち上げ、一気に飲み干す。バニラやクロ―ヴィスは玉葱料理から立つ湯気を嗅ぐ。食事の準備を終えたモーリスが、手をナフキンを拭うと、学生達はグラスを手に持ち、恩師の言葉を待つ。

 モーリスは一つ咳払いをして、学生一同を見回した。


「それでは、我々の旅の祝福への祈願と、聖カペラの恵みに感謝して……」


 半分減ったジョッキと、満杯のジョッキが持ち上がる。気温や興奮や酔いで赤らめた顔が、期待の眼差しを向ける。バニラは今朝食事を抜いたが、ゆで卵ではまだ物足りない。腹が背につくのを耐えながら、彼がこの瞬間をいかに心待ちにしたことであろうか。一拍焦らしたモーリスは、再び大きく息を吸いこむ。そして、彼らしからぬ若々しい大きな声をあげた。


「乾杯!」


 ジョッキの擦れ合う小気味良い音が響く。一同は、最高の一杯を、まず初めに嗜んだ。


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