ミゼン15
‐‐かつて神々が散りばめた星々は、天に貼りつき吊るされたものだと考えられていた。大地を支えるのは巨大な象や亀であるかもしれず、吊り下げられた星々は遥か届くこと無き天界の奇跡であったかもしれない。しかし、いかに他国と比べて科学的知見に後れを取っているカペル王国といえども、他国との交流の中で、地上が球体であることを認めないものはいなくなった。
しかし、彼らのうち、誰が、球体である様を天から覗き見る事が出来たであろうか?王でさえ、天界に足を踏み入れる事が出来ないにも拘らず、どうしてそれを真実であるという事が出来ようか?‐‐
……バニラ・エクソスの無邪気な天体観測を手伝ったあと、程よい微睡に酔いしれる俺は、モーリス先生の凝り固まった肉体や、疲労しきった脚を解していた。
仄かに香るラベンダーの甘い匂いは、疲労した老人の心身を癒すには丁度良いものであっただろう。いくらか体が楽になったらしい先生は、ベッドに横たわりながら、穏やかな微笑を湛えていた。
「すまないね、このようなことをさせてしまうなんて」
「構いませんよ。ほら、俺は、金払って胡坐掻くほど、先生を見下してはいません」
少し間をおいて、先生は静かに「そうか」とだけ答えた。
実際、学生という奴は金持ちばかりだ。親の金で家庭教師に習っていた奴らは、講師を目下の雇人だと考えている。俺がそれに我慢ならないことは、多分分かってもらえるだろう。「金を支払って教えを乞う」というのは、単に双務的な契約であり、この契約の基本は、相互に上下関係が無いことが前提にあるべきだからだ。そう言うわけだから、俺は先生を見上げる程尊敬してはいないし、見下げる程俺が偉いというわけでもない。つまり二人に上下関係はなく、だからこそ俺は気兼ねなく先生に噛みつくことも、打ちのめされることも出来るわけだ。
‐‐個人間の契約関係に双務性が生じる契約には、上下関係は存在しないべきだ。何故なら、義務と権利の関係を相互に主張できることこそが、契約関係の安定化と、個人間の関係性を論理的に解決するために最も理想的な状態を作るからである。
もし仮に、上下関係を採用したとすれば、上なる者は権利を主張して義務を放棄することが可能となるだろう。この時、契約締結の際に「神に誓った」関係性は何の意味も成し得ず、下なる者の権利を剥奪する事だけを可能にするからである。これは契約に限らずあらゆる法律行為の秩序を破壊し、社会を自然状態、『万人の万人に対する闘争』状態に引き戻すことになるだろう。‐‐
「クロ―ヴィス君、君は随分、深く考え込む所があるらしいね」
「はっ?」
俺の手が止まると、先生は苦しそうに体を起こし、普段では考えられない程寛いだ様子で足を組んだ。その眼差しの威圧感に、嗅覚が鈍くなる。
「ずっと思っていたのだが。君は自分の主張を正当化するために常に神経を尖らせているのではないか?だから、多少怒りっぽい所もあるし、楽しみに浮かれる間にも間を刺すような事を言ってしまう。それは周囲から見ると、『子供っぽく』……見えてしまうのだろうね」
俺は口をパクパクとさせながら、怒りの感情と戸惑いの感情とを織り交ぜた非難を先生に送ろうとした。しかし、眠気の為か、思考がうまく纏まらない。
「君は君自身を素直な自分だと、多分そう思っているのだろう。しかし、君の明晰さは君の感情と論理を結び付けるのに随分苦心している。どうだろうか」
俺は言葉を出せないでいた。自分の中にある理性的な部分が、論理でこの言葉に反対しようとしている。自分の正義に適うことが、全ての素直な自分の感情になっていると。しかし、暗い靄の様なものがかかり、感情と論理を結び付ける事を拒んでいた。正義に適う回答を出した時の溌溂とした感情は、今は見出せないでいる。
「君がクワガタを見つけたときに、無邪気な笑顔を見せたことを、論理的に説明する必要はないだろう?」
「それは……そうですが。だが、俺の正義に適う事は、少なくとも俺の感情と結びついていなければおかしいでしょう」
先生は優しい瞳でこちらを見つめている。それは酷く子供っぽいものを見ているようであり、慈悲深く、同時に『上下関係』を見出しているようだった。
「そうだろうか?私は、自分の子供を殺されたときに、社会秩序を保つために裁判所に駆け込みはしないだろう。まずは、その手にキッチンのナイフを握ることから始めると思うよ」
自分の思考回路に違和感を覚えた。すぐ後に、その理由付けが脳内に迫りくる。
‐‐それは違う。怒りを抑え、真っ当な法的な手続きで処罰をするべきだ。そうでなければ、秩序を維持する事が出来なくなる。誰かを憎しみで制裁することを正当化すれば、それは無秩序と同じだろう。‐‐
‐‐……だったら「俺」はどうだ?不法出入国、罪人の被験者化、死者の解剖。現状、法的にとても許されない行為をして来たアイツの事を糾弾できないのはなんだ?何故、「正義」で制裁が出来ない?‐‐
「本当は分かってるんです。俺は、矛盾した感情を抱えている。腐れ縁の糞野郎のやって来た悪事を飲み込んで、今のままの関係を続けたいと思っている。でもそれは、俺がしていいことじゃない」
体中から体温が抜け、ぶるぶると身が震え始める。思考を維持できなくなり、頭を抱える。論理的な言葉で補足が出来ない感情が雪崩のように脳に圧し掛かってくる。五感が恐ろしい程研ぎ澄まされて、甘ったるい臭いが鼻に、そして、歪んだ水球のレンズに浮かんだ壁が瞳の裏に、迫ってくる。胃から酸が逆流したように、酸っぱい味が舌に広がり、押さえたこめかみがぎすぎすと痛みを帯びる。肌の色が抜けていくのを感じる。それと同時に、自分の中の正義が揺らぎ崩落し始める。
最早、俺に良き法を語る資格はない。
「先生、俺もう分かんねぇよ!俺の理屈が正しかったら、あいつがどうにかなっちまうんじゃないかって、不安で!俺は間違ってるのか?なぁ!」
理屈で全てを説明できればどれだけ楽だろうか!この町でカップルを貶めようとした「感情」が、俺の邪魔をする。心は何故、正しさを放っておいてはくれないのだろうか?
しかし先生は、俺の肩をポン、と叩くと、柔和な笑みで答えた。
「それも君の本質だ。心を強く持つ必要はない。ただ、迷った末の答えからは逃げない事だ。そこから逃げる事は、生涯のしこりとなるだろうから」
頭を抱えたまま、首を横に振る。先生は、幼児の様な俺を、俺が眠りにつくまで、優しく慰めてくれた。