ミゼン14
夜の静寂は、バニラにとって貴重な時間であった。虫の鳴き声が夏の深まり行くのを感じさせる。うだるような暑さというにはまだ少々涼しく、但し確実に時間が気温を押し上げているという感覚が、寝間着の薄くなるのにしたがって改めて感じられた。
時祷書に記される季節の移ろいでは感じられない、こうした全身が感じる季節の変化に、バニラは夜の天体観測と計測の間に感じ取っていた。
「あれが北極星か?」
「そうですね」
バニラは協力的な助手三名と共に、四分儀で角度を測定する。指南魚の扱いにも慣れた貴族の男は、ぷかぷかと水中を泳ぐ指南魚を眺めながら鼻歌を歌っている。
「計測値出ました……。昨日の予測との誤差は0です」
バニラは片手で滑らせていたペンを置く。星の位置を記録した図の下に、前回の計測結果と今回の記録の位置が記されている。定刻ごとにほんの数ミリの動きを見せる星の運行は、彼の膨大なデータの1頁に過ぎなかった。
「そうか。じゃあ今回も頑張れ」
クロ―ヴィスはバニラのメモを覗き込みながら言った。バニラは顔をクロ―ヴィスの方に向けて笑う。
「えぇ、ありがとうございます」
クロ―ヴィスは、天体観測を勤しむ間のバニラにとって、一番の友人であり師匠である。彼はバニラの補足する分野のうち、特に計算の間違いに対して厳格であった。バニラは彼と共に宿泊する間に、随分と観測結果と予測の誤差を縮める事に成功していたうえ、それに要する時間も徐々に少なくなっていた。
「しかし、羅針盤なら古いのがうちにあるよ?」
ルクスは指南魚を弄びながら言う。観測具の片づけを始めたバニラは、苦笑交じりに断った。
「こっちの方が使い慣れていますから……」
ルクスが子供の様な素朴な表情でバニラを見つめる。暫くして、「使い慣れた道具が一番だからね」と眉尻を下げて答えた。
「今日先生と泊まるのは誰がいいかな?」
広々とした中央のベッドに尻を埋めながら、ルクスは切り出す。荷物を片付けたバニラが席を立とうとしているのを、彼はそのすました視線で止めた。
「……昨日と一緒でいいんじゃねーの?」
クロ―ヴィスはルクスのすぐ後ろで寝そべったまま答える。彼は、バニラの観測が定点でも改めて行われる方が良いことを理解していた。バニラもそのつもりで荷物を持ち上げていたので、彼の言葉に同意して頷く。しばらく間をおいてから、ルクスは中央で寛ぐクロ―ヴィスを指さして言った。
「クロ坊、バニラ君と隣の部屋で天体観測をしてから、そのまま部屋で休むと良い」
「はぁ?なんでそんな面倒なことを……」
ルクスは手元でマッサージのジェスチャーをする。クロ―ヴィスは顔を顰めたが、彼がジェスチャーを止める気が無いらしいことを悟り、深い溜息を吐いて身を起こした。
「バニラ、行くぞ」
「え、あぁ。はい」
バニラは慌てて荷物を持ち替え、出口へ向かう。クロ―ヴィスは去り際にルクスを睨みつけたが、頭を掻いて部屋を出ていった。
しばらく間をおいて、隣の部屋から教授へ挨拶をする声が響く。
「なんの意図があっての采配ですか?」
酒を隠したままのピンギウは、やや苛ついた様子でルクスに尋ねる。充満する酒臭さの代わりに、キャンドルはラベンダーの匂いを周囲に漂わせていた。
「まぁ、彼も、『情に流されるところがあるからね』。僕は本気の議論というものに、関心があるのさ」
ルクスはそう言うと、ピンギウの寝ている側に体を向きなおす。皺の寄ったシーツが、シュッと音を立てて元の位置に引き寄せられる。
「それは何か理由があるのですか?」
「そうだねぇ。僕が貴族様で我儘だからかな?」
ルクスはウィンクをして見せる。向かいから、呆れたように鼻が鳴った。
「……アルコールが足りないみたいだね」
「やめてくださいよ、益々苛々する」
ピンギウは鼻の上に皺を寄せる。鼻につく馨しい香りが、広がった彼の鼻腔をくすぐった。
隣部屋から真剣な話し声が聞こえ始める。そこに交じって、モーリスの短い悲鳴が断続的に響く。町を覆う暗色に、満点の星空が浮かんでいた。