ミゼン9
‐‐クロ―ヴィス、ルクスら‐‐
人間を駆り立てる力のうち、そのほとんどの力が負の引力であるというのは、残念ながら真実である。また、正の引力が負の行動に人を駆り立てる事も少なからずあり、私たちは往々にして負の行動に引き摺り込まれる。まして、それが人間へ対する嫉妬や、愛憎入り乱れる恋愛の舞台であれば猶更であろう。
人の幸福の殆どに寛容なクロ―ヴィスだったが、人前でこれ見よがしにいちゃつくカップルのことだけは、彼は許してはいなかった。低身長かつ激情家の彼は、長らく「子供のように」愛されることはあれど、「恋人」として愛を受けることは無かった。それは、カペルの残酷なルール‐‐即ち、男性諸君のうち、特に無力な人々が苦痛を覚えるように作られたルール‐‐に則った、人々の選択の結果である。
「しかし、君なら寛容に祝福してやってもいいと思うのだがね?」
「うるせぇ。これは俺の戦いなんだよ。カペル全土の不埒な連中を、この豆粒みたいな手で叩き壊して、失墜させてやる!ルクスも協力しろ!」
今、彼らの前にいるカップルらしい男女は、ミゼン名物の絹市場で生地を選んでいる。男はどの生地にもたじろぎ、頭をかいて笑う。その赤面に劣らず、ルクスの傍らにある顔も真っ赤に変色していた。
「あああああああああああああ!あいつが選んだ生地を台無しにしてやれ!」
「冷静になろう。台無しにするなら、彼女に一番似合わない生地を選んでやろうじゃあないか?」
「天才か?持つべきものは友だな!早速呼子に扮して出発だ!」
クロ―ヴィスは自らの旅装を剥ぎ取り、客寄せ用の子供らしい服に整える。路地裏での凶行を一目見た通行人は、血走った目をした年若い少年に見える男を、思わず二度見して通り過ぎる。額に青筋を立てた少年は、およそ子供らしからぬ猟奇的な笑みを浮かべ、保護者の男に旅装を押し付けた。
「ふっへへへ……俺の数ある少年変化のうち、最強のそれを見せてやるぜ……」
(これがほんとの紅顔の美少年、てね?)
クロ―ヴィスは頬を叩き、無邪気な笑顔を作って彼らのところに駆け寄った。スキップをする脚にも力が入る。
「おにーちゃん、おねーちゃん!こんちは!」
満面の笑みと言う仮面をかぶり、男は虎視眈々と獲物を狙う。男はやや眉根を寄せ、女性は愛おしそうにクロ―ヴィスを撫でた。
「あら、こんにちは。元気な子ね」
「えへへ……。生地、選んでるの?おねーちゃんが着るの?」
彼はわざとらしく陳列棚を見回す。店員と彼はやや笑みを引き攣らせたが、彼女が少年を可愛がっている以上、それを叩き出すような「嫉妬深さ」を見せることも出来ない。含み笑いでやり過ごそうとしている中、クロ―ヴィスは笑窪を作って「無邪気な」追い打ちをかける。
「選んであげる!これ!」
クロ―ヴィスは迷わずに、酷くけばけばしい生地を指さした。彼女もやや狼狽え、彼はクロ―ヴィスを追い払おうと、その襟首をつかんだ。
「ほらほら、子供は帰った、帰った!ここからは大人の時間だからねー」
襟を掴まれた少年は、一瞬笑みを消し、男の方を見ながら目に一杯の涙を貯めて見せた。思わぬ反応に彼は狼狽える。
「だって……似合うと思って……」
「あ、えっと……」
「そんなに酷いことしなくてもいいじゃない?ごめんね、僕」
彼は不服そうに少年を降ろしてやる。泣きじゃくる声に、周囲の視線が一気に彼に集まっていた。彼は周囲の刺すような視線になすすべなく、きょろきょろとたじろぐだけだった。
「私、この生地にするわ」
「えっ!いや、でも……」
反論をしようとすると、彼の視界には目を真っ赤にして潤ませる少年が入り込む。通行人の強烈な視線に、彼はおずおずと引き下がるしかなかった。
「君なら何を着ても似合うと思うよ……」
彼は顔を伏せて言う。もはや彼の体裁を取り繕うには、それくらいの言葉しかなかった。通行人も、一件落着とみて、各々の目的に戻っていく。彼女の弾けるような笑顔だけが、彼に対する唯一の救いだっただろう。
「ありがとう。これ、ください」
店員は威勢よく返事をする。彼が少年を一瞥すると、少年は親指を立てている。彼はこの狡猾な男に対し、取り敢えずは有益な者を見出して、トラブルを不問とした。
かくして、彼のデートは出鼻を挫かれる形になった。